大砲について
近代になる前の大砲について、書いてみました。
技術的な発展要素は何かという地味な話です。
大砲は、火縄銃よりも先に登場したと言われています。
大砲を取り回しよく小型化したのが火縄銃ですから、後先の関係は判り易いと思います。
歴史資料での初見は、中国の宋時代。 宋時代を舞台にした水滸伝でも、轟天雷の凌振という、子母砲、連珠砲など破壊力抜群の大砲を発明し操る、砲兵の神様のような英雄が出てきます。 余計な話ですが、水滸伝は作られた明時代(15世紀)を、宋時代(12世紀)のお話に仮託して作られていますので、子母砲(カートリッジ式の元込め砲)、連珠砲(連発式の砲)など、明時代の兵器が出てきます。 これは江戸時代の歌舞伎で、義経や菅原道真を扱っても、江戸時代の風俗で出てくるのと同じ事です。 次の元時代でも火薬を使った兵器は存在し、中国の明時代までは、大砲など火砲は、世界的にも先進的な技術を持っていました。 火薬の発明は中国人だと言われていますが、これは道教の学者達が長寿や仙人になる為の薬:仙丹を探求する中で、化学的な知識から見つけたと言われています。
西欧で有名なのは、コンスタンチノープル攻略で使われたウルバン砲です。
オスマン帝国が1453年のコンスタンティノーブル攻略戦で使用した巨大な砲で、長さは8メートルの青銅砲で、砲弾は500kgほどの球形の石でした。
このような、初期の大砲は、青銅の鋳物で作られ、砲弾には石を使いました。
その名残は、日本語にもあり、「砲」という漢字は石偏です。
現在の中国では火編に包という字ですが、日本は石を撃っていた時代の砲が字として伝わり、そのまま固定化したのだと思います。
初期の青銅による大砲作りは、砲を寝かし二つに割った鋳型を作り、これを合わせて、箍をはめたような構造が一般的でした。 ウルバン砲のような巨大なものでは、更に土管をつなぎ合わせたように、円筒をつなぎ合わせて砲身を延長しています。
中国で発明された火薬は中東に伝わり、ヨーロッパへ伝わり、百年戦争やナポレオン戦争の時代を経て、大発展します。
そこでは、2つの重要な技術があります。
一つは可動式の砲架、もう一つは砲の機動です。
砲架とは、砲身を載せる台で、初期の砲では簡単な木の櫓と、土盛りを組み合わせたものでした。 大砲を撃つと、砲弾を発射した反動が発生して、これを砲架で受け止める必要があります。 これが不十分だと、撃つ度に砲架から砲身が外れて転がったり、反動により砲架ごと土台にめり込んで照準が出来なくなります。 初期の大砲は、この為に照準の修正が大変で、結局は 城壁のような固定された大きな的にしか使う事が出来ませんでした。
発射の反動は、砲身の底を痛めるので、これにより、初期の砲は非常に寿命が短かったようです。(数発、よくて数十発) 制限を越えて撃つと砲身にヒビが入り、発射ガスが漏れ撃てなくなります。
西欧では、架台(砲架の台)を車の付いた台車にしました。 映画で、西洋帆船が大砲を打ち合うシーンを見れば判りますが、大砲が小さな車のついた木の台に乗っており、台には滑車付の縄がついています。 大砲を発射すると、車で後退し、それを人力により縄で元の位置に引き戻す事に気づくはずです。 大砲の発射の反動を、台車全体が動く事で柔らかく受け止める事で、砲身への負担が減り、寿命が延びました。 移動は水平運動なので、照準角は大きくぶれません。
発射で砲が後退する事で、前から清掃と弾込めをして、紐を牽き初期位置に戻すというサイクルが出来ました。 陸では、ドイツ七年戦争頃の大砲を見ると砲架の両側に大きな2つの車がついて、発射すると 反動で大砲全体が後ろに動くようになっています。 この動きで、発射の反動を受け止めるので、砲の寿命が延びています。但し、発射の度に砲が動くので、再照準や修正が必要でした。
更に19世紀に入ると、駐退機が発明されました。 駐退機とはバネ(ダンパー)を砲身に設けて、砲身だけを動かして発射の反動を受け止め、バネの力で元に位置に戻す(複座)機構です。駐退機の良い事は、照準が 砲の移動により変わる事が無いので、再照準が不要になる事です。 19世紀では、砲が元込め式になった事もあり、駐退機との組み合わせで、短時間で砲を発射する事が出来るようになりました。(速射砲の登場)
次は、もう一つの技術、砲の機動について説明します。
欧州の国々を跨いだ七年戦争は、戦争の技術を飛躍的に進化させました。 その中の一つは、攻城兵器か、防御用の固定用兵器だった砲を、馬と砲車により機動出来る兵器にした事です。
この技術革新が戦術にもたらしたものは多大でした。 例えて言えば、飛車角の無かった将棋に、飛車角の駒がいくつもできたようなものです。 戦争は相手と同じ条件の必要は無いので、相手は飛車角抜き、自分は複数の飛車角を使えるような状態です。技術革新として必要な事は、単に砲架に車を付けただけではありません。
大砲は重量のあるものですから、複数の馬(最低でも4頭、場合により6頭)で牽く必要があります。 複数の馬で牽引するには、特殊な馬術が必要です。 現代でも、宮内庁が二頭立て馬車を、親任書奉呈式で用いますが、二頭立てでも特殊な御車訓練をし続ける必要があります。 この訓練は人だけではなく、馬にも必要です。 6頭立ての場合には、三列になりますが、最後尾にいる後馬には梶棒が連結され、ハンドルとブレーキの役割を果たします。 この為、後馬には重種馬という巨大な馬が用いられます。
馬の馬高とは、地面から肩までを言いますが、重種馬に用いられるペルシュロン種などは馬高180cmから大きなものは2m近くあります。 この馬は、大砲により戦場から消えた重装騎兵が乗る馬として、以前から西欧では存在していました。 大砲だけを馬で牽いても機動戦闘は出来ません。 ですから、必要な弾薬箱(火薬と砲弾)も荷車に積み、砲兵もみな騎乗しました。 こうして全ての砲兵の機能が騎乗した部隊を、騎馬砲兵(きばほうへい, Horse artillery)と呼びます。騎乗用や輸送には、小型馬で十分です。
馬の話しで書きましたが、馬が6頭いれば、その馬の飼料を運ぶ為に2頭の駄馬が必要です。ですから、騎馬砲兵を部隊として整備するには、同時に強力な輸送能力を持つ必要がありましたので、整備には非常にお金がかかります。
この金食い虫の騎馬砲兵を整備して有効利用したのは、フリードリッヒ大王や、ナポレオンで、それに対抗する為にヨーロッパ全体が、充実した機能力を持つ騎馬砲兵が誕生しました。
一方の日本は、欧州の発展の時に、江戸幕府が主導した太平の中にあり、大阪夏の陣に使われた固定式の砲から殆ど発展していません。当然、騎馬隊が無いのですから、騎馬砲兵もいませんし、馬の改良技術が無く世界水準から言えばポニーレベルの小さな馬しか居ませんでした。
それ故、幕末から明治維新以降 必死に西洋軍隊を導入しました。しかし、馬種の改良が進まず、結局 太平洋戦争でも十分な重馬をそろえる事ができませんでした。 農耕馬をいくら徴用しても、戦場で使える馬にはならず、馬体が巨大な重馬は、軍隊以外は飼育していなかったのです。日露戦争の陸戦では、日本軍はかろうじて勝利を得ていますが、常に砲弾の欠乏で薄氷を踏んでいます。これはノモンハンでも同じで弾丸の量で完全にソ連に打ち負けました。これは、様々な原因もありますが、砲の運搬に必要な重馬も十分に用意出来なかった事も要因です。 (総合的な工業力が問われるトラックの充足率は、更に足りませんので、移動や輸送は馬頼み)
さて、ネット小説を読んで、大砲関連で気になった点です。
大砲の反動は、発射時に前に向かって火薬のガスが出る為で、火薬の変わりに魔法を使えば反動が無いと誤解している例がありました。大砲の反動は 弾丸を高速で打ち出す反作用、言い換えれば「運動量保存の法則」によります。 ですから、魔法で弾丸を打ち出そうが、反動は無くなりません。 これはレールガンのような、火薬でなく電磁力で弾丸を打ち出す砲でも同様な反動がある事からも明白です。
転移もので、主人公のチート知識で、日本の戦国時代に欧州風の砲兵を作り大勝利のようなものもありました。 それには、騎馬砲兵を作る必要がありますが、2つの重要な技術が必要です。
一つは、前述の馬の改良の問題。 日本のポニーでは砲の牽引と制御は出来ませんので、馬体の大きな重馬が必要です。 多分 西洋から種馬を輸入して、育てる必要があります。魔獣でもいれば、それを代わりにはできます。
もう一つの問題は、車の軸受けです。 日本ではなぜか、車が発達しませんでした。
その理由は、江戸末まで、高速で回れる軸受けの技術が無かったからです。 それには、鉄による軸受けを作れば可能ですが、それを書いている小説は見たことがありません。
ですから、鉄による軸受けを持つ、高速回転でき、重荷重に耐える荷車が無いと、砲車も作れませんので、ご注意を。
チート知識で、歴史を変えるならば、中国の宋、元時代の砲の技術を、更に発展させて騎馬砲兵を、この時代に実現できれば、モンゴル帝国以上の世界帝国が出来るかもしれません。 当時の中国大陸には、砲と火薬、車の技術もあり、馬は中央アジアや中東から、馬体の大きな馬を改良すれば可能です。 イスラム圏や、ヨーロッパの軍事技術が発展する前に、征服してしまう事も可能です。 中国の場合には、明末期や、清の時代でも、大砲や銃は発展していました。 ですから、平和による軍事技術の衰退前に、産業革命前のヨーロッパへ挑む事も可能とは思いますし、明末で清の圧力を銃砲の技術で跳ね返す事も出来るかもしれません。
本当は、元込め式、ライフルによる発展も、銃砲には重要な技術ですが、近代の範疇に入るので、とりあえずここまでに致します。