ネタな人 その1 「死に方に見る武士の意地」(矢部虎之助)
「ネタな人」では、歴史的逸話や、古文書などに出てくる興味深い人や印象に残った人や事件を紹介します。
私の独断と偏見で選びますので、御趣向に合わない場合は、ご容赦下さい。
当然ですが、ネタにして小説仕立てられる方がいれば、大変 嬉しいです。ネタの料理の仕方は、皆様のお好みにて。
今回のネタな人は、戦いの時代が終わろうとする江戸時代初期、豊臣氏最後の戦い:大阪の陣で登場する、その名も勇壮な「矢部虎之助」(紀州藩、事件当時は当時は駿河藩)です。
戦国時代では、武士は戦場で男伊達を競い、自身を目立たせる為に 派手な鎧、兜、陣羽織など直接身に着けるものだけでなく、トレードマークになる指物(旗など)、で他人より目立ちました。
江戸時代中期に『明良洪範』という武家逸話集があり、この巻七に次のような逸話が残っています。
「大坂の陣の時、紀伊頼宣卿(徳川頼宣、紀州徳川家の始祖)の家士、矢部虎之助という者、大力にて長さ二間の指物、三尺余の太刀立物は大位牌に一首の歌有り「咲く頃は 花の数にも 足らざれど 散るには漏ぬ 矢部虎之助」と記したり。」
つまり、この矢部虎之助は、力自慢なので、約3.6mの巨大な指物を立て、約90cm 常人の五割増しの刀(通常の太刀は二尺三寸(60cm)が標準)を持ち、あげくに位牌型の立物に辞世の和歌「俺は今はまだBigじゃないが、決して死に遅れないぜ」という言葉を掲げて戦いに臨んだ様です。
指物は、一般には旗などのトレードマークで通常は背中に負います。
立物は、普通に考えれば兜の前立で、兜の正面につける飾りです。
本文には「大阪の戦い」とあるだけで夏冬は不明ですが、いづれこれが戦国時代の終わりで、後は戦いの無い平和な世の中になります。当時の人も、徳川氏の天下統一の過程は見えていますから、これがほぼ最終戦だと知り、血気盛んな若者は、自分を目立たせる貴重な場として、思い切り派手な格好をしたのでしょう。
ちなみに、虎之助の主君:徳川頼宣は、この当時は駿河、遠江を領して50万石、大阪冬の陣が初陣なので、家中全体も気合が入っていたのでしょう。
さて、この矢部虎之助ですが、戦いで大活躍をすれば良いのですが、実に残念な結果になりました。 続いて『明良洪範』の残りの記載を読んでみましょう。
「右の出立に諸人目を驚かしけれ共、余り重過て馬進まざりしかば、兎角人より後れて、ついに功もなかりしば、残念がりしに、猶家中にて武運不案内者との評判に合い、心中に恥じ憤り、食を断ちて、二十日ばかりのうちに自滅せり。誠に惜しき士なり。」
何と、3m超の巨大な指物や、巨大な太刀、武具なども重くて、当時の馬では、駆ける事が出来なかったのでしょう。 人目は引きましたが、戦功は上げられませんでした。 彼の本当の苦難はこれからです。 なまじ目立った格好をして、「散るには漏ぬ 矢部虎之助」とまで書いたので、周囲から評判倒れの駄目な奴と言われてしまいます。 この為、彼は自分の意地を見せる為に、餓死を選びます。
私は自殺を絶対に是認しません。その理由の一つは衝動的な感情で人生を終える事が残念と思うからです。 電車の飛び込み、ビルからの飛び降り、二酸化炭素や薬物による死、いづれの方法も 外的な力に自分の死をゆだねて、肉体や心が求める生きる事への欲求を黙らせる点が、受け入れられません。 その中で、食べられる状況下での餓死は例外で、常に自分の肉体の飢餓感と戦い続ける必要があります。 つまり、死のうと言う意思を継続しない限り、自殺が出来ないのです。
私は、実験的な絶食をした事がありますが、三日間で挫折しました。絶食が、三日目になると、嗅覚が異常に敏感になり、食べ物の匂いが物凄い力をもって食欲を誘います。 手が勝手に動いて、気が付くと目の前にあるスープを飲みほしていました。 これが、普通の人間の、普通の反応であり、肉体が持つ 体を維持し、死から遠ざかる力は強力で抗い難いものです。 飢餓がモラルを崩壊させ、本能をむき出しにさせる事は、旧帝国陸軍の南方作戦に従事した事からの聞き取りでも、随分とありました。私の体験は、それを少しでも体感する事が目的だったのですが、実に簡単に抵抗できずに終わりました。 こんな、たった三日の絶食でも、矢部虎之助が見せた、武士の意地は、凄まじいものだったと感じる事が出来ます。
だからこそ、この物語は「誠に惜しき士なり」という言葉で彼を評したのだと思います。
このように書くのは、飢餓の持つ力を知っているからと思います。
一方で、矢部虎之助を、目立ちたがりで、痛い自作ポエムを掲げた中二病と笑う事も出来ます。
実際、彼の戦場での行動は、経験不足による、戦果皆無だったのです。
しかし、もし重ねて戦場に出る機会があれば、もっと身軽な格好で、戦果を挙げる事もあったかもしれませんが、残念ながら その機会は訪れませんでした。
彼の逸話は、次の文で結ばれています。
「凡そ甲冑指物等に心得有べき事也。目に立てば大小に非ず、小印の大印と云事有て、小印にても大いに目立つ指物有りとぞ」
戦場での目印は、大きなものでなくても目立つものがあるから、それを選べばよかったのだと言っています。 有名な武将の小印(小馬印)では、金の瓢箪(豊臣秀吉)や、銀の繰半月(徳川家康)などがありますが、小さくても金銀などは目立つのですね。 そして何よりも、戦場に何度も立ち、勝利の場にあったという実績が、人々の記憶にも焼き付いています。
となると、矢部虎之助の悲劇は、遅く生まれてきた事と、挽回の機会となる戦場が もはや存在しなかった事で、彼の勇気と覚悟は、餓死という表現しか出来なかった点にあると思います。
皆様は、どう思われますか?




