魔法について:現実と創作のバランス
魔法はファンタジーの定番でもあり、設定の華です。
創作小説では、様々な魔法が飛び交い、魔法の原理も様々に工夫され創作されています。
魔法は、現実世界の制限を乗り越え、登場人物の意図に基づいて、随意に発動します。
多くの魔法は、発動には何等かの条件(詠唱、魔法陣などと、当然に魔法の才能や習得)があり、魔法の発動に必要なエネルギーは、何等かの方法(魔素,マナ、MPや、エーテルなど)で供給する事が必要になっています。 その意味では、創作小説の魔法も、何等かの理の中での制限を受けています。
創作小説を、色々と読んで気付いたのは、殆どの魔法は、現実の世界では「魔法によらず」実現可能な事です。 但し、現実世界では、魔法無しに実行するには、事前の周到な準備が必要であり、お金もかかります。 魔法に必要なエネルギーは、現実世界ではお金によってまかなう事が可能です。
例えば、火を出す魔法ならば、燃料と燃焼用の道具を買って実現できます。
空を飛ぶならば、飛行機やヘリなどの乗り物の利用で実現できます。(爽快感は別)
治療の魔法ならば、病院の治療で出来ます(治療のレベルは相違あり)。
現実世界では、これらを発動させるには、お金と時間(主に準備の為)が求められます。 創作小説での魔法は、お金と準備時間(詠唱の時間や魔法陣の準備時間を除く、発動の為の予備時間)は、殆ど不要です。
魔法は、こうした現実世界の制限や不自由さを取り去ってくれる点で、読者にとっても魅力があり、カタルシスにもなります。 それでも、創作小説の中では、魔法の実行には、様々な条件があります。 それは、魔法に関する才能(先天的)や訓練(後天的)であり、実施に必要なルール(詠唱や魔法陣)であり、魔素、マナのような動作の為のエネルギーです。 創作小説の魔法が、現実世界のカタルシスの面をもっていながら、さまざまな制限をもっている事は、一見 矛盾しているようでありながら、大変 重要な事と思います。
創作小説の主人公が無敵で、魔法で全てが解決したら、小説としての面白みは無いでしょう。 創作小説における魔法は、裏では実世界と同様な制限を受けながら、それを主人公や、創作した世界の中で、現実世界とは異なる方法で解決する点が、作者の腕の見せ所でもあり、読者の醍醐味だと、私は思っています。 魔法は、理不尽な現実を 覆せるものですが、努力や条件など無しに無条件に発動出来ないからこそ、読み手は面白さを感じます。
人により好みは色々でしょうが、私は、創作小説の中で、呪文の文法や古代語の読み解きがあったり、魔法陣の中の規則性などの説明があると、その内容を興味深く読んでいます。
単純な魔法を科学知識と組み合わせて、新しい魔法を生み出した場合などは、なるほどと感心し、その卓抜なアイディアを楽しんでいます。このような、現実世界を投影しつつ、魔法という自分の創作を作る事は、現実と創作の微妙なバランスが要求されます。
あまりにも独創的ならば読み手がついて行けないかもしれませんし、あまりにも現実的ならば、夢や驚きを感じられないかもしれません。
もちろん、力のある作者ならば、自分で全ての世界の理を作り上げる事も可能と思います。それには、正に創造神の如き、才能と意思と力が必要なのだと思います。
しかし、一から現実と異なった世界の全てを作り上げるよりも、現実世界を巧妙に変異して織り込んだり、既存のゲームや小説の世界観を流用する事は、読者の理解を得る為には、有効な方法です。それは、短歌や俳句のような定型の制限がある表現が、全く制限のない自由詩よりも、多くの人に受け入れられ続けている事とも共通しているように思えます。
創作小説の魔法といえども、巧妙に現実世界の制限や理を織り込みながら、その中で作者の自由な発想の世界を広げる事が、他人が読んで楽しめる為に必要な事と、私は思っています。 それは、意識・無意識にかかわらず現実をトレースしながら、主人公が困難に打ち勝つ表現が、魔法なのだと思います。
皆様は如何お考えでしょうか?