胡乱な静寂
行き過ぎてきた大通りを振り返ると、そこには異様な光景が広がっていた。
「変だな……何だか街中が葬式みたいだ」
色とりどりの煉瓦を敷いた、切妻造の家々が軒をきしる大通りには、しょぼくれたシルエットを引き連れた野良犬を除けば、只の一人の人影も見当たらない。
「おいおい……ここ、ホントに“ティル・ナ・ノーグ”なんだろうな? 聞いてたイメージと全然違うじゃねえかよ」
いい加減、黙り込むのにも飽きたアールは、とことん呟き続けることに決めていた。
その街の名は、大陸の古い言葉で“常若の国”を意味している。
旅の途中、噂に聞いたティル・ナ・ノーグは、異国の民と大陸の民とが肩を並べ、朗らかに笑い合いながら生きる、楽園のような都市であったはず。
砂埃を巻き上げながら通りを吹き抜けていく風は、現実としてそれほど冷涼なものではなかったが、営みの音の聞こえてこないこの空間の中では、異様なまでの冷ややかさを帯びているように感じられた。
「夢の楽園に着いてみりゃ、まさかのゴーストタウンかよ――」
自らの口から零した言葉ではあったが、街がその言葉通り、廃屋の連なる無人の街と化してしまっている――わけではないことは、既に分かっていた。
人が住んでいないわけではない。
けれど、何故だか街の住人達は皆、各々の家の中に引きこもったまま、誰一人として外に出てくる者がないのである。
さすがに、これだけ人の影のない大通りを一人きりで歩き通していると、否が応でも悪目立ちせざるを得ない。
おそらく街路の家々からは、通りを歩くこちらの様子が手に取るように分かるのだろう。
突き刺すように注がれる視線の先を追い掛けると、ぴしゃりとカーテンを閉められる。街に着いてから、もう何度この一連を繰り返していることだろう。まるで、街中の嫌われ者にでもなった気分である。
「まさか、街の人間みんなが俺を警戒してるなんてこと、ねえよな?」
これまで、何度かこまごまとした厄介ごとを抱え込んでしまったことはあったものの、知らない街の住人にまで疎まれるほどの何かが、今の自分にあるとは到底思えなかった。
思わず自分の姿かたちを改めてはみたものの、特別目立つような格好をしているとも思えない。それなりに身だしなみには気を遣っているつもりだし、関所を通るときには、所定の通行税だって納めたはずだ。
「何だ? 何なんだ、この街は」
このままでは、今夜の宿を取ることすらままならないかもしれない。
今日こそは、硬い地面やゴツゴツした樹の上でなく、柔らかなベッドの上でぐっすり眠ることができると思っていたのに。
苛立ちを露わに面差しを歪めたアールは、当たりどころを足元の石ころに向かって定めると、躊躇なく思いの丈をぶつけることにしていた。
「い、痛え……」
ところが、蹴飛ばした石ころは、予想していたよりも随分と大柄なものであったらしい。足先に刺すような痛みが走り抜けるのを感じ、アールは更にもやもやと苛立ちを募らせる羽目になっていた。
平らに慣らされた土をせっせと抉り取りながら、歪な軌道を描いて転げていった石ころは、道端の樹に激突したところでようやくその動きを止める。
予期せぬ惨事に見舞われた爪先のことを思うと、酷くいまいましさの募る心地がしたが、街路樹の高枝で甲高くさえずっていた鳥たちが、色めき立ってばたばたと飛び去っていく姿を見ると、胸のわだかまりは幾分かましになったような気がした。
とはいえそれは、か弱い生き物に当り散らす以外に術を持たなかった己の卑屈さに嫌気が差してくるまでの、ほんの僅かな間のことであったのだが。
「ん?」
しかし、その数瞬後のこと。
何とはなし、街路樹を飛び立った鳥達の軌跡を追いかけようとしたアールは、苛立ちも消し飛ぶほどの奇妙な光景が過ぎるのを見た。
街の高台に広がる森の方角から、見慣れない生き物の影が飛び出していくのが見えたのである。
黄昏時の朱の空を、白い塊のようなものが旋回している。
けれど、瞼の裏側で、ちくちくとオレンジの陽光が邪魔立てをしてくるせいか、今ひとつはっきりとその正体を掴むことが出来ない。
視界の端々を飛び交う閃光のような残像を振り払おうと、勢いよく首を振る。
そうして再び街の高台に目をやると、それまでほぼ点でしかなかった白い塊が、たった数瞬の間に、息を呑むほどの距離まで迫ってきているのが分かった。
生い茂る梢が衣擦れの音を撒き散らす。
疾り抜けた突風が、我先にと樹々の群れを押し倒し、アールの立つ地表に、濃霧のような砂の煙幕を立ち上らせた。
驚きの声を上げる暇もないほどの速さで、“それ”はアールの頭上を通り過ぎていた。
天にも届かんばかりの、猛々しい嘶きを響かせながら。
「すげえ――すげえぞ!」
もはや、これまでの煩わしさなどというものは、心底どうでもよくなっていた。
夕暮れの朱色を背に、薄紫の雲を押し退け、威風堂々と大空を舞う高潔の白。
金色の鬣と、白鳥のそれを思わせる美しい二枚羽根を携えた姿は、幼い頃、“常若の国”の見聞を記した古書の中に見た、あの“天馬”の姿と、奇跡的なほどに一致していた。
「絶対ネタにしてやるよ……逃がさねえからなっ!」
体中の粟立つような感覚が止まらない。だらしなく緩む口許をどうすることも出来ない。
それでも良かった。夢にまで見た天馬の勇姿を、息遣いを、間近に感じることが出来るなら。
天馬の飛び去った方角――大通りの最奥に目を凝らしたアールは、夢中で駆け出していた。