真夜中の来訪者
「司祭様は、いらっしゃいますか」
唐突に呼び留められ、フェッロは金槌を振るう左手を止めた。
口を開こうとして、唇の間に挟まっていた釘のいくつかがポロポロと地面に吸い込まれてゆく様が見えたが、差し当たって気にするでもなく、たったの一瞥でそれを見送ったフェッロは、ゆっくりと声の主のもとへ視線を傾けた。
「司祭は、外出中です」
身も蓋もない言い方だ、とは思わなかった。
何故ならフェッロは、声を掛けてきた男を警戒していたからである。
それに、この寺院の責任者――ホープ・ノルマン司祭が現在外出中だということは、紛れもない事実だった。
「そうですか――」
頭の先から爪先までを、闇色の外套ですっぽりと覆った男は、フードの隙間から僅かにのぞいた口元を薄く歪めて、小さく呟いた。
それにしても、何て怪しい格好だろう。
街の穏やかな治安を象徴するかの如く、ここ“サン・クール寺院”の日常は、これまで平和そのものであった。
おかげで、この寺院の守門を任されている自分の役割らしい役割といったら、寺院に併設された孤児院の子供たちの世話をしたり、あるいは祭儀に忙しいホープ司祭に代わって、遣いを頼まれたり――短くまとめれば、それらは専ら“雑用”と言ってしまえるようなことばかりで、おおよその人間が“門番”と聞いて思い描くような、荒っぽい仕事が舞い込むことなど殆ど無いのが現状であった。
そんな平和な日常において、これほどの不審者を見かけることも滅多にない。
寺院の者に持たされた、雨風に曝されても消えないランタン――どうやら、貴重なマジックアイテムらしい――の薄明かりに照らされた男の姿は、さながら禍々しい邪妖精のようであった。
しかも今は、夜半も夜半である。一体こんな夜更けに、如何ほどの用があるというのか。
今夜のように大荒れの天候でなければ、不夜の歓楽街から遠く離れたこの一画は、物音一つしないほどの、分厚い静寂に包まれる頃合だ。
自分もおそらく、暴風対策を手伝うようにと声を掛けられなければ、いつものように倉庫に篭って絵を描いているか、そろそろ眠りについているかのどちらかだっただろう。
でも、待てよ。
しかしながら、こう考えることも出来るのではないか。
こんな真夜中に、しかも嵐の中を一人歩いて――
そうまでして足を運ばなければならないほど、彼に差し迫った用向きがあったとするなら。
そういえば以前、不審者扱いした来訪者が、実は公爵家の遣いの者であったと分かり、こっ酷い“お叱り”を受けたことがある。
あの時、自らの足でわざわざ城へ出向き、自分の代わりに非礼を詫びてくれた心優しい司祭のためにも、また同じ間違いをおかすわけにはいかない。
せめて名前と用件くらいは聞いておいた方がいいかもしれないな――
いつかの苦い経験を思い返したフェッロは、気が付くと、ほとんど回れ右をしかかっていた男の肩へ、すがるように手を伸ばしていた。
「あの、何かご用ですか」
「実は――」
フェッロの手の平が触れた瞬間、僅かにずれ落ちたフードの下から、男の切れ長の瞳がのぞいた。
それは、薄闇の中でもはっきりと分かる、金色の明るい輝きを宿した美しい瞳であった。
しかし――
思わず声をあげそうになるのをぐっとこらえる。
その美しさとは対照的に、瞳の周囲には、火傷のそれに似た生々しい損傷の痕が広がっていたのである。
もしかすると、男が素顔の殆どを外套で覆っている理由は、これだろうか――
そう気が付いた途端、これまで巡らせた男への不信感が、ひどく下らない感情のように思えた。
「いえ、何でもありません。たまたま立ち寄ったので、お顔を見られたらと思っただけです。こんな日和ですから、ご苦労がありはしないかと心配で」
しかし、男に悪びれた様子はない。
ゆっくりと瞳を閉じ、男は憂いに曇った表情を僅かに和らげた。
「夜更けに、失礼致しました。街が落ち着いた頃、また来ることにします。それでは」
そして小さく会釈をすると、彼はためらうことなく、くるりと踵を返した。
「あの」
呼び留めようと一歩踏み込んだ瞬間、ブーツの裏に何か硬いものが触れるのを感じ、フェッロは思わず足元に気を取られた。
そっとブーツをどけてみると、そこに落ちていたのは、ぬかるんだ地面に半ばほどめり込んだ釘の束であった。おそらくさっきまで、門扉の補修を行っていた自分が口に咥えていたものだろう。
たった一足しかないブーツの底に穴が空いていないことを確認すると、思わず安堵の息が漏れる。
そうして再び見遣った頃にはもう、男は忽然と姿を消した後だった。
「何だったんだろう、あの人」
とりあえず、追い返してしまったからといって、後々手酷い苦情を叩きつけて来るような雰囲気ではなさそうだが。
ぼんやりとしながらフェッロは、長く雨に打たれ続けた全身に、じわじわと冷えが広がっていることに気が付く。
どれほど考えたところで、自分にはもはや、あの男の正体を知る術はないだろう。
それよりも何よりも、今はこの補修作業を終わらせることが先決かもしれない。
気を取り直したフェッロは、よいしょ、と小さく声を漏らすと、腰を丸めて、ぬかるみの中の釘束に手を伸ばした。
「あ」
刹那、雨音の隙間を縫うように、ゴンという鈍い音が響き渡る。
頭のてっぺんにヒリヒリと痛みが走るのを感じたフェッロは、びしょ濡れになり果てていた髪を掻き分けて、ゆっくりとそこを摩った。
一体何にぶつかったのだろうかと、音のした方を見てみると、長さにして数マイス、加えて大人の手の平ほどの太さのある角材が、今にもこちらへ圧し掛からんと迫ってきているのが見えた。
あれは、補修のために調達してきた角材だ。
かなりの重量があったおかげで、ここまで運んでくるのには随分骨が折れた。小さく切り分けてから運べば良かったのではないかと気が付いたのは、つい今しがたのことである。
あれが頭に当たったら――とくにあの角が当たったりしたら、きっと先ほどとは比べ物にならないほどの痛みがあるに違いない。
絵筆を握る左手だけは、絶対に怪我をせずに済ませたいところだが――
一度にいろんなことが脳裏を駆け巡っていくのを感じたが、結局立ち尽くす以外に術を持たなかったフェッロは、凶器と化した角材が視界いっぱいに広がっていく様を、ただただ呆然と見つめていた。
しかし。
「あれ?」
いつまで待ってみても、衝撃がフェッロの全身を揺るがす瞬間は訪れない。
ぎりぎりまで目を開けていたつもりだったのだが、知らぬ間にいつか、固く目を瞑っていたようだ。
右、左と順を追い、硬直しきった瞼をゆっくりとこじ開けていくと、フェッロのすぐ側には、怪訝な表情でこちらを見つめるもうひとつの影があった。
「おい、何やってんだ。危ねえだろ」
「ハズさん――ありがとうございます」
相当の重さがあると思われる角材を、軽々と片手で支えて立っていたのは、フェッロのよく知る人物――魔獣退治屋のハーキュリーズであった。
「ったく……相変わらずぼさっとしやがって。お前なら、避けるとか何とか、簡単に出来たはずだろうが」
「すみません、咄嗟に思いつかなくて」
「思いつかなかったって、お前な――そんな理由でいつの間にか死んでましたとか抜かしても、骨は拾ってやらねえぞ」
「死人は口を利けないと思いますけど」
「いちいち揚げ足取ってんじゃねえよ……」
うんざりしたように大きく嘆息を漏らしたハーキュリーズは、フェッロよりも一回り近く高い位置から、眉間に皺を刻んでこちらを見下ろしていた。
自身も人のことを言えた義理ではないが、彼は他人に向けて“笑顔”というものを見せることが殆どない。
大抵は今と同じく、不機嫌そうに眉を寄せていることが多いのだが、フェッロはようやく最近になって、彼にとっての“無表情”が、世間一般で言うところの“しかめっ面”と同じであるということに気が付いた。
面倒臭そうにしながら、何かと周囲の人間を気にかけようとすることも、彼にとっては息をするのと同じくらい自然なことらしい。
「前々から異常にボーッとした奴だとは思ってたが、いい加減にしねえとそのうち――」
如何にも百戦錬磨のハンターらしく、他者を寄せ付けない強面の人相をしているハーキュリーズだが、その内面を一度知ってしまえば、案外と親しみやすい性質であることが伺える。
顔を合わせれば、男の口から漏らされるのは不平と溜息ばかりであったが、何故だかフェッロは、彼と二人で過ごす時間に、いつも居心地の良さのようなものを感じていた。
「ハズさん。さっきの男、見覚えありませんか」
「男?」
放っておくといつまでも不平の垂れ流しが続きそうな気がしたので、フェッロはさっさと別の話題をぶつけることにしていた。会話がぶつ切りになるのはいつものことで、彼がそんなことで腹を立てるような人間ではないことも分かっている。
するとハーキュリーズは、初めこそ不満げなしかめっ面を浮かべていたものの、数瞬の後にはすぐ、“考え事をしている方の”しかめっ面に、面差しを入れ替えた。鋭い双眸を薮睨みになるほど眇めて、どうやら記憶を手繰ろうとしているようである。
「黒いマントの男です」
「さあ。俺は寺院の周りじゃ、誰とも会ってねえけど」
「――え?」
それは、妙だ。
このサン・クール寺院は、街の中心部にあたる噴水広場のすぐ側に建てられている。
ぬかるみに付けられた足跡を辿る限り、ハーキュリーズは、噴水広場から四方に伸びる、大通りの東側からやってきたようである。黒マントの男が歩いていったのも、同じ方向であるはずなのだが――
マントの男が去っていくのとほぼ同じタイミングで現れたハーキュリーズが、男とすれ違わないはずはない。それに、自分よりもずっと知覚に優れているはずの彼が、あの目立つ風体の男を見逃すとも思えない。
だとすればあの男は、一体どこに消えてしまったというのだろう。
「おかしいな……足跡が」
再び、ハーキュリーズの残した足跡を辿ろうとしたとき、フェッロは重大な見落としに気が付いていた。
大通りの東側に付けられた足跡は、たったひとつだけ――寺院の門扉に駆け寄るような軌跡を描く、ハーキュリーズの足跡だけだったのである。
いくら大荒れの天候であるとはいえ、こうも早く地面の足跡が消えてしまうなどということは有り得ない。
それなのに、あの男の足跡だけがどこにも残っていないというのは、一体どういうことなのだろうか。
これではまるで、先ほど自分が見てきたものが、夢か幻であったかのような――
「フェッロ――悪霊でも見たか? それともお前、雨に打たれすぎて熱でも出たんじゃねえのか」
「そんなことはないと思いますけど」
――まさか。あれには確かに、生あるものの気配が宿っていたはずだ。
悪霊を見たことがあるわけではないが、“霊”と名の付くすべてのものは、はっきりとした実体がなく、もっと脆弱で朧気な存在であるはず――確かに幽霊は、雨の降る夜に多く現れるという話を聞いたことがあるような気はするけれど。
しばらくぼんやりと考えてはみたものの、やはりあの男のことはよく分からないままだった。
ひとまず、自分の記憶違いだったということにしておこう。それよりも今の自分には、他にやらなくてはならないことがある。
支えていた角材を柵に括り付けるハーキュリーズを見て、忘れかけていた当初の目的を思い出したフェッロは、ようやく現実に立ち戻っていた。
「ハズさん、寺院に何かご用ですか」
「ああ、そうだ――別に寺院に用があるわけじゃねえんだが、アタランテがここに来てないかと思ってな。あいつ、今日だけは絶対に出歩くなって言っておいたのに、ちゃっかりロイドのところを抜け出してやがったんだ」
アタランテとは、ハーキュリーズが頻繁に行動を共にしている――というよりも、アタランテの方がハーキュリーズを引っ張り回していると言った方が近いのかもしれないが――少女のことだ。
二人がどういう関係なのかは、フェッロにもよく分からない。
以前、何とはなしに二人の関係を尋ねてみたところ、ハーキュリーズは彼女のことを、“ただの同業者”だと言っていた。
だが、本当にそうなのだろうか?
兄妹と言うには似ても似つかないし、恋人と言うには年齢が離れすぎている。
根明という言葉を具現化したようなアタランテと、どちらかといえば寡黙で、どこか陰のあるハーキュリーズ。一見するととてもアンバランスな組み合わせのように思われるが、ひとたび二人がハンターとして戦場に立った途端、平時のイメージは劇的なほど大きく払拭される。
フェッロも何度か二人と一緒に仕事をこなしたことがあるのだが、戦場でタッグを組んだときの二人は、波長が合うとか、相性がいいとか、ありきたりな言葉だけでは表現しきれないほどの、絶妙な連携を披露してくれるのである。
扱う武器も、共に同じ“大剣”であるとなれば、これはもう、血縁者の線を疑われてもおかしくないレベルだ。
しかしながら、アタランテには、血の繋がった家族はいないらしい。
本人から聞いた話によれば、彼女は生まれて間もない赤ん坊の頃に、父親の手で育ての親のもとに預けられたのだそうだ。
彼女の唯一の家族と呼べる存在は、商業区の外れで“月島堂”という名のトレジャー専門店を営む、ロイド・クリプキという男だけである。
ハーキュリーズはロイドの古い友人で、ロイドの店を拠点として、この街でハンター稼業を続けるうちに、いつの間にかアタランテに懐かれてしまっていたらしいのだ。
いつの間にか懐かれているというあたりはいかにも彼らしいが、やはり二人の間には、それだけではない何かがあるような気がする。たとえ本人同士がてんで無自覚であったとしても――だ。
どんな些細なことも恋愛話に結び付けては大はしゃぎする、寺院の責任者――ホープ司祭の勘によれば、同業者というのはただの建前で、本当は“歳の差カップルに発展するまでもう少しの段階”であるらしいのだが――事実無根の妄想が殆どを占める司祭の勘繰りがどこまで信用できるかは、はっきり言って全く分からない。
「あいつ――布団の中に枕を詰め込むなんて、古典的な手段使いやがって――また面倒なことに首突っ込んでたら、ただじゃおかねえぞ――」
相変わらずハーキュリーズは、何やらぶつぶつと文句を垂れ流し続けている。こうなると、おそらく相手が聞いているか聞いていないかはお構い無しなのだろう。
一度頼りにされると、とことん相手を気に掛けてしまう性格のハーキュリーズにとって、毎日街のどこかを駆けずり回っていないと気の済まないアタランテの面倒を見るのは、相当に気苦労の多い役目のようである。
アタランテは、孤児院の子供たちの世話をしにくる――というよりも、ほぼ同じ目線で一緒に遊んでいるようにしか見えないが――こともよくあるので、彼の捜索ルートの中には、いつもこのサン・クール寺院が含まれているのだ。
――どっちかって言うと、恋人同士っていうよりは父子みたいな気がするけど。
アタランテが、外見よりも随分と子供っぽい性格をしているところを思うと、余計にそう感じられてならなかった。
「おれは見てないです。ここに来る前はずっとアトリエに篭ってたから、分からないだけかもしれないですけど」
「そうか――」
「ビアンカなら見てるかもしれません。たぶんまだ起きてると思いますけど」
彼女の名前を口にした瞬間、ハーキュリーズの顔色が“困っている方の”しかめっ面に塗り替えられたのが分かった。
剃り込みの入った眉を大きく寄せ、低くうなり声を上げたハーキュリーズは、何かを思い悩んでいるようである。
「お前、ちょっと聞いてきてくれよ。ここの補修なら、俺が引き受けてやるから」
「自分で行かないんですか?」
「だってよ……孤児院の子供に泣かれたら面倒臭いだろ……」
「ああ……」
既にお馴染みになっているせいで殆ど気にしてはいなかったが、言われてみれば彼は、大の大人から見ても相当“怖い”部類に入る風体をしているかもしれない。
奇抜なヘアースタイルに加え、耳からジャラジャラとぶら下がったピアスに、両目の下の刺青。そして、筋肉隆々の厳つい体格と、その大きな背に負われた、両刃の大剣。そこへ更に元々の強面の人相が上乗せされたとなると、見た目の威圧感は倍増しほども跳ね上がりそうである。
子供たちから“悪者の絵を描いて”と頼まれたとすれば、おそらく下手な悪人を描くよりも、ハーキュリーズの似顔絵をそのまま描いた方が、よほどリアリティが出るかもしれないとさえ思える。完成した絵を渡すついでに、この似顔絵の人物が、子供に泣かれることを気にする性格だと教えてあげたら、怖さは半減するかもしれないけれど。
「でもきっと、子供たちはもう寝てると思います」
はっきりと確認したわけではなかったが、自分なりのフォローのつもりだった。
けれど、疑り深いハーキュリーズの面持ちは、依然固く強張ったままである。
「それに――」
別段、畳み掛けようなどと考えたわけではなかったのだが、以前ビアンカが随分熱の篭った様子でハーキュリーズの話をしていたことを思い出したフェッロは、思わずそれを口にしていた。
「ビアンカが会いたがってました」
「はあ?」
フェッロの告げた事実を予想だにしていなかったのか、ハーキュリーズはぽかんと口を開けたまま、しばし呆然としていた。
「シスターが、俺に会いたがってる? 何でまた――」
「あなたの歌を聴きたいと言ってました。ハズさんは、オペラ歌手の代役を務めたことがあるんですよね」
「な、何でそのことを――」
この顔は、何だろう。
いつもと同じくしかめっ面であることには違いがないのだが、彼が酒を呑んでいるとき以外に、紅潮した顔を見せるのは珍しい。
「シスターに話したのは、ヴィオラだな? あの人は、余計なことを……」
「そうです。おれも少し立ち聞きした程度なんで、詳しくは知らないですけど」
ヴィオラとは、王都サフィールの貿易商夫人のことである。街の者の多くは、敬愛と親しみを込めて、彼女を“マダム=ステイシス”と呼ぶ。
その昔、彼女はサフィールで名を馳せた人気舞台女優であったらしい。現役を退いた今も尚、浮世離れした美しさを保ち続けるヴィオラは、街の女性の憧れの的なのだという。
彼女の本邸はサフィールにあるようだが、夫の仕事の都合で、月の半分をティル・ナ・ノーグの別邸で過ごしているらしい。街に滞在している間、時折この寺院を訪ねてくることもあり、フェッロも何度か顔を合わせたことがある。
そしておそらく、ビアンカは彼女の大ファンだ。本人に直接尋ねても、何故だかはっきり答えようとはしないのだが、ヴィオラが寺院にやってきたときの興奮振りを見れば、それが憶測にとどまらない事実であることは、誰の目にも明らかである。
普段の大人びた印象を一変させ、無邪気な子供のように振舞うビアンカの様子を思い出しながら、フェッロは再びハーキュリーズの仏頂面を側めた。
「分かるも何も、あの人以外にこのことを知ってる奴はいねえからな」
「どうして、ヴィオラさんだけが知ってるんですか?」
「どうしてって――実際にあの時、俺の歌を聴いてたからだよ。しかもご丁寧に、楽屋にまで押しかけてきやがって」
「じゃあ、よっぽどうまかったんですね」
「いいや、逆だ。今更思い出したくもねえな」
いつの間にか、すっかり元のしかめっ面に戻っていたハーキュリーズは、うなだれるように肩を落とし、手元のロープをじっと見つめている。フェッロの足元に座り込んでいるせいもあってか、広いはずのその背中が、いつもより随分と小さく見えた。
「聴くに堪えない、下手くそな歌だってこき下ろされたんだよ。“あなたの歌はあくまで‘歌’であって、オペラにあるべき‘朗唱’ではないわ”とか何とか言ってたけど――当たり前だっての。俺は知り合いに代役を頼まれただけで、本当はオペラ歌手でも何でもねえんだからな」
――しまった。また始まった。
どうやら自分は、とことん彼の不平の引き出しを開けるのが得意なようである。
そろそろ、全身の冷えが限界に達している。いい加減このあたりで切り上げなくては、本当に風邪を引いてしまうかもしれない。
知らぬ間に手放していた金槌を再び手に取ったフェッロは、ハーキュリーズに並び立つようにして、門扉へと歩み寄った。
「――そうなんですか。おれはうまいと思ってましたけど」
「何でお前がそんなことを――」
「ハズさん、酔っ払ったらどこででも歌ってますよ」
頭髪に染み渡った雨の雫を振り切るかのような勢いで、ハーキュリーズがパッとこちらを振り返った。
その表情はまたも、煌々と揺れるランタンの光のような、朱の色に染まっている。
二度それを目の当たりにしてようやく、フェッロはそれを“照れている方の”しかめっ面だと理解していた。
「とにかく、ビアンカに会っていってください。楽しみにしていると思いますから」
そうして門扉に手をかけたフェッロは、泥を払った釘の先端を、宙吊りになっていた板切れに押し付けると、何事もなかったかのように補修作業を再開していた。
「分かったよ――仕方ねえな」
さも気が進まないといった様子でゆっくりと立ち上がったハーキュリーズの声は、金槌の音に紛れて、よく聞こえなかった。
ここまでお読みくださって、ありがとうございます!
今回の更新分では、伊那さん考案・デザインのフェッロ、伊那さん考案・緋花李さんデザインのビアンカ、宗像竜子さん考案・デザインのヴィオラをお借りしました(ビアンカとヴィオラはまだ登場はしていないですが……)!ありがとうございます!
寺院のシーンはもう一話だけ続きます。