第八章
静かな教会の廊下に、けたたましい靴音が響いた。
ラファエルが手にした本から視線を上げるのと、彼のいた礼拝堂の扉が乱暴に開かれるのとが、ちょうど同時だった。
「先生! ラファエル先生!」
礼拝堂の扉が開くと同時に飛び込んできた人影が、叫んだ。
「何ですか、騒々しい」
ラファエルが人影――ミカエルに、咎める声をかけた。
ミカエルはそれに答えることもなく、切羽詰った表情でラファエルに詰め寄った。
「教えてください! オレはいったい何者ですか? リョウってのは誰なんです?」
ミカエルの言葉に、ラファエルは僅かにその眉をひそめ、手にした本をぱたん、と閉じた。
「ふぅ、どうやら知ってしまったようですね」
「教えてください! オレは、オレはリョウなんですか?」
なおも詰め寄るミカエルに、ラファエルはふっと目を伏せた。
「……時が来れば、全てを思い出すでしょう」
「先生!」
煮え切らないラファエルの反応に、ミカエルがさらに詰め寄ろうとした、その時。
ミカエルの視界が、揺らいだ。
いや、揺らいだのはミカエルの身体の方だった。突然足に力が入らなくなり、ミカエルは思わず膝をついた。
全身から力が抜け、頭が割れそうなほどに痛い。
「うう……」
「大丈夫ですか、ミカエル? ……これは!」
突然しゃがみこんでしまったミカエルを心配そうに覗き込んだラファエルが、目をみはった。
「いけない。ミカエルの存在が、消えかけている!」
よく見れば、ミカエルの身体の輪郭がぼやけ、その肉体を通して向こう側にあるはずの壁がうっすらと見えていた。目の前で、ミカエルの肌が文字通り透きとおってゆくのである。
「そ、存在、が?」
ミカエルが、彼の頭を襲う激痛に耐えながら、かすれた声を出した。それに答え、ラファエルが小さくうなずく。
「我々天使は、人間の“思い”によって存在しているのです。人間は、例え肉体は死んでも誰かが彼を思う気持ちがある限り、その魂は人々を見守り続けることができるのです」
ラファエルは、そこでいったん言葉を区切った。そして一つ大きく息を吸い込んでから続ける。
「しかし、その彼を強く想う者が、彼の存在を忘れた時……」
「天使は、その存在を、失う?」
ミカエルの言葉に、ラファエルはうなずいた。
「そうです。あなたのことを強く想う者が、今あなたを忘れようとしている」
「オレのことを、強く想う者……」
ミカエルの脳裏に、泣き叫ぶ少女の姿が浮かんだ。
「真理……」
その時、左手首にほのかな温かさを感じてふと見ると、そこに巻かれた腕輪が青白い光を放っている。
「これ、真理と……リョウの」
突然輝き始めた腕輪を不思議そうに見つめ、ミカエルは恐る恐る右手で腕輪に触れる。
ミカエルの脳内を、光が、走った。
圧倒的な量の情報が、ミカエルの全身を駆け抜ける。
身動きできなくなるほどの衝撃が彼に襲い掛かった。
『なぁ、真理。ずっと一緒にいような』
突然ミカエルの脳裏に響いたのは、彼自身の声だった。いや、この声は……。
「リョウの、声」
ミカエルは呟いた。
覚えている。いや、思い出した。
それはこの腕輪を買った日、リョウと真理が交わした言葉。
彼が、真理と交わした言葉。
『急にどうしたの?』
リョウの声に応える、ちょっと笑った真理の声。それもやはりあの時のものだ。
『いや、なんとなくさ』
『うん』
リョウの照れたような声が続いた。
『オレさ、いますっげー幸せなんだ。真理と一緒にいて』
『あたしも、だよ』
はにかむような真理の声に、リョウが小さく笑った。
『へへっ。うっわー、オレ今、すっげー恥ずかしいこと言っちまった』
『ふふっ、ほんと、どうしたの?』
『なんとなく、さ』
ミカエルの頭の中で、その声はゆっくりと消えていった。
彼は軽く頭を振って、静かに立ち上がった。
優しくて暖かくて幸せな、あの日の光景。
それは間違いなく彼が――リョウが真理と過ごした時間。
「すべて、思い出したのですね」
ラファエルが優しくミカエルに声をかけた。ミカエルが、静かにうなずく。
「行きなさい、ミカエル。いえ、リョウ。真理さんのもとへ」
ラファエルの励ましの言葉にミカエルは――リョウは力強くうなずいた。
――真理、オレは忘れたくない。お前に忘れて欲しくないんだ。オレたちの記憶を。
リョウは、心の中でそう呟くと、真理のもとに向かって走り出した。




