日本人の宗教観 その4:明治政府の宗教政策から昭和の敗戦まで
日本人の宗教観の続き、4/5です。
なるべく事実関係のみ書きましたが、「国家神道」に対しては否定的な書き方になっております。
不快に思われる方は、お勧めしません。
4.明治政府の宗教政策
1)神祇官ってあったの?
明治維新では律令体制への復古がおきました。 律令体制では二官八省と言いますが、二官は何か覚えておりますか? 一つは政治の中心 太政官、そしてもう一つは神祇官です。 当初 明治政府は、江戸幕府の戸籍制度:寺請け制度に代わるものとして、神社が戸籍を管理して、これを神祇官とする事を、一時的ですが考えました。
しかし、寺のような長い経験もなく、住民との葬式や法事などの深いつながりが無かった神主が、いきなり そのような仕事をさせられてもできません。 ですから、すぐに神祇官構想は頓挫して、戸籍は民部省や内務省の管轄となりました。
明治新政府もお役人の集まりですから、自分の組織の権益を大きくしようと考えます。
そこで次には、宗教政策や、宗教組織を管理する教部省なる組織を作ります。
このときには、仏教界を排撃した失敗を反省したのか、既存の保守勢力:仏教団体を取り込む事をします。 教部省には、戦国時代以来 民衆の組織化の伝統を誇る浄土真宗を始め、各宗派の代表、そして当然のように神道からも代表が集まります。
とりあえずは、従来からの女人結界を禁止します。 これにより、富士山や高野山にも女性が行けるようになりました。 この辺りくらいまでなら、根拠なき迷信の排除、男女同権という判り易い目的ですが、ここで更に大いなる目的が発表されます。 国家宗教を作ろうという壮大な考えです。 明治政府は文明開化で西欧文明の採り入れと、どさくさで結ばされた不平等条約の改正が重要な課題です。 宗教政策では、欧米に留学した人々からは、宗教と文明は不可分であるという、ある意味当然な意見が出てきます。その帰結として、文明開化は必須だから、キリスト教の影響に対抗できるだけの強固な国家宗教が必要だという考えです。とはいえ、西欧諸国に対して「キリスト教への対抗」とは言えませんので、宗教の近代化という目的を表向きには掲げます。この時点では、さすがに仏教界の過去の実績や経済的な強さは無視できないと明治政府も理解したので、仏教も取り入れても構わないと考え、むしろそれで更に強力になれば良いと思っていたのでしょう。
2)大教院の活動と、空中分解
大教院は、東京 芝増上寺に設置され、本堂が拝礼所兼 本山のようなものになりました。 大教院は、神道の要素を中心として、仏教や儒教などの教えも取り入れた道徳や倫理を学ぶようなものでした。後に学校教育に登場する「修身」という授業につながるような教えです。
教団ですから、教えを広める人が必要で、教導職が置かれ、身分状で、大、中、小があり、教への場として、地方に中教院、小教院が設置されました。 教導職には、僧出身者が一番多く、次に神職、お話が上手いという事で落語家、歌人、俳人出身もいたようです。
とりあえず、組織はつくり、経典も作ったのですが、仏教界でさえ複数の宗派に分かれていたのですから、それに神道まで入れて、一つの宗教になれる訳がありません。
元 増上寺の本堂に、神道風の祭壇を設置して行事をやっておりましたが、これが神道原理主義者達の怒りにふれ放火され、江戸時代からの文化財であった増上寺本堂は全焼します。(明治7年)結局、祭神の在り方や、宗派名などの議論が始まった時点で、百論排出し 大教院は空中分解しました。(明治11年)
蛇足ですが、京極夏彦の『鉄鼠の檻』は、この大教院をモチーフに創作されたと、私は想像しております。(笑)
3)まだ懲りずに、国家神道?
仏教界まで取り込んで国家宗教という壮大な計画を立てましたが、集まった人々は、色々な考えをもっており、出身母体の事情も抱えていたので、国家宗教の目論見は瓦解しました。 まず初めに仏教系の坊さんが抜けます。浄土真宗の島地黙雷はその代表で宗教への政治介入を批判し、信教の自由の保障を求めます。この人は岩倉遣欧使節団に参加した人で、西欧での宗教の位置づけが判っていたのです。 神道関係者でも出雲大社宮司の千家 尊福などは、天照大神だけが全ての中心であるかのような考えに反対し抜けます。 結局、このような宗教家達が去り、明確な宗教ドグマが無いまま、キリスト教に押し流されない存在として、官僚中心で日本の伝統を重視した国家神道の基礎のようなものができました。当時のお役人も、常識人で、政教分離の原則は西欧法を学ぶ中で理解しております。 明治政府は、1882年(明治15年)に内務省通達により国家による神社は宗教ではないとされました。つまり、国家祭祀としての神道は非宗教だという考えです。 そこで、旧来の神道は「教派神道」として登録したものは、宗教として認める事にしました。これが新興宗教としての「教派神道」です。 信教の自由については、1889年(明治22年)、大日本帝国憲法第28条で「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と記載されました。このように憲法でも明確に保証されたのは、諸外国との不平等条約の解消もありますし、明治以降20年立つと文明開化とキリスト教を分離して扱える自信が出来たからなのでしょう。
「神道は非宗教」と書くと、現代の私たちの多くは、不思議に思う人も多いでしょう。
明治15年の内務省通達にも関わらず、教派神道以外の神職の中でも、神道は宗教だという考えや主張は残り続けます。 西欧的な法理主義で考えれば、「宗教として認められている教派神道以外は、宗教で無い」という原則は、法律解釈として本来は継続されるべきだったのです。 本来は神社を所管する内務省は、この理念に注意するべきでした。
しかし、その後 第一次大戦後、昭和の初期になり経済恐慌、農業の不作など厳しい状況が続きます。 それを打開するかのように、日本はアジアへの進出・侵略、占領地や併合地に、天孫系の神を祀る神宮が作られ(台湾、朝鮮、満州など)、皇民教育という名で、日本の優越性などの象徴として現地民に拝礼の強制などを行います。
内務省や、裁判所からは、このような行動が違憲だという指摘はありませんでした。
後知恵ですが、もしこの時に、相互融和の象徴として現地の神も祀るとか、信教の自由を尊重して拝礼の強制をしなければよかったのです。 しかし、そのような法理解釈や、宗教学上の適切な配慮がない現地日本人の、宗教に無頓着な行動は、現地人の反感を買います。 特に、昭和初期になってからは、皇国思想では、日本と日本人の優位性の裏付けとして、神道が利用されます。 一方で、神職達も、内務省管轄の「非宗教な神社」は、予算不足に長年 悩まされていました。 そこに、海外進出や、陸海軍軍人、在郷軍人会などからの寄付があれば、いくら「非宗教」と言いつつ、寄進者の意向を汲まざるを得ません。 政府主導ではなく、軍人や海外進出する日本に期待する民間人の意向で、国家主義と神社が結びつき、「国家神道」が自然発生しました。
政治的に見ると、内務省管轄の神社以外に、海外神宮は各地の総督府が管理、靖国神社と各地の護国神社は陸海軍が管轄、皇民教育は文部省という、縦割り官僚制で、それらの間には「国家神道」として、共通した理念もなければ統制もない、それぞれの考えでの運営がされていました。 ですから、国家神道が勃興した背景には、政府の統制の隙間を、各地や、軍、民 それぞれの思惑で、それぞれが望む道を突き進んだ結果、海外での混乱や反感、戦争が始まれば必勝信念の確立のため、本来の「無宗教」を忘れたかのような、教育や行事、参拝強制が行われたのでした。このような「国家神道」は、前述の「教派神道」よりも更に新しい新興宗教と見ることが出来て、その存在期間は昭和初期から敗戦までの20年に満たない期間の存在なのです。
そして、この「新興宗教」は、教祖もいなければ、ドグマもはっきりしておらず、現実問題の中で、都合良く神道を利用したとも言えます。この宗教では、天皇と、その祖先を神としますが、何よりも昭和天皇自身が天皇機関説を肯定されていたくらいです。ご当人には無断で祭神に利用しました。
日本が昭和20年8月の敗戦を迎えると、海外神宮のほとんどは現地民による破壊を受け消滅、日本国内でもファシズムの精神的背景としてGHQに禁止されます。戦後のGHQの神道指令により、法的には「非宗教だった神道」は消滅し、組織としては解散するか、宗教法人としての道を選択することになります。
そして、神社や政府の関係者を除き、日本人自身の大多数が、このGHQの決定に対して、大きな不満も行動もとらなかった事が、日本人の宗教観の希薄さを表しているともいえます。「国家神道」は、戦争と共に盛り上がって、敗戦で消えてしまったのです。
このGHQ指令に対しては、理屈の上では「神道は非宗教」という憲法解釈で弁解可能と思います。しかし、日本人自身が、いつのまにか明治憲法の規定を忘れ、戦争遂行と「国家神道」を結び付けてしまったので、GHQに「国家神道はカルト」だと言われて対抗不能でした。
まとめに続きます。




