第三章
昼下がりの、教会の中庭。
石造りの天使像を配した小さな噴水の傍らに木のベンチが置かれている。
午前の授業を終えたラファエルは、そこに腰掛けてひとときの読書を楽しんでいた。噴水を流れる水の音と、木々の葉が風に吹かれてそよそよとなる音が心地よい穏やかな午後。
「はぁ〜あ」
その穏やかな空間に似つかわしくない盛大なため息に、ラファエルはページをめくる手を止めて顔を上げた。
「どうしたんですか、ミカエル。ため息なんてついて」
見れば、隣のベンチに座ったミカエルが、噴水を見つめて浮かない顔をしている。
「あ、ラファエル先生……」
声をかけたラファエルに気づいて返したミカエルの声にも、いつもの元気がなかった。
「仕事に向かったのではなかったのですか?」
ラファエルは読みかけの本にしおりを挟むと、パタンと閉じた。そしてミカエルの方に向き直り、うつむいた彼の顔を覗き込んだ。生徒の仕事の悩みの相談に乗るのも、先生の大切な役目だ。
「行ったは行ったんですけど……」
「追い返されたんですか」
「……はい」
がっくりとうなだれるミカエル。そんな彼に、ラファエルは優しく微笑みかけた。
「一度で成功しようというのは、難しい話です。一度追い返されたくらいで、あきらめてはいけませんよ」
しかしその言葉も、ミカエルの浮かない顔を明るくさせることはなかった。
「わかってはいるんですけど……」
少しだけ顔を上げ、ラファエルにそう言うと、ため息をついてまたすぐにうつむいてしまう。
いつになく落ち込んでいるミカエルの様子に、ラファエルは軽く首をかしげた。
「何か、あったんですか?」
「オレ、どうすればいいかわかんなくて……。あの子は、心に深い傷を負ってるんですよね? そんなあの子に対して、オレにはいったい何ができるんだろう、って」
「……ミカエル」
純粋で真っ直ぐな彼だからこその、悩み。あくまでも真剣なまなざしで語るミカエルを見て、ラファエルは顔をほころばせた。ミカエルはそれに気づく様子もなく、さらに話を続ける。
「天使なんていっても、オレには何の力もないし。あの子の傷を分かってやれるわけでもない。オレにできることなんて、何一つないんじゃないか、って。……分からないんです、何が正しい答えなのか」
ミカエルは、そう言って悔しそうに唇を噛んだ。何もしてあげられない自分が、もどかしい。
「正しい答えなんて、あると思いますか?」
不意に、ラファエルが尋ねた。ミカエルが驚いたように顔を上げる。
「え…?」
「何が正しくて、何が間違っているのか。そんなものは誰にもわかりません。どの道を選んでも、もしかしたらそれが間違っているのかもしれない、そんな不安を抱きながら、それでも人は決断しなければならない」
ひとつひとつ、かみしめるように言葉を区切りながら語るラファエルに、ミカエルは小さくうなずいた。
「ミカエル、あなたはどうしたいですか?」
ミカエルの瞳を真っ直ぐに見つめて尋ねるラファエル。ミカエルは、目をそらさなかった。
「オレは……あの子の傷を、やわらげてあげたい。どうすればそうできるのかはわからないけど。……でも、なんかほっとけないんだ」
ミカエルの答えに、ラファエルは満足そうに目を細めた。
「ならば行きなさい、ミカエル。これはあなたが決断しなければならないことです」
「オレが、決断しなきゃならないこと」
自分に言い聞かせるように、確かめるように繰り返す。ラファエルは彼を励ますように、ポンとその肩を叩いた。
「大丈夫、あなたならきっと彼女を救うことができます。いいえ、これはあなたにしかできないことなのです」
その言葉にミカエルは、ゆっくりと、しかし力強くうなずいた。そしてくるりと背を向けると、走り出した。
振り返らずに、しっかりと前を見つめて――。




