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第十章

「真理! 真理!」

 静寂と闇が、そこにいる者の精神を蝕んでゆくような、孤独な部屋。そんな雰囲気を切り裂くように、ミカエルが部屋の中に飛び込んできた。

 部屋の主である少女、真理は突然の闖入者に冷たい視線を投げかけた。唇を横一文字に引き結び、何かに耐えるような表情でミカエルを睨みつける。

「聞いてくれ、真理! 全部思い出したんだ! オレはリョウだったんだ!」

 ミカエルが叫ぶ。その瞳はまっすぐに真理を見つめている。

「……」

 真理は何も言わずに目をそらした。彼のまっすぐな視線が、痛い。

「なぁ真理、聞いてくれよ!」

 何も答えない真理に焦れたように、ミカエルが真理の方に一歩踏み出そうとした。

「来ないでっ!」

 真理の、悲鳴のような叫びが部屋に響いた。

 突然の大声に、ミカエルは凍りついたように動けなくなる。

「……真理?」

 呟いた声は、かすれていた。

 真理の叫び、それは明確な拒絶だった。

 ――あの娘は、記憶を取り戻すことなんて望んじゃいない。

 ミカエルの脳裏に、メフィストの言葉が甦った。

「リョウは」

 真理が口を開いた。嗚咽を堪えているような、震えた声。

「リョウは、死んだの。お願いだから、これ以上あたしを苦しめないで!」

 震えた叫びは痛々しく、苦しげだった。

「リョウは、リョウはあたしの全てだったの。いつだってあたしのそばにはリョウがいた。街を歩いてても、家にいても、どこにだってリョウとの思い出があって……」

 呟くように紡ぎ出すように、真理は言葉を続ける。泣きはらした赤い目から、不意に涙が一筋、零れて落ちた。

「だけど……だけど、もうリョウはいないの! リョウのことを思い出すたび、もうリョウはいないんだって、改めて思い知るのよ!」

 ヒステリックに叫んで、真理がその血走った目を、咎めるような視線を、ミカエルに向けた。

「……」

 ミカエルは、何も答えられなかった。

 何を言えばいいというのだろうか。リョウの死は真理を苛み続け、この一年の間彼女の心が休まることは一度たりとも無かったのだ。その苦しみは、彼女自身の他には誰にも理解することはできないように思えた。

「だから」

 不意に真理が、呟くように言葉を発した。先ほどまでの熱っぽい、震える声とは違う。全てを諦めたような、渇いた声。

「いっそのこと忘れてしまえば。全て忘れてしまえば、こんな思いをしなくてすむのかな……」

 消えてしまいそうな、真理の呟き。その姿がたまらなく悲しくて、ミカエルは激しく頭を振った。

「……全部、忘れちまうのか? オレのことを。オレが、この世界にいたってことを」

 苦しげに呻いたミカエルの言葉に、真理は答えなかった。ただ虚ろな瞳を、部屋の中に漂わせている。

「嫌だよ……」

 絞り出すように、ミカエルが呟いた。その目は変わらずにまっすぐと、真理に向けられている。

 虚ろだった真理の瞳に、かすかに光が宿った。いぶかしむような目が、ミカエルに向けられる。

「いやだ……忘れてほしくない。今は、たとえ悲しい記憶でも、オレが、オレがこの世界にいたってことを覚えていてほしいんだ!」

 ミカエルが叫んだ。まっすぐで純粋な、心の底からの叫び。その純粋さが真理にはひどく暖かかくて、そしてひどく痛かった。

「……」

 それでも真理は、やはり何も言えなかった。ぎゅっと目を閉じて、顔を背ける。

「オレの、わがままなのかな。忘れてしまった方が、真理のためなのかな」

 そう言ったミカエルの声は、ひどく弱々しかった。それはひと吹きで消えてしまう、儚いろうそくの炎のようで。

「……リョ、ウ?」

 真理が、ぎこちなく言葉を発した。その言葉は小さすぎて、ミカエルに、リョウに届かない。

「でも、お前がオレのことを忘れてしまったら、全てが消えてしまう! オレが、お前とここにいた証が全て。それが……それが、何よりも怖い」

 呟いて、ミカエルはうなだれた。がっくりと膝をつき、肩を落としてうつむく。

 糸が切れたように、ミカエルはその場に座り込んだ。

「……」

 違う、何かが違う。このままではいけない。

 真理の胸の奥の方で、何かが騒いでいる。

「ごめんな、全部オレのわがままだよ。オレのせいで真理は、ずっと苦しんだんだもんな。もういいよ。もういい。ゆっくり休んでくれ」

 そう言ったミカエルは、燃え尽きたように虚ろな表情だった。彼の瞳はもはや、輝いていない。

「……よくないよ」

 我知らず、真理は呟いていた。キッと、潤んだ瞳をミカエルに向ける。

 驚いたようなミカエルの瞳に、輝きが戻った。

「リョウのバカ! いいわけないじゃない! 忘れるわけ、無いじゃない……!」

 最後の方は、溢れる涙と嗚咽で言葉にならなかった。

「……真理?」

「今まで散々心配かけたんだからね! 絶対に忘れてなんかあげないんだから!」

 胸の奥からあふれ出してくる思いをぶちまけるように、真理は叫び続けた。

「……ごめん」

 リョウの、優しく暖かい声。それは、真理との待ち合わせに遅れた彼が、小走りで駆け寄りながら言ったあの日の声とおんなじで。

「謝ったって、許してあげないわ」

 だから真理は、嗚咽を堪えてできるだけ胸を張って、そう言った。

「え?」

 呆気に取られたような、ちょっと間抜けなリョウの顔。暖かい何かが、真理の心を満たした。

「……この先ずうっと、あたしのこと見守ってて」

 そう言って真理は、微笑んだ。一年ぶりの、心の底からの笑顔。

「……ああ」

 リョウも、優しく微笑んだ。ぽん、と暖かい手が、真理の頭を撫でる。

「約束だからね」

「ああ、約束する」

 真理の中で、張りつめたものが、優しく溶けていった。

「バカ! 何で死んだのよぉ!」

 真理はリョウの胸にしがみついて、声を上げて泣いた。

「ごめん、な」

 リョウが優しく、その華奢な身体を包んだ。真理の背中に腕を回し、壊れやすいガラス細工のように優しく静かに、その身体を抱きしめる。


 窓の外では、粉雪が舞い始めていた。二人を祝福するように、真っ白な雪は、街を静かに染めていった。

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