第七章
ミカエルは再び真理の部屋の、窓の前まで来ていた。
真理の部屋は2階。つまりミカエルがいるのは真理の家の、屋根の上である。
窓にはやはり分厚いカーテンがぴったりと閉じられ、中の様子を見ることができない。
「オレがやらなきゃいけないんだ」
ミカエルは自分に言い聞かせるように呟くと、窓に手をかけた。
部屋の主はおそらくそんなことに気が回らないのだろう、窓の鍵はやはり開いたままだ。
「よしっ」
ミカエルは自分の頬を両手でパシッと叩いて気合を入れると、真理の部屋の窓を勢いよく開けた。
暗い部屋の中に、光が満ちた。
ミカエルは、いそいそと靴を脱いで部屋に上がると、部屋の中を見渡した。
真理は、ミカエルが前に来たときとほとんど変わらない位置に、ほとんど変わらない格好で座っていた。そしてやはりあの時と同じように、眠っているようでいながら、しかし目は開いていた。虚ろな視線を部屋の中に漂わせながら真理は、部屋の隅で小さくなっていた。彼女はミカエルが突然部屋の中に現れたというのに、ほとんど反応した様子がない。
真理の憔悴しきった虚ろな表情に、ミカエルはキリリと胸が痛むのを感じた。いてもたってもいられなくなって、ミカエルは真理に声をかける。
「や、やぁ!」
ミカエルの裏返った声は、幻覚の中を漂う真理の意識を、わずかに引き戻したようだった。真理が、けだるげな動作でその首をミカエルの方にゆっくりと向ける。
真理が、ミカエルを見た。いや、見たとは言えないかもしれない。その視界の中に、ミカエルを入れただけ。真理の瞳の焦点は、どこにも合わされていない。
「……何しに来たの?」
かすれた声。泣き疲れた後のような。
「あ、あのさ、落ち込んでたって何も始まらないよ。ほら、元気出してさ!」
ミカエルが、部屋に満ちた静寂をかき消そうとするように、勢い込んで言った。
真理の返事は、ない。
「ほ、ほら、よく言うじゃない! 笑うかどには福来る、って! ほら、笑って笑って!」
裏返った声で、引きつった笑顔を真理に向けるミカエル。
真理は、反応した様子さえない。
何も映さない真理の空虚な瞳に見据えられ、ミカエルは言葉に詰まってしまった。
そんなミカエルに対して、真理はそれきり興味を失ったように、その視線を再び部屋の中に漂わせた。
「よ、よーし! それならとっておきを出しちゃうぞ! ミカエル、一発芸しまーす! はい、注目ー!」
ミカエルはピン、と右手を上げた。そしてごそごそとジーンズのポケットをさぐり始める。
「びっくりして、耳が大きくなっちゃったよー! あははー!」
ミカエルはポケットからプラスチック製の大きな耳を取り出して、自分の耳にはめてみせた。そして渇いた笑いをその顔に浮かべる。
もちろん、真理が笑うはずもない。
ミカエルの作り笑いが、虚しく部屋を漂った。
「おもしろく……ないよね〜、は、はは……はぁ」
ミカエルはがっくりと肩を落としてため息をついた。
「う〜ん、困ったなぁ……」
右手でプラスチックの耳を寂しげにポケットにしまいながら、ミカエルは余った左手で決まり悪げに頭をかいた。
「!」
突然、立ち上がった真理がミカエルの左手を掴んだ。
「なな、なに?」
真理の突然の行動に、ミカエルは驚きの声を上げる。
「その腕輪……」
真理がかすれた声を出した。ミカエルの腕にすがり、憑かれたようにその手首に巻かれた革の腕輪を撫でる。
「ああ、これ?」
真理の言葉に、ミカエルは自分の左手首に視線を落とした。
「なんか気がついたらしてたんだよね。いつからしてたのかとか、誰にもらったのかとか、思い出せないんだ……」
自分の記憶を探ろうとすると、頭の奥を針で刺すようなちくりとした痛みがミカエルを襲う。
そんな彼に対して真理が言った言葉は、予想もしない、意外なものだった。
「あたしが……あげたの」
「え?」
あまりに意外な真理の言葉に、ミカエルは素っ頓狂な声を上げた。
怪訝な表情のミカエルに真理は、自分の着ているセーターの左腕の袖をまくって見せた。
セーターの下から現れた革製の腕輪は、ミカエルの左手首の腕輪と瓜二つだった。
「それ……同じだ」
ミカエルの呟きに、真理はこくりとうなずいた。そしてミカエルの腕を取り、何かを探すように腕輪を見つめた。
「ほら、ここにMの字が彫ってある」
「あ、ほんとだ……」
よく見てみると、ミカエルの腕にはめられた腕輪の金属の部分に、小さく“M”の文字が彫られていた。
「あたしのにはR。リョウのイニシャル」
そういって差し出された真理の腕輪の同じ金属部分には、確かに“R”の文字があった。
「じゃあ、Mってのは……」
「真理。あたしのイニシャルよ」
おずおずと尋ねたミカエルに、真理は夢の中にいるような声で答えた。
「ど、どういうこと?」
ミカエルはわけがわからなくなって真理に尋ねた。真理はその言葉を聞いているのかいないのか、すがるような表情でミカエルの腕輪を見つめている。
「リョウと二人で買ったの。お互いの腕輪に、自分のイニシャルを彫ってプレゼントしたの。……世界にひとつしかない腕輪よ。リョウ以外の人が、持っているわけない……」
「それを、どうしてオレが……?」
ミカエルが首を捻る。その時、真理の瞳に光が宿った。虚ろだった真理の瞳が、ミカエルの顔に焦点を定める。
だが彼女の瞳は、ミカエルをというより、彼を通してその先にいるはずの誰かを見つめているようであった。
「リョウ! やっぱりあなた、リョウなの?」
真理がミカエルにしがみついて叫ぶ。ミカエルは苦しげに目をそらした。
「わからない……わからないんだ」
「ねえ、リョウ、リョウなんでしょ? あたしを一人にしないで! ねえ、リョウ!」
すがるように叫び続ける真理。
ミカエルの頭の奥を、冷たい氷を押し付けられたようなキンとした痛みが襲う。考えれば考えるほどその痛みは強さを増して、ミカエルを苦しめる。
「くそっ! わけがわからない! オレはどうしたらいいんだ!」
ミカエルは吐き捨てるように呟いて、真理の手を振りほどいた。
「待って、行かないでリョウ!」
血を吐くような真理の叫び。
だがミカエルは振り返らず、逃げるように窓の外へ走り去った。
「行かないで! もう一人にしないで! リョウ!」
真理の叫びも虚しく、ミカエルの姿は窓の向こうに消えた。真理が窓に駆け寄ったときには、彼の姿はすでにどこにもなかった。
「リョウ!」
ミカエルの姿が窓の外に消えた後も、真理は声を限りに叫び続けた。顔は流れる涙でぐしゃぐしゃになり、その声も叫び疲れて嗄れ果てている。
だがそれでも、真理は嗄れた声を振り絞って叫び続ける。そうすれば彼を取り戻すことができるというわけでもないのに。
「ご覧なさい、このままではあなたは苦しむばかりです」
不意に、声が聞こえた。
地獄の底から響くような、しかしそれでいて甘い麻薬のような声。
気がつくと真理の傍らに、闇色のスーツをまとった男――メフィストが立っていた。
「さぁ、全てを忘れてしまうのです。そうすれば、何も悲しいことはなくなりますよ」
メフィストの言葉は、枯れ果てた真理の心には、この上もなく甘美だった。
それでも真理は、残った僅かな理性をフル動員して、闇色の男に尋ねた。
「私が忘れてしまったら、リョウはどうなるの?」
「初めから存在しなかったことになります。人間の存在というのは脆いものです。死んでしまえば、誰かの記憶の中にしか存在できない。ですから、あなたが彼を忘れれば彼の存在はこの世から消え去る」
「そうしたら、リョウは!」
最後の力を振り絞って甘い誘惑に抗おうとする真理に、メフィストは咎めるような視線を向けた。
「真理さん。何度も言うようですが、リョウという人間は死んだのです。死者は何も与えてはくれない。死んだ者を思い出すことは、生きているあなたを苦しめるだけです。それならば、全て忘れてしまえばいい。あなたを苦しめる存在など、初めからなかったことにしてしまえばいい。そうすればあなたは、苦しみから解放されるのです」
「……」
真理にはもはや、抗う力は残っていなかった。メフィストの言葉を聞き流すには、真理にとってリョウの存在は大きすぎ、彼の死の記憶は苦しすぎた。
真理が何も言えなくなったのを見て、メフィストは満足そうに唇の端を吊り上げた。
「さぁ、全て、忘れるのです」
ことさらにゆっくりと、メフィストが告げる。
真理は彼の、スーツと同じ闇色の瞳を見上げ、ゆっくりとうなずいた。




