武器を描く事のむずかしさ
武器といいつつ、結局 自分が判っている日本刀の話になってしまいました。
今回は作り方ではなくて使い手としての話と、武器を使う事を描く場合のお話です。
多くの小説で、武器が登場しますが、武器を描く場合に注意すべき事を書いてみます。
小説は、自身の体験を元に書く事が多いのですが、武器については体験が困難です。
日本刀を例にとれば、居合を習えば 刀の扱いや、刀を使う為の型を覚える事は可能です。 また、据え物斬りを練習する事も出来るかもしれません。 もちろん、このような体験があれば、自身の体験を元に描写が可能です。 とは言え、そこで出来るのは、戦闘の模擬訓練であり、斬る練習です。 ゴルフで言えば、練習場で球を打っている状態で、コースで実戦をする事とは異なります。 当然ながら、日本刀で実戦をするのは稀有な体験であり、二次大戦の従軍した日本兵でも、非常に僅かの人しか体験の無い事です。 これは、昭和に始まった事では無く、江戸時代の武士でも実際には、斬る事の体験をした人は稀有で、殆どは稽古だけ、ひどい場合は稽古すらもしません。
それが何故判るかと言えば、幕末の一時期だけ京都では、刀による斬り合いが復活して、そこでは刀を扱い慣れていない故の、自損事故が多く発生した事が記録に残っているからです。 つまり、自分の刀で、自分の指や足を切る自損事故です。 これは昭和の帝国陸軍でも発生しており、軍刀の扱いについての注意喚起の文書が出ている事からも、判ります。つまり、刀を持っている事と、使える事は別で、更に実戦経験となると稀有になるという事です。
このように実戦は稀有であるにもかかわらず、小説における刀や剣による戦いの描写は多く、書く方も読む方も体験が少ない中で書く必要が出てきます。 このような場合に、書く側としては、具体的に書くならば、資料を丹念に調べ、可能ならば現物(模擬刀でも可)を扱ってみる事です。模擬刀でも構造は同じですから、刀と拵え、緒の扱いは体験的に判ります。それにより、刀はなぜ左に挿すか、打刀は刃を上にして帯刀する意味が判ってきます。更に詳しく体験したければ、居合などを習い、実際に刃のついた刀を使い、藁束を切ってみれば、斬るとはどういう事かが判ってきます。 初心者の時期は誰でもありますが、その時には、斬る時の手の内の感覚や、失敗すると簡単に刀が曲がる事や、目釘や柄拵えの大切さが判ると思います。 日本刀の研ぎは専門家に頼むと非常に高価ですが、手軽な値段の刀を自分で研いで斬る事をすれば、どのように研ぐのが良いかも判ってくると思います。そのような作業をする事で、武器や道具としての日本刀のイメージがつかめてきます。道具としての武器を理解する事は、他の剣や武器への理解も広げます。
私は、そんな事を全ての作者がするべきとは思いませんので、興味を持つ人がやってみれば良いのだと思います。 小説の作者は、そうした人の体験を聞くだけでも参考になると思います。 実際を理解し始めると、多くの読者が持っている思い入れや、「想像上の日本刀」と 「実際の道具としての刀」の間にあるギャップに気付いてくると思います。 それが判った上で、どのように読み手の気持ちを幻滅させずに書けるかが作者の力量なのだと言えます。一つだけはっきりしているのは、何も知らないまま書いている事と、知っていて書いている場合では、内容や描写は大きく異なります。
もう一つの書き方は、全く具体的に書かない事です。 刀は武器であり、手段の一つです。ですから、戦いを描くのが出来れば、その道具がどのようなもので、どのように使われるかの描写は必須ではありません。 創作小説の作品を読んでいても、具体的な武器の使い方の描写をしないでも、素晴らしい作品は随分と見受けられます。 自然な描き方としては、自分に判らないものは、判らないものとして描く事も正しい方法です。 例えば、仲間に剣豪が居て、敵を倒すという結果の凄さや、動きの素晴らしさを活写する事は出来ます。 どうやったかは素人の主人公ならば、見て何が起きているか理解できないというのは、実際の状況と思います。『ルパン三世』のゴエモンは、居合の達人の設定ですが、脇役ですから主人公のルパンからみれば、凄い奴という描写で十分で、一人称での具体的な描写はしていません。斬鉄剣が、どのようなものかは書く必要は無いのです。 読み手の違和感を生じるのは、単なる本の上の知識だけで未消化のままで描写したり、現物を良く知らないままに一人称で薀蓄を書く事です。
最後に、もう一つの描き方です。 日本刀という実在の道具や武器から離れて、ファンタジーの世界や、仮想ゲームの世界の中で自分の設定の中で描いてしまう事です。この場合は、人間の体の構造や能力が、実態から離れていますから 自分が設定をしっかりやれば、その世界の中で自分の武器を描けば良いのです。 但し、それには自分がしっかりした世界を作り上げる必要があります。 結局、どのようなアプローチを取ろうが、強固な設定は必要で、その為には現実世界を反映させるか、自身が作った世界を投影するかの違いが描写の仕方に現れる事になります。
いづれにせよ、資料しらべと設定の整理は重要な事項です。そして自分の作品の立ち位置を自覚している事が必要です。同じ作品の中で、立ち位置が変わる事は、読み手に混乱を与えますので、作品の中では一貫している必要があります。どのような書き方であれ、しっかりとした設定と、作品の立ち位置が明確な場合には、読んでいて判り易く、作品の世界に入ってゆく事が出来ます。 武器であれ、魔道具であれ、そうしたしっかりとした設定は重要なのだと思います。
おまけ:日本刀の実際についての参考資料
成瀬関次著『実戦刀譚』
同著 『戦う日本刀』
昭和の中国戦線で、実際に用いられた軍刀を修理の為に従軍した刀工による記録です。
実際の日本刀が、どのようなものであったか体験的に語られています。
表現上は、時節柄 取材した陸軍への配慮がされ、記載の内容を読みとるには、多少の注意が必要です。 ある程度読み込むと、立場上 否定的な記載はしていないが、本心は逆である場合の書き方が見えてきて、テキストの読み方としても面白い本です。
これらの本は、「百人切り論争」の証拠本として、否定派・肯定派 いづれもが利用した面白い位置にあります。 肯定派は、記載された軍人の自慢話をその証拠としていますし、否定派は実戦の中での日本刀の脆弱性を論拠としています。 両派の利用者が多いので、実際の本の入手は困難ですが、国会図書館でデジタル化されていますし、ネットでも個人が電子化したものが見つかります。 日本刀に興味がある人にはお勧めの本です。 美術品としての刀と、武器としての刀の違いや、伝統的手法と近代的な鉄精錬技術との融合が どのようにあるべきかなど、様々な角度から読むことが出来ます。
映画や小説の描写と、実態が異なる事は読み込むほどに判りますが、一例をあげておきます。 時代劇や映画では、刀に手を添えると「カチャ」と金属が動くような「鍔鳴り」の音がしています。 これは、これから斬るぞという予備動作の表現なのでしょう。 また、刀を鞘に納めた時には、カチャという「鍔鳴り」の音が表現されます。
実際に刀を持つ人ならば、「鍔鳴り」はトンデモナイ状態と知っています。刀に手を掛けてこの音がするならば刀身と鍔の間が緩んでいて斬れない状態、鞘と巾が合わず刀が鞘から簡単に抜け落ちてしまう、非常に危険な 整備不良な状態です。
成瀬氏は、著書の中で「世に鍔鳴りなどという言葉が流行しているが、鍔が鳴るようなぐらついた刀を佩用するのは、まことだらしのない話であって、おそらく刀に作法をもたぬ市井のごろつき又はやくざといわれるような 輩から出たものと思われる。」と書いており、この著作がされた昭和15年時点で、すでに「鍔鳴り」に対する誤解が一般的だった事が伺えます。