江戸時代の公家 知識編 その2
書ききれなかった事として、収入と、仕事、幕府との関係をまとめました。
前回は、公家社会の家格と、公家を支える実務家;地下官人について説明しましたので、今回は収入と仕事(勤務形態)について説明致します。
最後に、朝廷と幕府の関係をお話してまとめます。
1.公家の収入
室町時代から戦国時代まで、公家の所領は、後ろ盾である室町幕府の衰退と共に失われて行きました。 それが、信長、秀吉の天下統一により回復されて行きます。
江戸の始まり頃で、朝廷が一万石に公家で三万石くらいだったものが、東福門院(秀忠の娘)の入内の一万石を合わせて朝廷が三万石、公家領が四万石以上となり、幕末には朝廷と公家領(宮家を含む)は、十万石程度となりました。
とは言え、大名いえば中堅クラス程度 石高です。
家ごとの表高、収入を家格ごとの例で示します。 括弧内は年貢収入の実高相当で、幕末頃の状況です。 数字の単位は石です。(1の位は四捨五入)
摂家:近衛家が2、800(2000)、一条家2、000(800)
清華:菊亭 1、650(760)、大臣家: 三条西 500(250)
一見すると近衛家は年貢率が70%に見えますが、伊丹など裕福な地域を所領としていた為、表高に対する実収が多かったのです。一方の一条家の表高は二千石ですが実収は八百石に足りず、実収は菊亭とほぼ同じです。 所領の良しあしで、実収が異なるのは、知行取りの宿命です。
次に皇族です。 なぜ大臣の後かと言えば、江戸の宮中席次では宮様は、大臣より下だったのです。それは石高にも出ています。(以下 漢数字の石高は蔵米支給をあらわします)
宮家:有栖川 1、000(不明)、伏見 1、300(400)
この他、天皇を退き仙洞御所に入ると(院になると)一万石、女院(中宮)には五千石、親王、内親王:三百石、母の身分が低い場合は五十石など、皇族の身分に応じて支払われました。 この支払は、知行ではなく御蔵米で払われるので、石高(漢数字)が実収となります。これらは皇室領とは別口で幕府から支給されます。
次に大臣になれない公家を見てみます。
羽林:綾小路 200(120)、岩倉 150(95)、大原 三十(御蔵米)
名家:萬里小路 390(190)、柳原 200(160)
半家:高倉 800(510)、土御門 180(120)、錦小路 三十(御蔵米)
家格では、三条西に劣る高倉は八百石貰っています。 石高は、幕府とのつながりの強さにも関係し、古い家や、高倉家のように幕府で大名が装束をつける支援をしているような家は優遇されているようです。 御蔵米と書かれているのは、知行ではなくて、幕府の米蔵から、米を貰う公卿です。 これらの家は、江戸時代後半で出来た新々家です。蔵米取は知行がないので三十石そのままが固定給となります。
大原は同じ羽林の綾小路の分家、錦小路は医療という技能をもって仕えた家です。
こうしてみると、古い家は武士でも上士並みの石高ですが、新しい家は三十石という下級武士並の収入だったのです。 但し、ここで書かれているのは家禄だけで、江戸後期には役に付けば追加の収入があり、優秀な場合には一家から複数の出仕をしました。これは下級公家にとっては重要な収入です。
2.公家の副収入
このように、権威の割には石高が低いので、江戸の後半になると、公家の中には、その権威を利用して副収入を得る家が出ました。 一つ目は許認可権、二つ目は家元、三つ目は内職です。
許認可権は、職能集団と結びつくと非常に大きな収入になりました。
代表的なのは、久我家の当道座(盲人の座)、土御門家の陰陽師支配権です。
当道座は江戸初期には存在し、身障者の自立支援施設の役割(職業訓練と経済支援)を負っていました。また幕府は、身障者自立の為に、金貸しの権利(いわゆる座頭金)を認めていましたので経済的にも大きな勢力です。明暦2年(1656)、久我家当主久我広通は幕府に、当道座に対し官職の授与権と謝礼を受け取る権利を請求します。 当道座はこれを拒否し、十年にわたる係争の後、幕府が仲介に入り、寛文6年(1666)に当道座中は久我家の「座中管領」が確立します。 これにより久我家は大きな謝礼収入を確立します、一方で当道座は検校、勾当、座頭などの、朝廷からの官職を受け、社会的な立場を得る事が出来るようになります。
土御門泰福(1655-1717)は、幸徳井家(地下官人)と陰陽師の支配権を争います。
そして山崎闇斎の元で、近代科学を取り入れた天文学を学び、学友でもあった渋川春海の作った新しい暦を朝廷で認めさせます。この辺りの経緯は映画『天地明察』に出てきますね。 そんな経緯もあり、ついに陰陽師の支配権と共に、暦の発行元ともなり、これが大きな定期収入となります。 このように、特定の職種の管理元という特権は、許認可権もからみ、非常に大きな収入となりました。
世の中が平和になり、豊かな町人も増えると、家職を活かして、芸能の家元となる公家も出てきます。 蹴鞠の難波、飛鳥井は、大名に対して、許状を発行しその礼金収入がありました。 許状を受けた大名は、紫、赤などの、烏帽子の掛紐を使う事が出来て、これが他の大名と異なるので流行ったようです。 それ以外では、衣紋(装束)の高倉、山科、歌道の冷泉、華道の植松、神楽の綾小路、持明院などです。これらの教授や、許状の発行で、家元としての収入が それなりにありました。
しかし、そのような教えられる家業が無い家(特に羽林など武官)や、分家で宗家が他にある場合には、内職をします。 公家の基礎教養は、和歌と書ですから、絵に賛や和歌を書き、大名や富豪向けの嫁入り道具として源氏物語の写本や百人一首などの作成、手軽なものでは和歌短冊です。 江戸末になると、一般町民が旅行に出かけます。 京土産として、公家の和歌短冊は、比較的低価(1分―4両:身分により相場が異なる)で、持ち帰りが簡単なので富裕な町人に人気だったようです。 私が子供の頃は、観光地に三角形の旗で「ペナント」というものが土産の定番でした。 京の和歌短冊も、そんな感じだったのでしょうね。これは浪人の傘張、植木、寺子屋よりは収入があったでしょうが、なかなか厳しい。
買う側も、偉い人の方が高く買います。五位の少将ですとせいぜい1分、三位の公卿ならば2ー3分、それが宮様だと1両以上、大臣 特に関白ならばもっと高くなったようです。短冊の場合には、現職でなくても大きな問題ではないので、役を退いた公家には有難い内職でした。 短冊や百人一首も、商人経由ならば卸し値はさらに下がります。 ですから、自宅で歌会などを開いて、それに参加して貰えればより高くなります(今でいう直販)。 要望に応じた内容や、為書きがあれば、更に謝礼が貰えたでしょうね。
3.仕事ぶり
1)勤務時間
平安時代の貴族は、午前7時前には出勤して11時くらいには退庁していたようです。
江戸時代の公家は、午前9時から午後4時くらいの勤務で、基本的には日の出で準備をして、日の暮れる前に帰宅していたようです。 宮中の行事によっては、夜から未明に及ぶものもあり、このような場合には徹夜状態と思います。
公家には、役宅が支給され、殆どが今の京都御苑内部に、御所、仙洞御所を囲むように公家町がありました。 ですから、職住接近の家族寮です。
朝廷では昼食が出ます。(必要があれば夕食も)。献立は質素なもので焼豆腐と刻昆布、香の物と味噌汁。御飯は煮汁がしみたせいか白くなかったそうです。それでも当時はそれでも楽しみだったようです。そして二月一日、十五日、二十八日は、特別に焼魚がついたようで、それがとてもご馳走だったそうです。岩倉具視は、公家時代の苦労を忘れないように、これらの日は当時の献立を再現し食べていたそうです。 当時は御馳走だったものが、今では苦労を忘れない食事とは....
もちろん、摂家や大臣は、当時からもっと豪華で、特に行事では本膳、二の膳の二汁五采、所司代や高家も同様に特別扱いだったようです。
勤務日は、役目により異なりますが、平均すれば週休2-3日程度と思われます。(日記からの推定)関白さんは偉いので、朝10時に出勤し、午後2時には帰ります。関白は休日以外は毎日の出勤ですが、大臣、大納言、中納言は朔日、十五日のみの出仕とあり、役による相違が非常に大きいようです。
2)服装など
通常は衣冠を付けます。上着の袍の色は身分により異なり、四位以上は黒、五位は赤(深緋)です。公家は五位より始まるので、始めだけが赤、四位以上に上がれば、原則 黒となります。 六位以下の官人は深縹で、一目で身分が判ります。 重要な行事(正月の拝礼)などでは、もう一段 改まった装束の束帯を付けます。 衣冠では指貫を穿くのに対して、束帯では大口袴という特殊な袴をはきます。 いづれも冠を付けますが、冠には門流に応じた文様があり、よく見ると属する門流が判ります。門流の無い公家は、遠山紋というシンプルな文様を用います。
出仕する時には、身分に応じた供をつれます。 最低でも、公家ならば共侍と仕丁は必要、大臣ともなれば警護の随身やお供の文官もつれています。
この為、朝廷専門のレンタル店が、江戸時代からありました。
中長者町の若狭屋喜左衛門と武者小路新町角の鍵屋新助の二軒です。
ここでは、行事に応じた公家装束一式(衣冠や束帯)を始め、牛車から、お供の装束、笠、などの小物まで、朝廷の出仕で必要なものは何でもそろったようです。
「衣冠束帯」という言葉を眼にする事がありますが、上記のように、衣冠と束帯は別のもので、行事により用いるものが異なります。 ですから朝廷では全員が衣冠か、全員が束帯なのが普通で、「衣冠束帯」という状況は有り得ません。
朝廷のユニフォームでは、袍の色は決まっていますが、摂家のような高位の家では、固有の色や紋を織り出したおしゃれな袍を、勅許を貰って着る事が出来ます。これを直衣と呼びます。 例えてみれば、 漫画「こち亀」に出てくる中川巡査のように、ブランド品の特別な警邏服を作らせて着ているセレブです。また、朝廷では冬でも足袋は履かず、老齢や病人は勅許があれば用いる事が出来ました。
時代劇の公家は、狩衣・烏帽子姿が多いのですが、これでは朝廷に出仕する事は出来ません。 仙洞御所に出仕する場合や、自宅、私用で出かける場合の格好です。 小説を書く場合には、装束の描写に気を付けましょう。
こちらに装束の世界では有名な八條忠基さんのWEBがあり、ここを見ると判り易く詳しい解説があります。 http://www.kariginu.jp/kikata/index.htm
4.幕府との関係
制度上は、朝廷は独立した組織ですが、実態としては治安維持と領地管理(公家領を除く)は、幕府に依存していました。 京都には、京都所司代(十万石以上の大名)がおり、その下に東西両奉行所が置かれ旗本が町奉行を務めていました。江戸の町奉行と異なり、寺社の管理も行っています。その下には与力、同心もいて、これらは全て幕臣でした。
朝廷には検非違使がいますが、これらは日常の治安業務は行わず、改元の時の恩赦を行う場合に、六角堂にある獄舎に赴き、赦免の行事を行うのです。
また、朝廷の御料は、朝臣ではなく、幕府の代官の管理下にあり徴税も含めて幕府側が行い、朝廷と蔵米支給の公家は、幕府の米蔵から米を受け取っていました。
また、朝廷では摂家が一番偉いのですが、旗本である高家が朝廷に官位の申請に来る場合には、ほぼ対等の立場で応接しています。 つまり、一般の公家からみれば、はるかに上の扱いになっています。
江戸時代が後半になると、公家の間にも国学を学ぶ機会が増えてきます。
実は、それ以前の公家は、和歌文学は知っていますが、古事記、日本書紀などは殆ど知らなかったです、 歴史を学び、過去の公家と武家の関係を再認識する事で、公家達は自分達の存在意義を再認識し始めます。このような流れの中で、御所を平安時代のような故実に基づいた構造とし、途絶えてしまった行事の復興が行われます。
その一つは、桜町天皇の元文3年(1738)に徳川吉宗の財政支援で実現した、古式に基づく大嘗祭の復興です。これにより簡略化されたものではなく、現在の大嘗祭の基礎が出来ました。 もう一つは、文化14年(1817)に退位した第119代光格天皇が上皇の御所である仙洞御所へ向かう行幸行列です。 後水尾上皇以来 上皇が行列を仕立て外出する事はなく、どのように行列を組み運営するかが不明になっていたものを、この時 再現する事が出来ました。 このような、故実復興は、江戸の中期以降に行われています。
すでに書いたように、室町から江戸の始めまでは、武士と公家の敷居は低かったのです。
それは、生活習慣、装束なども含めて大きな相違は無かったのです。
ところが、江戸中期になり、国文学の研究が進み、公家が持つ文章により、故実研究が進むにつれて、公家達は自分達と武家は、成立も存在意義も異なる事を自覚します。
この為に、復興運動がおこり、現在残るような御所や、装束、時代祭の行列や、様々な公家関連の伝統芸能が存在します。 現代の私達は、過去の歴史を客観的に知っていますので、武家と公家は異なるものと認識していますが、江戸時代の公家にとっては、それは発見だったのだと思います。 そして、その違いに気付いた時に、公家は公家らしくという伝統が再現したのです。 現在の私達は、公家社会と言うと、何となく千年以上 同じものが続いているように誤解しがちです。 しかし、その実態は江戸時代の後半に復興されたものである点に気付いてくれれば、長々と書いてきた甲斐があります。
まだまだ書ききれない事があるのですが、切り上げて もう少し読み易そうなお話仕立てで、そのうち「幕末の公家の日常」のようなものを書いてみたいと思います。




