プロローグ
熱い、とても。
四肢を巡る血潮が、煮え湯のように激しく滾っていた。
体の奥から、自分ではない“何者か”の息遣いを感じる。
熱を帯びた闇の塊が這い出してくるかのような、奇怪な感触がする。
頭の芯が割れるように痛んでいた。
――誰か、助けてくれ。
奈落に捕らわれる恐怖から逃れようと、力の限り叫んだ。
けれど、ごわつく獣毛に覆われた喉元からは、ひゅうひゅうと耳障りな嗄声が漏れるばかりであった。
――胸が、苦しい。
鬱積した痛みと熱を鎮めようと、喘ぐように息を吸い込んだ。
けれど、喉元を過ぎる空気は瞬く間に熱を帯び、耐え難い痛みの火種を撒き散らすばかりであった。
「こんなことは今までなかったのに、どういうことなんだ――」
「――様、どうかお気を確かに!」
ぎゅっと瞑ったままだった両の瞳をこじ開けると、朧気な幾つかの影が、徐々に輪郭を結んでいくのが分かった。苦悶する自分の周囲を取り囲むように立っていたのは、幾人かの人間のようである。
怪訝げにこちらを覗き込む彼らは皆、口々に同じ“音”を叫んでいた。
「――様!」
「――、一体どうしたと言うんだ、しっかりしろ!」
「駄目です、ノイシュ様! お下がりください!」
幾度となく紡がれては鼓膜を震わせる、耳慣れた“音”。
懐かしいあの“音”は、一体何だ?
何も分からない。
何も思い出せない。
脳裏を優しく取り巻くものすべてが、着実に、急速に、闇色の向こうへと塗り込められていくような気がしていた。
「何故だ――私が分からないのか!」
不意に、どよめきの隙間を縫うようにして、透き通った声が響いてくる。
声のする方を振り返ると、そこには少女のようにあどけない面差しを宿した、小さな人間の姿があった。
空を溶かし出したような水宝玉の瞳が、困惑を露わにこちらを見つめている。
刹那、胸の中心がずしりと重みを帯びた。
――そんな眼で、俺を見ないでくれ。
周囲には幾人かの人影があったが、そこに在る誰からのものよりも、彼女の揺れ動く視線に晒されることが、最も辛いと感じる。
――煩わしい、とても。
気が狂いそうなほどの掻痒感が、五臓を押し退けて、己の内側をのた打ち回っているような心地がする。
四肢の隅々を激しい苦痛が蝕んでいる今、心の奥までを痛みに晒してしまうのは、本当に煩わしかった。
ならば、手放してしまえばいい。
厭わしい感情など、残らず打ち捨ててしまえばいい。
そうして、本能の赴くまま、この焼け付いた喉を潤せばいいのだ。
「フォルトゥナート様、お下がりください! これ以上怪我をされては、危険です!」
「僕のことはいいんだ、アレイオン。それよりも、君はノイシュ様を――」
ふと、急速に体が軽くなってゆくのを感じた。
永劫続くのではないかと思っていた長い煩悶が、突如として終わりを迎えたのである。
とても、簡単なことだった。
逃れる術は、端から一つしかなかったのだ。
割れ落ちた窓の隙間から、僅かに欠けた月が見える。
瘴気のように立ち込めた笠雲を拭って現れたその月は、彼女の纏うベロアのコートと、同じ色の輝きを宿していた。
紅い月。
紅いベロア。
深い深い真紅。
そうして、抑えきれなくなった欲望が、内側で爆ぜ飛ぶのを感じた。
「姉上!」
気が付くと、揺れ動くシャンデリアに照らされ、紅い雫がキラキラと宙を舞っていた。
振り下ろした鉤爪が、受身を取る隙も与えられぬまま、激しく床に叩きつけられた彼女の小さな肩に深々と食い込んでいる。
――あと少しだったものを。
今一歩踏み込むことが出来なかったのは、こちらが地を蹴るタイミングとほぼ同時に、彼女の細腕から繰り出された二筋の剣閃が、この喉笛を掻き切ろうと迫っていたからだ。
「目を覚ませ! 私の声が聞こえないのか!」
けれどそれが、戯れと呼べるほどの悪足掻きでしかないことを、自分は知っていた。
空いたこの左手で軽く払い除けてやりさえすれば、たった二振りの邪魔者を跳ね飛ばすことなど、造作も無いだろう。
鉤爪の間から零れ出した温もりを、じわりじわりと吸い上げた彼女のコートが、歪な染みを広げていく。
――ああ、やはりそうだ。
欲しかったのは、あの深い深い真紅。
滴り落ちる真紅だけが、この渇きを癒す唯一のもの。
人は皆、肉体という名の脆く儚い容れ物の中に、その“唯一”を隠し持っている。
欲しかったのは――
怒涛のように“衝動”が押し寄せてくるのを感じた途端、“彼”は再び、鋭利な鉄槌を振り上げていた。