後編
ある日のこと、若い男性が花を買いに来た。
「好きな人に花を送りたいのですが、選んで戴けませんか」
それは20代後半と思える、笑顔のさわやかな人だった。
「その方は女性ですか」と尋ねたら
「ええ、勿論です。とても可愛らしい感じの人です」
はきはきとした声で伸びやかに言った。
予算を尋ねたら「いくらでも構いません」
悩みながらも私の好みで、花束をこしらえて差し上げた。3200円。
お釣りを渡したら
「この花をあなたに贈ります」と自分でこしらえたばかりの、花束を渡された。
嫌な感じがした、うれしくなかった。この人のさわやかさも消えた。
その人に笑顔を贈る気持ちは、少しも湧かなかった。
この男は初めから『私の驚きを計算して』花束を買ったのだ。
美智子さんにこの話しをしたら
「それは勿体無いことをしたわね。それならもっと高価な花を選んでおけば良かったわね。でも気にしないで、陽子ちゃんは可愛いから、可愛い子は徳ね。同じようなお客はこれ方も続くわよ。男の発想なんて大体同じよ。気にしない、気にしない。陽子ちゃんのお陰で、売り上げは伸びる」
美智子さんはどこまで本気なのだろう。お店の売り上げを気にしたのだろうか、私を慰めたのだろうか。私を茶化したのだろうか。解らなかった。
でも、可笑しくて二人で笑い合ってしまった。
「ねえ陽子ちゃんはどうして、たんぽぽが好きなの?」
「いつも身近に咲く花だから」
「でも、珍しさに欠けるじゃない」
「珍しさなんて要りません、たんぽぽが好きなんです」
「何だか陽子ちゃんて、不思議な子ね」
「私には美智子さんの方が不思議ですよ」
美智子さんは、私が不思議に思った理由を聞いて来なかった。
いつの間にか店内の、混沌とした臭いも気に成らなくなっていた。
それから数日後、美智子さんは
「お店に、たんぽぽの花、並べてみようか?」と相談してきた。
「冗談でしょう」
「少し本気よ」
「でも生花市場で、たんぽぽを仕入れられるんですか」
「あっそうか、ある意味、たんぽぽは珍しい花だわね」
「それに、たんぽぽを買う人なんて誰もいませんよ」
「そうよね、誰も買わないか、それでも私は良いんだけれどね。ふふふ。」
美智子さんは呑気に笑っうようで、それでいて寂しそうだった。
「でも、どうして急に、たんぽぽなんですか」
「たんぽぽ、私も好きになった」
美智子さんは、別れてその後死んでしまった男の人が、今でも好きなんだろうと思った。
「昔から、たんぽぽ、好きだったんじゃないんですか」
「それはどうかなぁ」
「私、勝手にそう思います」
「どうぞ、ご勝手に」
「ねえ美智子さん、いっそうの事このお店の名前を『たんぽぽ』に変えませんか」
思い切ってそう言ったあと、束の間の沈黙があった。
美智子さんはその時、何を見ていたのかは解らない。
ぼんやりとした視線で中空を見つめているように見えた。
私は美智子さんの顔ばかりを見つめていた。
「陽子ちゃん、それ良いね。そうしようか」
すると美智子さんの頬に涙がこぼれた。
「はい、良いと思います」
私は、店内に並べられた沢山の花を見ながら、泣いた。
その涙は不思議でもなんでもなかった。
それからの私は生きようと思って、ご飯を食べた。