前編
たんぽぽ
5年間勤めた銀行を辞めてから、一月ほどはのんびりとした時間を過ごした。
読みたかった本をまとめて読んだし、友達とお酒を飲みながら深夜まで話し込んだし、
お菓子作りにも挑戦してみた。
親には銀行を辞めた事は言えなかった。
言えば父は怒って「実家に戻って、さっさと嫁に行け」と言うだろう。
さらに「どれだけ頭を下げて、採用してもらったと思っているんだ」と言うだろう。
母は「辞めちゃってさ、お前は本当に馬鹿だね」それしか言わないだろう。ただし、いつまでも母はそれを繰り返す。
父も母も、私の平凡な寿退社を願う人たちだ。
そんな両親の娘への愛情も義理も、ただただ重たいだけ。
一月ほどはのんびり過ごせたけれど、それから先の日々は持て余す時間が苦しくなった。
時計の秒針を見ると息苦しさを感じた。
死にたいとまでは思いつめなかったけれど、生きていたくもなかった。
テレビをつけるとワイドショーで『自殺は愚か者の決断だ』と言っていた。
軽い言葉に吐き気がした。
生きていたくもないけれど、お腹がすけば何かを食べた。
私の身体は、脳とは違う行動を取らせている。不思議だなと思う。
中学時代の担任は「簡単に不思議という言葉を使うな。探究心のなさを不思議という言葉で片付けてはいけない」
そう教えたけれど、こんな自分のどこを探究すれば、答えが出るのだろう。
生きていたくもないのに、お腹がすけば何かを食べる。
不思議だなと思う。
アルバイトをする気なんてなかた。
当分の間の生活費には困らないし、労働意欲なんてさらさら湧かなかった。
近所の花屋の花を見つめていた。
小さな店先に私の知らない花が沢山あった。
私にはまだまだ知らないことが多いと思った。
引き戸のガラスに『アルバイト募集中』の張り紙。
時給金額を読むと、とっても安い。
ボーナスだって無いし、有給休暇も無くてこの賃金かと思うと、世の中の厳しさを改めて知った。
その張り紙を見つめていたら、店内から女性が現れて
「アルバイト、お願いできませんか」
突然に声を掛けられて、一瞬、あっけに取られてしまった。
その女性はとても綺麗な人でした。
特に高価なものは身に着けてはいないけれど、どこかセンスが良い感じがした。
きっと細やかなところに、気配りが出来る人なんだろう。うらやましく思う。
そして花屋に良く似合う、やさしい雰囲気が漂っていた。
「時給、安くて申し訳ないんですけれど、アルバイトお願いできませんか」
私はいったい何を見込まれたのか、解らなかった。
『お願いできませんか』という言葉に私は戸惑った。
「あら、ごめんなさいね。勘違いでしたか、アルバイトを探しているのかと思ってしまって。ごめんなさい」
戸惑っている私に、その女性はそう言って頭を下げてくれた。
「いいえ、別にそう言うわけではないのです」
探究できない不思議なんて、結構身近に沢山あるのだと思う。
私はその花屋でアルバイトを始めてしまった。
美智子さん、32歳。この小さな花屋の女店長。
私よりも9歳上。たかが9歳、されど9歳。
美智子さんは、時には同級生の様であって、時には手の届かない大人だった。
花屋で働き出して、すぐに気づいた。
多種多様の花の香りが渦巻いている。その臭いは、あるいは混沌と沈殿している。
それは香りという言葉で言い表すよりも、臭いと言いたい位の不快感があった。
それぞれの花が自己主張をして、臭い。
花屋なんて、可憐さを楽しみ通り過ぎるもので、店内に長く留まるべき所ではないと思った。
「ねえ、陽子ちゃんはどんな花が好き」
「たんぽぽ」
美智子さんは笑いながら
「残念ね、このお店には置いてないもの」
これが同級生の美智子さん。
「別れた男も、たんぽぽが大好きだった。死んじゃったけれどね」
「事故ですか」
「ううん、自殺」
これが大人の美智子さんの横顔。