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第五章

 それは、闇が人の姿を取ったものとでもいうべきであろうか。

 闇と同じ色のスーツを身にまとったその人影は、しかし服の色のためではなく、その内側の雰囲気のために、闇の中に深く溶け込んでいた。

 彼の名はメフィストフェレス。

 光から生まれた天使たちとは対照的に、深い闇の中から生まれた存在。

 彼の正体は、悪魔であった。

 悪魔たちはそれぞれ特殊な能力をその身に宿し、深き闇の中で暗躍していた。

 彼らの目的は、誰も知らない。もしかしたら、彼ら自身さえも。

 メフィストフェレス、通称メフィストが司っているのは、人間の記憶であった。彼の役目は、絶望した人間の記憶を消すこと。

「……了解しました」

 彼が、誰かに向けて深々と頭を垂れた。その顔に浮かぶ感情は、深い尊敬と、畏怖。

 会話の相手は見あたらない。メフィストの前に広がるのは、果てしない闇。

 メフィストは、最後にもう一度、闇に向かって一礼するとその身を翻し、闇に消えた。



 誰かの気配を感じて、真理は身を起こした。

 意識がはっきりとしない。どうやら、泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。

 重い目蓋を、どうにか持ち上げてみる。目を開いては見たものの、あたりはやはり闇の中。

 自分が本当に目を開いているのかどうかさえ、よくわからなくなってくる。

 そんな濃厚な、闇。

「何かお悩みのようですね、お嬢さん」

 不意に、闇が声を発した。地の底から響くような、低く張りのある声。

 喋ったのは、闇の中に溶け込んだ、闇色のスーツをまとった人影だった。

 真理はバッと身を固くする。

「誰っ?」

 闇の中を見据えるように目を凝らす。闇の中のその人影は、笑ったようだった。

「おや、驚かせてしまったようですね。これは失礼いたしました」

 人影は、芝居がかった動作で一礼する。

「申し遅れました。わたくし、こういうものです。以後お見知りおきを」

 スーツの胸ポケットから一枚の名刺を取り出し、真理に向かって恭しく差し出す。白い紙の名刺は、闇の中でやけに明るく、光って見えた。

 優雅な、しかし有無を言わせぬ雰囲気をまとった彼の言動に、真理は思わず名刺を受け取っていた。そのまま、ほとんど反射的に受け取った名刺に視線を落とす。

「メモリアル、コンサルタント……?」

「いかにも。メモリアル・コンサルタント、すなわち『記憶相談員』のクロサキでございます」

 そう言って、スーツの人影――クロサキは、再び一礼した。そして身をかがめ、座り込んでいる真理の瞳を覗き込んだ。

「お嬢さん、あなたは悲しい記憶をお持ちのようだ。……最近、大切な方を亡くされた、とか?」

 頭の中に直接響いてくるようなクロサキの言葉に、真理はハッと身を強張らせた。射抜くような視線でクロサキの瞳を見つめ返す。

 クロサキはそんな真理の視線を意に介した様子もなく、大袈裟に哀しげな表情を作って見せた。

「……やはりそうなのですね。あなたの瞳の奥には、深い悲しみが宿っていらっしゃいます。たとえ顔は笑っていても、その悲しみの光は決して消えることはない」

 そう言って肩をすくめてみせるクロサキ。真理は彼から目をそらし、うつむいて唇を噛む。

「ですが、このわたくし、その深い深い悲しみを消すことができます」

 幼い子供に言い聞かせるように、甘く優しい声でクロサキは言った。弾かれたように、真理がその顔を上げてクロサキを見つめる。

 クロサキはそれを確認して、満足そうに唇の端を上げた。そして真理の瞳をじっと見つめ、さらに優しい声を出す。

「あなたの悲しみの記憶を、消すのです」

「……記憶、を?」

 絞り出すように声を上げた真理に、クロサキはゆっくりとうなずいた。

「ええ。悲しい記憶を消し、そんなことははじめから存在しなかったことにしてしまえばよいのです。そうすればあなたは悲しみから解放されます」

「……はじめから、存在しなかったことにしてしまう……」

「どうです? あなたも悲しみから解放されたいと願っているんでしょう?」

 クロサキがあくまで優しく、しかし強く、真理に迫ってくる。

 心臓が早鐘を打っている。頭の中に霞がかかったようで、うまくものを考えられない。

 頭の片隅に、微かに言葉が浮かんだ。真理はそれを必死で捕らえ、口に出した。

「でも……でも、リョウが」

 真理の言葉に、クロサキは眉をピクリと震わせた。小さく舌打ちをしたようにも思えたが、真理にはよくわからなかった。

 「お嬢さん、残念なことですが彼は死んだのです。そして後に残ったのは、彼を失った喪失感と悲しい記憶。それならばはじめから会わなかったことにしてしまえば。そうすれば、喪失感も悲しみも、全て消え去ります」

 クロサキの言葉は麻薬のように真理を酔わせ、引き込もうとする。

 しかし、真理の頭の片隅に残った彼の名前だけが、ちくりと胸を刺す針のように真理の心を引きとめ、彼女が甘い誘惑に身を委ねることを許さなかった。

「その……考えさせて欲しい」

 真理の言葉に、クロサキは驚いたように眉をひそめた。しかし、すぐに余裕のある笑みを取り戻し、ゆっくりとうなずいた。

「ええ、いいですよ。じっくりと考えてください。……心が決まったら、その名刺に書いてある番号に連絡してください」

 クロサキは、最後にひとつ優雅に一礼をして、来たときと同じように闇に溶けるように消え去った。

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