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光を綴る少年、命を唄う少女  作者: タチバナ ナツメ
第一章 銀狼と紅い月
6/9

灰色の猫

更新に間が空いてしまってすみませんでした;

企画サイトの更新が落ち着いてきたので、また連載を再開させていただきます!

よろしければまたお付き合いくださいませ♪

 紫暗の天蓋に浮かんだ紅い月は、いつの間にやら雨雲に埋もれてぼんやりと滲んでいた。

 時化空と向かい合った体に、大粒の雨が叩きつけるように降り注いでいる。

 冷たい雨の雫はまるで、後口の悪い余熱(ほとぼり)を洗い流そうとしてくれているかのようで、とても心地が良かった。


「あら、あなた」


 声が聴こえる。

 滝降りの雨音に紛れることなく耳に届いていることを思うと、声の主はとても近いところに居るのかもしれない。

 激しく痛む体に鞭打って、どうにか首を真横に向けると、灰縞の毛並みをした一匹の猫が、じっとこちらを見つめているのが分かった。


「生きていらしたのね。傷が深そうだから、助からないと思っていたのに」


 さっきの声は、まさかこいつが?

 人語を話す猫など、生まれてこの方一度も見たことが無い。もはや自分は、幻覚を見るほど消耗してしまっているというのだろうか。


「君は誰だ」


 我ながら、“幻覚”に話しかけるなんてどうかしている。

 それとも彼女は、知恵を持った精霊か妖精の類なのだろうか――

 もしもそうであったとして、彼女が自分に幸運をもたらしてくれる存在だなどとは夢にも思わない。

 何故なら彼女は、虫の息でいる自分を見下ろしながら、助けようとするどころか、さしたる興味すら示した様子もないのだから。


「あなた、猫の言葉が分かるんですの?」


 けれど、そこまでを思ったところで、気が付いてしまった。

 灰猫の零した表情が、妙に親しみ深い人間臭さに溢れていることと、そしてもう一つ――

 彼女も自分と同じく、人と獣の狭間に生きる運命を背負っているのだということに。


「君は人間だろう? 最初はどこの捨て猫かと思ったが」

「捨て猫?」


 青緑の瞳を大きく見開いた灰猫は、尖った耳をふいと後ろに傾け、微かに唸りを漏らした。


「いいえ、私がヒトを捨てたんですわ」


 小さく開かれた口許が、どこか(わら)っているように見えたのは、彼女の語気が僅かに上擦ったせいだろうか。


「あなた、とても苦しそう」


 凄雨にほどよく冷まされたからなのか、静かに鼻先を摺り寄せてきた灰猫の高い体温が、ことさら心地良く感じられる。

 気付く頃にはもう、その小さな熱源へ向かって無意識に手を伸ばした後だった。


「あなたはその手で、大切なヒトをたくさん傷つけたのでしょう」


 言われて初めて、灰猫に伸ばした自分の手が、赤黒い塊に汚れていることに気が付く。

 (したた)かに降りしきる雨粒にいくら晒したところで、弱々しく天に(かざ)したその手から、血の赤が拭われることはなかった。


「ペルサ――」


 薄く霞んだ紅い月と重なるようにして、あどけない面影がちらついている。


『私の声が聞こえないのか』


 聞こえていたよ、ずっと。

 お前の声が、俺に届かぬはずはない。


『私が分からないのか』


 分かっていたよ、ずっと。

 分かっていながら俺は、お前を――


「忘れてしまいましょうよ。そうすればあなたはきっと、今よりもずっと気楽に生きてゆけますわ」


 凍て付くような寒さと共に、足先からじわじわと痺れが昇ってくる。四肢を蝕む痛みは、もうどこにも感じられなくなっていた。


「君には、忘れてしまいたい何かがあったのか」


 唯一自由のきく瞳だけを、もう一度灰猫に向けてみる。

 すると灰猫は、遠くを仰ぎ見るように顔を上げた。


「さあ……どうだったかしら。なにぶんずっと前の事ですし……もう、それすら忘れてしまっているのかも」


 思案に暮れる横顔が、人間顔負けのふてぶてしさに満ちている。

 そう考えた途端、これまでの灰猫の仕草すべてがやけに滑稽なもののように思え、口許にこみ上げてくる笑いを、どうにも隠しきれなくなってしまっていた。


「あなたは、どうなのかしら」


 しかし、こちらの様子を気にした素振りもなく、退屈そうに瞼を下げた猫は、静かに首の重みをこちらへ預けると、小さく喉を鳴らした。


「忘れることなど出来ない。俺にはこれから、まだまだやらなくてはならないことがあるんだ」

「あら、そう……それは残念ですわね」


 そうは言ったものの、短く零された彼女の言葉に、少しも残念がるような気配は感じられなかった。




 そうして、幾許(いくばく)かの沈黙が過ぎ去った後。


「あなた、お名前は?」


 何を思ったのか、唐突に身を起こした灰猫が、長い尾の先をゆっくりと左右に振りながら、じっとこちらを見つめていた。


「ジークヴァルトだ」

「ジークヴァルトさん。お加減の良くないところを申し訳ないのですけれど」


 灰猫にその名を呼ばれて初めて、ジークヴァルトは気付かされていた。

 そういえば、あの時。

 焼けるような熱い苦しみに苛まれていたあの時。

 皆が口々に叫んでいた、懐かしい“音”があったはず。

 自分という人間が、たった今ここに生きているという一番の証。

 自分という人間が、他者の心の中に生きているという一番の証。

 彼らの叫んでいたあの音は、きっとこの“名前”であったに違いない。

 あの時の自分は、そんな大切なものすらも思い出せなくなってしまっていたのだ。


「ここに、あなたの名前を書いてくださらない?」


 絶望に閉ざされそうになっていたジークヴァルトの脳裏に、またも声が響いていた。

 気が付くと、いつの間に調達してきたものなのか、小さな枝切れを口に咥えた灰猫が、かじかんだジークヴァルトの指先をつついていた。

 ありったけを振り絞って半身を起こしたジークヴァルトは、震える指先で枝切れを受け取ると、雨風に消されてしまうことがないようにと、枝切れが軋むほどの力を込めて、ぬかるんだ地面にその名を刻んだ。


「ありがとう」


 刹那。

 それまでずっと耳元で響いていたはずの灰猫の声が、突如として遠い頭上から降り注いで来ていることに気が付いたジークヴァルトは、思わず目を見張っていた。

 続けざま、冷え切った両頬に温かい何かが触れてくる。

 絹地のように(すべ)らかな感触のそれは、はっきりと人の手の輪郭を帯びていた。


「ヒトであることを忘れたくなったら、また逢いましょう」


 君は、一体何者なんだ。

 そう零しかけたジークヴァルトの口許を、灰猫の柔らかい唇がそっと塞いだ。


「ごきげんよう、オオカミさん」


 俄かに、意識が重くなる。

 白んでゆく景色の片隅で、“彼女”の纏った長いマントの裾が、うつらうつらと揺れている。

 口許に残された微かなぬくもりは、人のそれよりもほんの少しばかり温かかった。

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