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一人で反対? 関ヶ原に行かなかった大名:田丸直昌

日本人の特性として、空気を読んで波風を立てない事が言われますが、大勢に逆らって一人だけ違う事をやるのは、周囲から浮く事を覚悟する必要があります。

飲み会で、盛り上がっているのに一人だけ酒を飲まない、二次会だと騒いでいる中でさっさと帰るぐらいなら、皆さまは受け入れ可能な範囲でしょうか?

プロジェクトのキックオフで、「頑張ろう!」と盛り上がっている時、学校の卒業式でみんなが記念写真をとって母校に別れを告げている時に、同調せずに 一人だけさっさと帰るのは出来ますでしょうか?

そんな、日本人の協調意識を逆なでするような事を、天下分け目の関ケ原の前で、東軍に諸大名が参加すると盛り上っている時に、一人で西軍へ抜けた大名の伝説があるようです。 その人の名は、田丸直昌と言います。

田丸たまる 直昌なおまさ生年不詳 - 没;慶長14年(1609年)

この人は、公家系大名であった北畠氏(村上源氏)の一族です。

関ケ原の合戦の前に、徳川家康が上杉討伐の兵を、西進させ 西軍と決戦をさせる決定をする「小山評定」において、諸将が徳川家康への味方を表明する中、西軍に付く事を表明し領地の美濃 岩村城へ帰ったと言われている人です。


北畠氏は、南北朝時代に南朝を支えた北畠親房がおり、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を記した事は日本史の教科書にも掲載されています。北畠氏は、公家の中でも名門:中院流で、従五位から任官し、公卿(三位以上)に登れる家です。

この三男:北畠きたばたけ 顕能あきよしが、延元3年/建武5年(1338年)頃に伊勢守(国司)になったのが、伊勢の大名として定着した由来だと言われています。

この伊勢北畠氏は、南朝が没落しても、国司として朝廷の官位をもった公家大名として定着し戦国時代でも伊勢の最大勢力でした。 長く伊勢に根を張ったので、一族も多く、大河内氏、木造氏、坂内氏、田丸氏、星合氏、岩内氏、藤方氏、波瀬氏など、多くの村上源氏系の名門武家が栄えました。『寛政重修諸家譜』(江戸時代)には、「(田丸家子孫の)家伝にいわく、北畠大納言材親が三男中将具忠伊勢国田丸城に住して田丸を称号とす」とあります。ですから、北畠家でも有力な一族の重臣だと推定できます。

田丸直昌は、この北畠一族、重臣:田丸具忠の跡継ぎとして生まれます。 戦国時代になって 織田信長が伊勢攻略で勝利して、次男・織田信雄を北畠具房の養子として迎えて名門北畠氏は、織田の血筋に乗っ取られます。大名:北畠家としては継続しているので、家臣としては 潰れそうな名門会社に有力な新興の大企業から、支援と共に社長の息子が送り込まれた企業買収のようなものですね。織田信雄は、一八歳で天正3年(1575年)に北畠当主となり北畠信意と名乗ります。北畠家の前当主:北畠具房や、その子等、歴代の重臣は、強引な政権交代に不満が当然にあったようです。一方で、新当主の元 織田家の天下取りに協力しようという家臣団は、天正4年11月25日(1576年12月15日)に旧来の勢力を一掃する為に、北畠一族と重臣達を騙し討ちにします。これを三瀬のみせのへんと呼びます。

三瀬の変における田丸直昌の去就は不明ですが、その後 新当主:北畠信意(織田信雄)の元で、1574年7月に水軍を率いて伊勢長嶋 一向一揆と戦っている記録がある事から、織田側についていたのでしょう。

その後 本能寺の変(1582年)で、信長が死亡、跡目を決める清州会議では、北畠信意は織田信雄として跡目を継ぐ意思を表明し、北畠家は無くなり、田丸直昌は伊勢南部を領有している模様です。その後 豊臣政権の時代では、1584年9月 伊勢国内の南部1万5千石を寄親の蒲生氏より拝領した記録があります。つまり豊臣政権下の大名として、蒲生家の与力になっています。 その後 豊臣政権下では順調に出世をし、蒲生氏の会津転封により、長沼城(福島県須賀川市)や、田村城の城主になっています。

蒲生氏郷が1595年に亡くなった事で、豊臣傘下の大名に戻り、1595年6月に5万石で尾張 守山城主となります。 1596年5月 従五位下の中務大輔に任官します。秀吉没後の1599年には美濃 岩村城主となり、ついに関ケ原の合戦の時期を迎えます。


小山評定は、歴史転換の名場面として歴史ファンに良く知られています。

徳川家康を倒すために、石田三成と直江兼続は挟み撃ち戦略を準備し会津方面へ誘い出します。 上杉征伐に向かった中で三成挙兵との連絡を受けた徳川家康は、上杉征伐に従軍した諸大名を招集し、7月25日に、今後の方針について軍議を催したのが小山評定と言われています。

この場を、上手く仕切り、従軍した諸大名を いかに味方に付け三成側と戦うかが勝利への鍵です。会議では、まず家康の家臣が登場し、諸大名に対して 状況報告:三成の挙兵と、大阪に人質が取られているので心配なら帰って構わない旨が告げられます。また、有力な豊臣恩顧の大名に対しては個別に、「企ては三成の謀反で、徳川は秀頼さまには全く害意が無い」旨を明確に伝えて安心させておきます。 情報操作は伝える内容以上に、何を伝えないかも重要です。この時点で、徳川方は西軍の大将が毛利輝元で大阪城にいる事を掴んでいたようですが、この事は伝えません。なぜなら、毛利輝元が大阪城にいるならば、当然に秀頼を擁しており、これが豊臣家の意向を反映していると判断できるからです。この情報を隠す事で、東軍は豊臣家の代行をする家康の元、君側の姦物:石田三成を討つという名目を持てるからです。

参列した武将の中には、情報操作に気付いた者もいたでしょうが、徳川家康こそ次のリーダーと思うならば、わざわざ不利な状況を作りません。 結局、徳川有利にしたい武将、アンチ三成の武将が徳川への支援の意思を持ち、そして残りの武将は、場の雰囲気を壊さず信じたいシナリオを信じたい気分になっていたでしょう。これだけ入念な下準備をしてから、家康が登場し、三成を討とうと呼びかけます。事前にシナリオは出来ていたのでしょう。 山内一豊が、城も領地も全て差し出すと言い出すのに同調して、進撃路の東海道沿線の大名はこぞって全面協力を表明。豊臣恩顧の大名:福島正則の御味方表明など、熱い雰囲気で「三成を倒せ」が盛り上がってゆきます。

伝えによれば、そのような熱い場で、周囲に同調せず、空気もよまず、自分は西軍に恩顧があるから帰らせて貰うと、一人 領地へ帰ったのが田丸 直昌と言われています。家康は、小大名に一人くらい反対者がいても影響無しと思った余裕か、特に咎めなかったようです。事実 その後 東軍は戦意満々で関ケ原で奮戦し、西軍は決戦一日で敗北。田丸家は改易され越後の堀家に預かりとなり、慶長14年(1609年)に没したと言われています。

その嫡男直茂は、前田家預かりの後、旗本として徳川家に仕えます。


このような変わり者の田丸直昌ですから、小説では、歴史の転換点で 一人 西軍についた「筋を通す人」として描く事も出来ますし、何か特殊な事情があっての行動と描く事も出来ます。一方でIF設定ならば、小山評定の雪崩現象防止の為に、真っ先に「人質の命は惜しくはあらねど、豊家の恩は重し。聞けば安芸中納言(毛利輝元)は秀頼様をお守りし大阪城にありと聞くので、これより軍を抜け速く参じたい。」とでも言えば、熱気は冷めて中立・様子見は増えたかもしれません。 となると、関ケ原の様相も変わり、小早川の裏切りも無かったかもしれません。 その結果、東西の内紛は、長期戦になる可能性もあり、黒田如水が九州切り取りで第三勢力となり、大きな変化が生まれるかもしれません。

田丸直昌は、4万石程度の小勢力で勝敗への直接の影響はありませんが、小山評定では「バタフライ効果」を作る可能性があるように思えます。小山評定の山場では、6万石の山内一豊の、城も領地も差し上げる宣言が雪崩効果を呼び、それを評価されて戦後は土佐の国持大名に出世したと言われますので、逆もまたあり得ると思います。


楽しい妄想の一方で、田丸直昌は小山評定にはおらず、西軍側として、上州でウロウロしている内に戦が終わってしまった、始めから岩村城を守っていた、大阪城の守備をしていたとの説もあります。どうも、小山評定のたった一人の反対は無かったとの説が有力なようです。関ケ原合戦屏風を見ても、田丸家の旗は見当たりませんので関ケ原の合戦にはいなかった可能性が高いようです。 小山評定、そのものが無かったとの説もあります。 とは言え、小説のネタとしては、雪崩を打って東軍に味方する小山評定は関ケ原の山場で、一人くらい例外が欲しかったというのは歴史ファンとしては当然の希望なのです。


田丸直昌の子孫には、後に水戸家に仕える一族があり、江戸末に田丸稲之衛門という二百石取の上士がおりました。この人は、水戸家で起きた尊王攘夷運動「天狗党の乱」で首領の一人として京都をめざし、あちこちで軍事衝突を起し、最後は先祖と同じ前田家にお預け。テロ行為ですから、幕府の命により斬首となります。 明治維新後は、新政府に倒幕運動として評価され贈従四位と、死後ですがご先祖の位階(五位)を越えます。

この行動が、伝えられるご先祖の伝説の影響なのか不明ですが、子孫も小さな勢力ながらまだ強固だった幕府の大勢に逆らう行動をされたようです。もし小山評定の一人で帰ったのが史実でなければ、子孫は伝説の故に孤軍奮闘して死んだのかもしれません。


歴史的事実は、調べてゆくと、様々な小説のネタが見つかります。

「空気を読んで全員賛成」の習慣が強い日本にあって、田丸直昌の「一人反対の伝説」は、小説のネタとしては、私にはとても魅力的に思えます。皆様は如何でしょうか?

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 長沼城では須賀川城 田村城ではなく守山城 また、勢州軍機によれば三瀬の変では、北畠信意の「使者を遣わして之を宥し給う」岩出城にいた事になる。しかし、岩出城ではなく一之瀬城かもと思います…
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