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光を綴る少年、命を唄う少女  作者: タチバナ ナツメ
第一章 銀狼と紅い月
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胡乱な静寂・3

「何だよ、せっかく助けてやろうと思ってたのに……」


 張り詰めた緊張の糸が、ぷっつりと寸断されたような気になっていた。

 不平とともに大きく溜め息を零した男は、構えていた翡翠色の弓矢を下ろすと、(すが)めるような目遣いで、()の影を見つめていた。

 男が遥か前方に見据えていたのは、燃えるような赤い髪をした少年である。

 その側には、桜色の髪の美少女と、一度は追い詰めたはずの憎き“敵影”の姿があった。


「ああ、つまんねえ」


 あんな子供に、見せ場を横取りされてしまうとは、思ってもみなかった。

 順当に運んでいれば、あの場で少女の救出劇を繰り広げるのは、こちらの役どころであったはずなのに。


「あの子供(ガキ)、街の人間じゃねえのか? こんな時に外を出歩くなんて、正気かよ」


 忌々しい思いを奥歯で噛み潰した男は、倦怠感を露わに首を傾げると、小さく肩をすくめた。

 平時から男が何より嫌っているものは“努力”と“徒労”の二語である。

 そんな男が、“木登り”などという有り得ない肉体労働までこなし、こんなにも薄暗い場所でひたすら地道にその“瞬間”を窺っていたのも、全てはあの“銀色の怪物”に引導を渡してやるためだ。

 今日こそは“街の治安を守る”という大義名分のもと、“あいつ”に日頃の憂さをぶつけてやれる絶好の機会が来たとばかり思っていたのに。

 ――ま、あの娘を助けてやったときの見返りを全く期待してなかったって言やあ、嘘になるけどな。

 自嘲した男がゆっくりと息をついた、まさにその瞬間。

 風も無いのに、ざわざわと梢の色めき立つ音が響いていた。

 悲鳴じみた叫びをあげながら、止まり木を蹴飛ばした鳥たちが、視界の外れで散り散りに飛び去っていく。


「お……始めやがったな」


 一時は空っぽに近い状態まで磨り減っていた好奇心が、再び胸の奥で騒ぎ出すのを感じた男は、先ほどよりも幾分和らいだ目つきで霊園の方角を見遣っていた。

 吹き抜ける風に紛れ、甲高い金属音が届いてくる。

 気が付くと、咆哮をあげて飛び掛かった怪物の一撃を、幅広のショートソードを手にした赤毛の少年が、根限りの形相で受け止めていた。

 少年の握り締めた剣はとても小振りで、身の丈の二倍はあろうかという怪物の拳を受け止める道具としては、ひどく頼りないもののように思えた。

 月の光を受けた刃が、妙に鈍く、屈折した光を撥ね散らしている。


「あいつ、素人か」


 デザインにもよりけりだが、剣士の愛用する剣というものは、往々にして鏡のような輝きを放つものである。少年の剣のように、特別な(こしら)えのない直剣ならば、それは尚更のこと。(もっと)もながら、剣士としての手腕を売りにする者が、無二の相棒とも言うべき剣の手入れを怠ることなど、あってはならない手抜かりだ。どうやら彼の剣は、平時から相当にぞんざいな扱いを受けているようである。


「剣士でもねえくせに、逃げも隠れもせずに立ち向かおうとするとはな。根が馬鹿正直なのか、それとも単に、自分が敵う相手かどうかってことも判断できねえくらい、お(つむ)の弱い奴なのか……」


 運の悪い奴だ、としか言いようがない。そこらの魔獣相手なら何とかなった可能性もあるが、歯向かう相手が“あれ”では、おそらく大した時間稼ぎも出来ずに惨殺されるのがオチだろう。


「まあ、助けてやらなくもないぜ。但し、この俺様のお眼鏡に適えばの話だけどな」


 ほくそ笑んだ男は、再び矢を(つが)えた。

 四肢を掠めゆく風の進路は、北北西の追い風。空を流れる薄雲の速さは、やや重めのスローテンポ――どうやら風は、気炎万丈でこちらの味方に付いてくれているようである。

 ゆっくりと息を吐きながら、男は銀色の(やじり)の指し示す方向を、少しずつ少しずつ調整する。


「――俺を退屈させるなよ、少年」


 男の脳裏にはもう、銀色の怪物の眉間を穿(うが)つイメージが、はっきりと浮かんでいた。



*****



 骨の軋む、(いや)な音が響いてくる。

 体のありとあらゆる部分が、圧し掛かる脅威的な重みに悲鳴をあげていた。

 アールの渾身の一撃を軽々とかわし、間髪を入れずニ撃目を繰り出した“敵影”は、ぎょっと目を奪われるほど異様な姿をしていた。

 爛々(らんらん)と輝く青緑の瞳が、二回り以上も体格の小さいアールを鋭く()め付けている。

 アールの眼前に現れた怪物は、野生種を遥かに凌ぐ巨体を有した、銀色の狼であった。

 とりわけ銀狼の纏う風采の中でも際立っていたのは、その体つきである。

 深い前傾姿勢をとってはいるものの、そこには四つ足の獣が後ろ足で立ち上がったときのような不安定感はなく、骨格の構造や筋肉の付き方自体が、二足歩行の生物に近いもののように感じられるのだ。

 敢えて例えるとするならば、その姿は王国の炭鉱地帯に暮らす“コボルト”という種族に似ているような気がするが、彼らは顔つきこそ犬や狼そっくりではあるものの、人語を解し、しゃんと伸びた背筋で人と同じように歩くことが出来る。

 血走った眼球で獲物を見据え、(たてがみ)を逆立てて唸り声をあげるこの銀狼の様子は、温厚で親切なコボルトたちとは、比べるのもおこがましいほど、似ても似つかないものだった。


「な、何なんだこいつ――魔獣か?」


 最も異様であったのは、気高い狼のものとは思えない、狂気の混じったその眼光である。

 狼はもちろんのこと、野生の獣の類には、これまでの旅路で何度も遭遇したが、彼らが他種を襲うのは、あくまで“生きる糧とする”ためだ。

 飢えて死なないために、他種から命を貰い受けることで自らの命を繋ぐ彼らの眼は、生き続けるという明確な目的をはっきりと見据えている。

 誰彼構わず動くものを引き裂こうとしているかのような、こんなにも狂った眼をしているはずがないのだ。


「くそっ――いくら何でも馬鹿でかすぎんだろ。何でこんなのが街中をうろついてんだ!」


 盾代わりに、顔前で真横に構えられたアールの剣。そこには、鎌のように反り返った数本の爪が絡み付いている。銀狼の手の平は、目いっぱい広げてしまえば、小柄な人間の体一つくらいなら、易々とその中に収めてしまえるのではないかと思える程の大きさを有していた。

 このままでは、まずい。

 全身の痺れが限界を超えている。

 意志とは関係なく、疲弊しきった腕の筋肉がガクガクと痙攣を起こし始めた、ちょうどその時。

 大気を震わせるような、鋭い金属音が鳴り響くのを聞いた。

 それとほぼ同時に、剣に加わる重みが大きく和らぐのを感じる。

 何事かと真横を見遣ると、先ほどまで青白い顔でへたり込んでいた少女が、抜き放たれた細身の剣を手に、銀狼を鋭く見据えていた。

 いつの間にやら後方に飛び退った銀狼は、怯んだように面差しを歪め、その巨大な手の平と少女とを交互に見比べている。よくよく見てみると、銀狼の指先で鈍色(にびいろ)を放っていた刃の幾つかが、見事にぽっきりと折れ飛んでしまっていた。


「す、すげえ――あれ、君がやったのか?」


 文字通り開いた口の塞がらなくなったアールは、唖然と少女の横顔を見つめていた。


「呑気なこと言ってる場合じゃない! 逃げてって言ってるでしょ!」


 ところが、こちらを振り向いた少女は、ついさっきまで動くことすら出来なかったとは思えぬほどの火勢に溢れていた。矢のような剣幕に気圧され、アールの頭は真っ白になってしまう。


「え――でも」

「貴方に敵う相手じゃない! わたしがここを引き受けるから、貴方は早く逃げなさいって言ってるの!」

「はぁっ?」


 白一面に塗り込められていた頭の芯が、俄かに熱を帯びるのを感じる。

 言い返したいことは山ほどあったが、心の中が怒りに塗り潰される直前、こちらを睨め付ける少女の後ろに、妖しい気配が蠢くのを感じ取ったアールは、反射的に疾り出していた。


「ちょっと、何――」


 半ば体当たりのような勢いで飛びついた先では、少女の瞳に宿った孔雀色(ピーコックブルー)が、きらきらと光を放っていた。

 空と大地とが何度も反転を繰り返す。

 それが収まったところで、ようやくアールは自分の身に起こった一連を反芻できていた。

 怒鳴り散らす勢いで、少女がこちらを振り返ったあの瞬間。

 少女の背後に現れたのは、銀狼の大鎌であった。

 考えるよりも先に飛び出したアールは、それほど大きな体格差があるわけでもない少女の体を庇うように抱えると、そのままゴロゴロと地面を転がった――どうやら、そのような顛末(てんまつ)であったらしい。

 鎖帷子(くさりかたびら)に覆われた利き腕は何とか無事に済んだものの、むき出しの左上腕は、見るも無残なほど擦り傷だらけになっていた。

 しかしながら、怪我らしい怪我はそれだけで済んだようである。腕の中で身を硬くしていた少女は、掠り傷ひとつ負っていないようであった。

 ほっと息をついたアールは、呆然とする少女のことは敢えてさて置き、すぐさま銀狼の姿を追っていた。

 今更ながら気が付いたことだが、唯一の対抗手段であった愛剣は、先ほど地面を転がった折、手の平をすっぽ抜けて飛んでいってしまったようである。不運にも、剣の落下地点は銀狼の遥か後方――あの距離ではおそらく、回収するのは不可能に近そうだ。


「ちょっと、いつまでくっついてるの! 離して!」


 キンと張り詰めた甲声が響き、再びアールはぎょっとしていた。

 こちらの腕を払い除けるように身を(よじ)った少女の仕草に、思わず目元が吊り上がるのを感じる。

 途端、腹に抱えていた思いが溢れ出したアールは、憤慨していた。


「何なんだ、お前! せっかく助けてやったのに、その態度は何なんだよ!」

「誰も助けてくれなんて、言ってない! 自分のことくらい、自分で守れるもん!」

「何言ってんだよ! お前、俺があそこで庇わなきゃ、死んでたんだぞ!」

「だって、わたし――自分のことくらい、自分で守れなきゃ、わたし――」


 少女の瞳が、見る間に潤んでいくのが分かる。

 平時なら、言い過ぎたと後悔するところであったのかもしれないが、窮地に陥ったアールに、その余裕はなかった。

 刹那。

 高く、遠く。

 空を(つんざ)くような、甲高い吼え声が鳴轟する。

 鼓膜を突き抜け、骨を伝い、“声”が体の隅々を駆け巡っていた。

 反射的に両手で耳を覆っても、その耐え難い感触が和らぐことはない。

 陽炎のように歪んでいく視界の端で傍らを側めると、アールと同じく両耳を覆った少女が、すっかり戦意を喪失した表情で崩れ落ち、ぽろぽろと涙を零す様が見えた。

 ――駄目だ。この子はきっと、もう戦えない。

 二人を押さえつけているのは、見えない重圧。銀狼の不気味な吼え声は、聞く者の最奥へ易々と潜り込み、“生物”としての本能そのものを蹂躙しようとしているのだ。


『この世は弱肉強食。弱い者は強い者に、ただただその身を(ほふ)られるより他はない』


 四肢を押し潰す呪縛が、己の耳元にそう語りかけてきているような気がした。

 遠吠えを終えた銀狼が、渇きに飢えた瞳をこちらへ向ける。


「死にたく、ねえ――」


 赤い血溜まりに横たわる自分。

 鮮烈に脳裏を過ぎった死のイメージを払拭しようと、アールは必死でかぶりを振っていた。


「俺は、こんな――」


 僅かの後に訪れるその瞬間を思い描くのが、とても怖かった。

 死にたくない。

 死にたくない。


「俺は、こんなところで死にたくねえっ!」


 どこからか、風を切り裂くような鋭い音が聞こえてくる。

 それと同時に、雄叫びをあげたアールの足元に、細長い棒切れのような“何か”が突き刺さるのが見えた。

 弾かれたように見遣ったそこには、少女の手にしていた細身の剣が転がっている。

 続けざま、再び大鎌を振りかざした銀狼が、今にもこちらに飛び掛からんと、咆哮を撒き散らすのが分かった。

 逡巡する余裕など、あるはずもない。

 躊躇なく剣を拾い上げたアールは、ありったけの気概を振り絞ると、少女の剣を真一文字に振り抜いていた。


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