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第六章

 真理は、動けなかった。

 頭ははっきりしているのに、身体は少しも言う事を聞いてくれない。

 彼女の目の前には、あの日の光景が広がっていた。

 太陽が沈んだばかりで、薄暗くなり始めた冬の黄昏時の街。会社の終業時刻を迎え、仕事を終えた人々が足早に帰途につく、交差点の前。

 何度も見た、光景。

 真理はその光景から逃れようと、目を閉じようとするが、まぶたさえも彼女の思い通りには動いてくれなかった。

 ――嫌だ。この先は見たくない。

 心の中で悲痛な叫びを上げる真理をあざ笑うかのように、情景はとどまることなく流れていく。

 交差点の向こう側に、一人の少年が姿を現した。無機質に街を行く人々の中で彼だけが、まるでその身体からまばゆい光を放っているかのように、はっきりと際立っていた。

「リョウ……」

 真理の唇から、声にならない声が、零れた。

 必死の思いで彼に呼びかける真理に、少年が気づくことはなかった。彼はしきりに時計を気にした様子で、交差点の信号が青に変わるのを待っているようだった。

「リョウ! ……来ちゃだめ!」

 真理の叫びはしかし、やはり声にならなかった。

 この先に何が起こるのか、真理にはわかっていた。

 ――なんとしてもリョウを止めなくちゃ。

 心臓は高鳴り、頭がカッと熱くなる。

 しかし、体はぴくりとも動かない。叫び声が、音になる事もない。

 交差点の信号が、青に変わった。

 少年が、横断歩道に足を踏み出した。

 そこに、赤信号を無視して急加速したオートバイが迫った。

 急ブレーキの音が、響いた。

 すべてが映画のコマ送りのように、真理の眼前で進んでいく。

「リョウ!」

 ふたたび、声にならない叫び。

 だがそれは、すでに定められた運命を変えることはできなかった。

 猛スピードで走っているはずのオートバイが、まるでスローモーションを見ているかのようにゆっくりと、少年に迫る。

 気付いた少年がそれを避けようとするが、その動きも極めて緩慢なものだ。

 少年がバイクを避けられない事は、誰の目にも明らかだった。

「!」

 真理の視界が、紅く染まった。

 遠のく彼女の意識の片隅で、耳障りな救急車のサイレンの音だけが、いつまでも響いていた――。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

 真理は、自分の荒い息で目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。全身にびっしりと冷たい汗をかいている。

 いつものことだ。あの日から一年になるが、悪夢を見なかった日は一日としてない。

 とはいえ、胸の張り裂けるような、頭の中をかき回されるような不快感は、毎日感じても決して慣れることはなかった。

「……リョウ」

 真理は、血を吐くように、苦しげにその名を呟いた。

 気づけば頬が濡れている。それもいつものことだ。

 全身を駆け巡る行き場のない激しい感情の捌け口を求めるように、真理は唇を噛み、強く握った拳をベッドに叩きつけた。金属製のスプリングが、軋んだ音を立てる。

 その時ふと違和感を覚えて、真理は握り締めていた拳を開いた。開いた拳の中から、くしゃくしゃになった紙切れが出てくる。いつの間にか握り締めていたらしい。

 それは、クロサキと名乗る男が置いていった、名刺だった。

 唐突に、真理の頭の中でクロサキの言葉が甦った。

『悲しい記憶を消し、そんなことははじめから存在しなかったことにしてしまえばよいのです。そうすればあなたは悲しみから解放されます』

 半ばマヒした真理の渇いた心に、甘美な香りをまとったクロサキの――悪魔メフィストの言葉が、ゆっくりと沁み込んでいく。

「リョウ……」

 もう一度、すがるように彼の名を呼んだ真理の声は、弱々しく、震えていた。

 そして彼女の声に応えるものは、ただ静寂のみだった。

「……」

 真理は、くしゃくしゃの名刺を虚ろな瞳で見つめ、かたわらの携帯電話に手を伸ばした。

 彼女の震える指が、ゆっくりと、携帯電話のボタンを押し始めた。

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