お母さん、お母さん
第一章
「お母さん、お母さん」
その声が聞こえた瞬間、私の足は思わず止まった。
大型ショッピングモール「ベイサイド・プラザ」の三階、カジュアル衣料品店の前でのことだった。週末の午後、フロアには家族連れやカップルが行き交い、BGMには季節外れのクリスマスソングが流れている。
「お母さん、ちょっとよろしいですか」
二度目の呼びかけで、私はようやく振り返った。そこには二十代前半と思われる、明るい茶髪をポニーテールにまとめた女性店員が、満面の笑みを浮かべて立っていた。胸元の名札には「研修中 山田」と書かれている。
「え、私……ですか?」
思わず周囲を見回してしまう。私の後ろには誰もいない。左右にいる友人の麻衣と結花も、同じように戸惑った表情で立ち尽くしている。
「はい、お母さん。今日は新作のセール初日でして、こちらの秋物ニット、とってもお似合いになると思うんです」
店員さんは、私の腕に掛かっていたベージュのカーディガンを指さした。確かに試着してみようかと手に取ったものだった。だが、そんなことは今、どうでもよかった。
お母さん。
その言葉が、胸の奥深くまで突き刺さった。
「あの、すみません。今日は見るだけなので……」
私は声を絞り出すように言って、カーディガンをラックに戻した。店員さんは「また是非お立ち寄りください」と丁寧にお辞儀をしたが、私にはもう、その笑顔を見る余裕もなかった。
「由香、大丈夫?」
麻衣が心配そうに声をかけてくる。
「うん、大丈夫。ちょっと、喉乾いちゃった。カフェ行こうか」
努めて明るい声で答えたつもりだったが、自分でも声が上ずっているのが分かった。
第二章
エスカレーターで四階のカフェエリアに向かう間、私の頭の中は「お母さん」という言葉でいっぱいだった。
三十四歳。確かに、世間的には「お母さん」と呼ばれてもおかしくない年齢だ。高校時代の同級生の多くは、すでに小学生の子どもを持っている。Facebook を開けば、子どもの運動会の写真や、夏休みの家族旅行の投稿が溢れている。
でも、私は違う。
私には子どもはいない。結婚もしていない。三年前に五年付き合った彼氏と別れて以来、恋愛らしい恋愛もしていない。
「由香、本当に大丈夫?顔色悪いよ」
結花が私の肩に手を置いた。結花は私の大学時代からの親友で、去年結婚したばかりだ。旦那さんはIT企業の管理職で、そろそろ子どもも考えているらしい。
「ねえ、さっきの店員さん、ひどくない?普通、お客さんを『お母さん』なんて呼ばないでしょ」
麻衣が憤慨した様子で言った。麻衣は独身で、私と同じ広告代理店で働いている。仕事ができて、いつもパリッとしたスーツを着こなしている彼女は、実は私より二つ年下だが、まったくそうは見えない。見た目じゃない。中身がしっかりしているのだ。
「いや、でも……子どもがいそうな年齢ってことなんでしょ。事実だし」
私は苦笑いを浮かべながら、カフェの席に座った。窓の外には、秋晴れの空と海が広がっている。美しい景色なのに、今日はどこか色褪せて見えた。
「事実とか関係ないよ。あんなの、ただの配慮不足」
麻衣がメニューを乱暴に開きながら言う。
「まあまあ。でも由香、本当に気にしてるの?あの店員さん、多分悪気なかったと思うよ。研修中って書いてあったし」
結花が優しく言った。
「気にしてないわけないじゃん」
私は思わず、声を荒げてしまった。結花が驚いたように目を見開く。
「ごめん。でも……やっぱりショックだったの。私、そんなに老けて見えるのかなって」
第三章
カプチーノが運ばれてきて、三人でしばらく黙ってカップに口をつけた。
「ねえ、覚えてる?私たち、二十代の頃、三十代なんて大人だと思ってたよね」
麻衣がふいに言った。
「思ってた。三十過ぎたら、もっと落ち着いて、何もかも分かってる大人になってるんだろうなって」
結花が頷く。
「でも実際は、全然そんなことなかった。心は二十代の頃と何も変わってない気がする」
私も同意した。本当にそうだった。鏡を見れば、確かに目尻に小じわが増えて、ほうれい線も目立ち始めている。でも、心の中にいる私は、まだ二十代の、可能性に満ちた女の子のままだった。
「大阪の商売人はね、お客さんを年齢関係なく『お姉さん』『お兄さん』って呼ぶらしいよ」
麻衣がスマホを見ながら言った。
「え、本当?」
「うん、今検索したの。八十歳のおばあちゃんでも『お姉さん』って呼ぶんだって。それが商売の基本なんだって」
「いいね、それ。東京でもそうすればいいのに」
結花が笑った。
「そうだよ。誰だって、自分の年齢を素直に受け入れられるわけじゃないんだから」
私はカプチーノの泡をスプーンですくいながら呟いた。
その日の夜、実家から父が電話をかけてきた。
「由香か。今度の日曜日、暇か?」
「どうしたの、急に」
「いや、母さんが『たまには由香と三人で外食したい』って言ってな」
父の声は、いつもより少し弾んでいるように聞こえた。
日曜日、私は久しぶりに実家近くのファミリーレストランで両親と食事をした。母は相変わらず元気そうで、最近始めた社交ダンスの話を楽しそうに語っていた。
「お父さんも一緒にやればいいのに」
母が父に言うと、父は苦笑いを浮かべた。
「俺はいいよ。そういうのは苦手だ」
食事が終わり、母がお手洗いに立った時、父がふいに呟いた。
「なあ、由香」
「何?」
「俺、今年で七十歳なんだよな」
「うん、知ってるよ。今年の誕生日、みんなでお祝いしたじゃん」
父は窓の外を見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「自分ではまだ三十代くらいの気分なんだよ。信じられるか?」
私は驚いて父の顔を見た。父は少し照れくさそうに笑っていた。
「自分がまさか七十歳になるなんて思っていなかった。まだまだ若いつもりだったのにな」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸が熱くなった。
「お父さんも……そうなんだ」
「そうなんだよ。鏡を見ると、知らないじいさんが映ってる。『誰だ、こいつは』って思うんだ」
父は自嘲気味に笑った。
「でもな、心の中は全然変わってない。昔と同じように、まだできることがたくさんあるような気がしてる。体は言うこと聞かなくなってきたけどな」
私は先週のショッピングモールでの出来事を父に話した。「お母さん」と呼ばれたこと。三十四歳の自分が、まだ心は二十代だと思っていること。
父は静かに聞いていた。
「由香もか」
「うん」
「人間ってのは、いくつになっても心は変わらないもんなんだな」
父がしみじみと言った。
「七十歳の俺も、三十四歳のお前も、心の中では『まだまだこれから』だと思ってる。それって、悪いことじゃないと思うんだよ」
「悪いこと……じゃない?」
「ああ。それがあるから、人は前を向いて生きていけるんだと思う。『もう年だから』って諦めたら、そこで終わりだ」
母がお手洗いから戻ってきた。
「二人で何話してたの?」
「いや、別に」
父と私は顔を見合わせて笑った。
帰り道、私は何度も父の言葉を反芻していた。
七十歳の父も、心は三十代。
三十四歳の私も、心は二十代。
それは、きっと八十歳になっても、九十歳になっても、変わらないのかもしれない。
人は誰でも、心の中に「若い自分」を抱えて生きている。
それは否定すべきことでも、恥ずかしいことでもない。
むしろ、それこそが人間の強さなのだと、父が教えてくれた気がした。
第四章
カフェで一時間ほど過ごした後、気を取り直して私たちは再びショッピングに繰り出した。
今度は化粧品売り場だ。
「いらっしゃいませ、お姉さま方」
カウンターの美容部員が、丁寧な言葉で迎えてくれた。四十代くらいの、上品な女性だった。
「お姉さま」という呼び方に、私は少しだけ救われた気がした。
「今日は何かお探しですか?」
「ええと、最近ほうれい線が気になってきて……」
私が言いかけると、美容部員は優しく微笑んだ。
「お姉さまのお肌、とてもお綺麗ですよ。でも、そうですね、エイジングケアは早めに始めるのが大切です。こちらの新作美容液、いかがでしょうか」
彼女が差し出したのは、小さな瓶に入った、少し高級そうな美容液だった。
「これ、ヒアルロン酸とコラーゲンが豊富に含まれていて、肌のハリと弾力を取り戻してくれるんです。三十代の方に特に人気なんですよ」
三十代。
またその言葉が胸に刺さった。でも、今度は先ほどほどのショックはなかった。この美容部員は、私を「お姉さま」と呼び、敬意を持って接してくれている。同じ「三十代」という事実を伝えるにしても、言い方ひとつでこんなに印象が違うものなのだ。
「試してみます」
私は財布を取り出した。少し高い買い物だったが、今の私には必要な気がした。
第五章
家に帰り、一人になって鏡の前に座った。
購入した美容液を手に取り、丁寧に顔に馴染ませていく。すべすべとした感触が心地よかった。
「お母さん、お母さん」
あの店員の声が、まだ耳に残っている。
でも、少しずつ、その言葉の重みが変わってきていた。
確かに私は三十四歳だ。二十代ではない。でも、それは恥じることでも、否定すべきことでもない。
ただ、呼び方には配慮が必要だということだ。言葉ひとつで、人は傷つくこともあれば、救われることもある。
大阪の商売人のように、すべての女性を「お姉さん」と呼ぶ文化。
それは、ただのお世辞ではなく、一人ひとりの尊厳を大切にする、優しさの表れなのかもしれない。
スマホに麻衣からメッセージが届いた。
「今日はごめんね。でも由香は本当に若く見えるよ。あの店員が変なだけ!」
続けて結花からも。
「明日からまた頑張ろうね。由香は由香のペースでいいんだよ」
私は小さく笑って、二人にハートのスタンプを送った。
鏡の中の自分を見つめる。
確かに、二十代の頃とは違う。でも、それは悪いことばかりじゃない。経験を重ね、少しずつ強くなっている自分もいる。
「お母さん」と呼ばれることに、いつか笑って耐えられる日が来るだろうか。
それは分からない。
でも少なくとも今日、私は一つ学んだ。
年齢を受け入れることと、それを他人に決めつけられることは、まったく別物だということを。
そして、言葉には力があるということを。
窓の外では、夕日が海を赤く染めていた。
明日はきっと、もう少しだけ強くなれる。
そう思いながら、私は美容液の瓶を大切に棚にしまった。
第六章
翌週の月曜日、出社すると、麻衣がデスクで難しい顔をしていた。
「どうしたの?」
「ああ、由香。ちょっと聞いてよ。今度の新規クライアント、化粧品会社なんだけど、ターゲットが『三十代からの女性』なんだって」
「へえ、それで?」
「それが、クライアントの要望がさ、『年齢に不安を抱える女性の心に寄り添う』キャンペーンにしたいって言うんだよ。でも、どう寄り添えばいいのか、私にもよく分からなくて」
私は先週のショッピングモールでの出来事を思い出した。
「ねえ、麻衣。ちょっとアイデアがあるんだけど」
「え、何?」
「『お姉さん』キャンペーン。どう?」
麻衣が不思議そうに首を傾げた。私はゆっくりと説明し始めた。
年齢を否定するのではなく、でも無神経に年齢を突きつけるのでもなく。
すべての女性を、年齢に関係なく、敬意を持って「お姉さん」と呼ぶ。
それは、大阪の商人の知恵であり、人間への優しさだと。
「面白いかも」
麻衣の目が輝いた。
「もっと詳しく聞かせて」
私たちは、その日一日中、新しいキャンペーンのアイデアを練った。
終章
三ヶ月後。
私たちが企画した「あなたはいつまでも、私たちのお姉さん」キャンペーンは、予想以上の反響を呼んだ。SNSでは「これを待っていた」という声が溢れ、クライアントの売上も大きく伸びた。
そして今日、私は再びあのショッピングモール「ベイサイド・プラザ」を訪れていた。
三階のカジュアル衣料品店の前を通りかかると、あの時の店員さんがいた。もう「研修中」のバッジは外れている。
彼女は、若いカップルに笑顔で話しかけていた。
「お姉さん、こちらのワンピース、とってもお似合いになると思いますよ」
私は思わず微笑んだ。
もしかしたら、あのとき私が感じたショックは、無駄ではなかったのかもしれない。
それが、今、こうして形になっている。
小さな変化かもしれない。
でも、言葉が変われば、世界も少しずつ変わっていく。
そう信じながら、私は秋の日差しの中を歩き続けた。
三十四歳の、でもまだまだ若い、一人の女性として。
【完】




