表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境開発公社・悪役令嬢課――断罪されたので国を黒字化します  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/25

第6話「二重堤と雨の試験」

 王都で紙と胃袋に勝ち、港で潮と税に目途を付けた。

 帰路の車輪は軽い。けれど、空の底は重かった。春の終わり、湿った風。丘の端で雲がほどけ、遠雷が金槌のように叩く。

 潮塩州へ入ると、あぜの上に立てかけた風見板がきしり、見張り台の旗が伏せた。空の匂いは鉄。土の匂いは眠い。眠っていて、すぐ起きる匂い。


「大雨が来る」とノア。

「二重堤の試験を前倒し」とわたくし。

 リースは手を高く上げ、兵と住民に拍で合図を流した。短長短が集会、長短長が配備、短短長が警戒。畦の上に散らばっていた人影が、音の帯に吸い寄せられていく。



 公社の机を外へ引き出し、紙を濡らさないよう天幕をかける。「洪水時運用仕様・初版」を広げ、朱を入れた。

 目的:畦の破断を避け、人命と畑と塩田を守る。

 構成:二重堤(内堤/外堤)、逃がし路(溢水路)、吐け口(非常用排水口)、拍の改定(警戒→避難→復帰)。

 測定:簡易雨量計(竹筒と目盛)、水位棒(赤紐で誤差を許容)、畦の声(鳴き杭の合奏)。

 許容差:計画からの遅延は千呼吸まで許容、書面と名を残す。逸脱は空白欄に記す。

 名:各区画の当番名と責任の分担(責任=罰ではなく、誇りの所在)。


 ジュードが汚い字で区画の当番名を書き込んでいく。男たちの名の間に、女の名、少年の名、老いの名。字は曲がるが、線は強い。

 ギータが油紙の束を抱えてきた。「規格書・二版+港仕様、耐水紙で五十部。雨でも読める。印刷職人のハンクが徹夜したってよ」

「紙の監査人の名を末尾に太字で」

「もう入ってる。字が黒々してた」


 ノアは畦の断面図を板に描いた。外堤は緩やかな角度で受け、内堤は鋭く支える。その間に逃がし路、さらに下手しもてに吐け口。

「外堤は“親”、内堤は“腕”。逃がし路は“寝場所”。吐け口は“口”」

「比喩がやさしい」とリース。「兵にも伝わる」

「口はどこに開ける?」とジュード。

「最も安い土地。犠牲を最小にして、速く楽に水が出られる場所」

 ジュードは歯を鳴らして笑った。「楽、ね。水の“楽”は人の“楽”とちょっと違うが、嬢ちゃんの言う“楽”は信じていい」



 雲の端が縫い目のように暗くなり、最初の粒が落ちた。冷たい。音はまだ薄い。

 拍が切り替わる。長短長。人の列が二手に分かれ、一手は外堤の築き替え、一手は逃がし路の掘り起こし。

 子どもたちには簡易雨量計を持たせた。竹筒に刻んだ目盛、赤い糸のしるし。三十呼吸ごとに報告。「ひと目盛り」「ふた目盛り」。報告の名は大きな紙に刻む。名は誇りだ。

 老いた女が言う。「わしの若いころは、雨は音で測った」

「今もそう。音の合奏に、目盛を足すだけです」


 雨は強く、低くなる。畦の声が増える。鳴き杭が短短長に揺れ、湿った音が混ざる。

 ノアが外堤の勾配を測り、土の筋を手で撫でる。「粘りはある。だが、落差が甘い。逃がし路をあと二尺深く」

「夜になる前に吐け口を開ける。——拍を“短長短長”へ。警戒と作業の重ね拍」


 リースは兵の配備を変え、槍で境界の線を示す。越えていい線、越えちゃいけない線。線は生き物だ。雨で太って、時々痩せる。

 ジュードは男衆に土嚢を作らせ、内堤の“腕”に当てた。土嚢の上へ藁筵、その上に杭。杭を拍で打つ。短長短。雨の中でも、拍は手の中に残る。



 夕方。雨脚がさらに増して、空と地の境目が狭くなる。

 遠くの丘の上に、布を被った影が見えた。旧ギルドの袖章。何かを空に投げている。

 ギータが低く言う。「雲呼びだよ。お抱えの天気師がいる。都市の祭じゃよく使う。今日は祭じゃないけどね」

「紙は空に届きません。——地図で受けます」


 わたくしは避難図を広げ、逃がし路の先にある高まりへ矢印を伸ばした。「高いところで、狭いところ。拍を持って集まる」

 ノアが吐け口の前で膝をつき、木栓を指で探る。「今なら持つ。ギリギリまで“口”は閉じる。——“腕”が折れそうな瞬間、笑って口を開け」

「笑って?」

「逃がし路と吐け口は恐れて開けると遅い。笑って開けると速い。手が軽くなる」


「覚えます。笑って開ける」



 夜。

 雨は苦い音を鳴らし、畦の肩を叩く。鳴き杭が短短長の警戒を奏で、見張り台では短長短長の作業が返る。

 外堤の足元で、子どもたちの竹筒が揺れる。「六目盛り!」「七目盛り!」

 千呼吸が近づく。


「吐け口——笑って開ける!」

 わたくしは叫び、栓を抜いた。

 轟。

 水の長い背中が、楽に寝場所へ滑り込む。逃がし路は笑い声を飲み込み、外の低地へ水を渡す。

 内堤の“腕”はしなるが、折れない。親のように外堤が受け、腕のように内堤が支える。

 ノアの横顔に、雨が斜めの線を描いた。

「拍、維持」

 わたくしは頷き、息を合わせる。短長短、短長短。呼吸が合うと、恐れが仕様になる。



 避難の丘。

 リースが兵を同心円に配し、真ん中に子どもと老人、外側に働ける者。拍の号令で火が回り、濡れた衣に温度が戻る。

 ギータは油紙の下で読み合わせを始めた。「洪水時運用仕様・初版」の許容差の章。

「“遅延は千呼吸まで許容”。——だれが、今、遅れた?」

 手がいくつか上がる。男の手、女の手。

「名を書いて。罰じゃない。誇りの場所に置く」


 ハンクの印刷機から持ち出した耐水紙が、雨の粒を跳ね返す。字は濡れても黒い。汚い字は強い。

 ジュードが逸脱の空白に書いた。「吐け口、笑えなかった。次は笑う。名:ジュード」

 わたくしは「笑って開ける」を太字で囲み、拍の欄に**“笑”**の記号を一本加えた。


 遠雷が一歩遠ざかる。雨脚が少し軽くなる。鳴き杭の音が細くなる。

 ノアが濡れた髪をひと撫でし、わたくしの肩越しに紙を覗いた。

「“笑”の記号、いい」

「あなたの言葉です」

「あなたの紙になった」


 言葉は小さく、しかし体温があった。

 丘の火がはぜ、子どもが眠り、兵が槍の柄に顎を乗せる。拍は、火の音と混ざって、やがて子守唄の長さになる。



 明け方。

 雨は抜け、雲は薄い白になった。畦は湿って重いが、折れていない。内堤も外堤も、立っている。逃がし路は泥を孕んで広がり、吐け口の縁には泡の白が乾き始めていた。

 倒れたのは、古い立札と、前例のいくつかだけ。


 畦の中腹で、わたくしは泥の中に膝をつき、土の匂いを吸った。

 塩の匂いは遠く、土の匂いは近い。二重堤は親と腕。親は疲れ、腕は震える。だけど、子は泣いていない。

 ノアが水位棒に赤い糸を結び、「千呼吸」の位置に印を付けた。「次は五百呼吸で動く」

「許容差を狭める?」

「備えが増えた分、恐れを少し減らす」

「覚えます。恐れの仕様変更」


 リースは丘の上で復帰の拍を流し、兵と住民が散っていく。ギータは耐水紙の束を乾かし、ハンクは笑って指を拭った。

 ジュードは内堤の上に立ち、遠くの丘を睨んで唾を吐いた。昨夜、旧ギルドの袖章が見えた丘だ。

「空からも来るのか。じゃあ、こっちは地で受ける。——嬢ちゃん、俺は“反公社の若頭”を降りる。内堤班長をやる」

「仮配属から本採用。名を紙に」

 ジュードは嬉しそうにしかめっ面をした。「字が汚いぞ」

「汚い字は、強い」



 昼までに、洪水時運用仕様・二版ができた。

 追記:

 - “笑”の記号(吐け口運用時)。

 - 拍の改定(“短長短長”=警戒+作業、復帰は“長長短”)。

- 簡易雨量計の目盛の共通化(子どもが交換しても同じ数になる)。

- 逸脱空白の増設(書く場所がないと人は黙る)。

- 避難図に高まり記号の追加(地図は絵で)。

 末尾の名が増える。子どもの丸い字、老いの震える字、女の太い字。名は紙の温度。温度は拍の速さを決める。


 午後、港から色紐の荷が二つ戻った。赤と青。雨の中を回った相互監査人の報告書。“遅延:七百呼吸”、“逸脱:吐け口の泥詰まり→竹で貫通”。名がある。

 ハーシュの署名もあった。臨時費廃止の横に、「洪水時、港の“拍”は“長長短”」と書き添えられている。港務所に拍が入った。詩が続く。



 夕暮れ、雨上がりの空に薄い虹がかかった。虹は黙っているが、鳴っている。湿った地面から上がってくる熱が、指先にふるえる。

 わたくしは手帳を開き、成果と課題を刻んだ。

 成果:二重堤が初勝利。逃がし路と吐け口が仕様通りに動作。拍に“笑”を追加。避難図が機能。

 課題:天気師の介入、吐け口の泥詰まり、千呼吸が遅い場面の洗い出し。

 次工程:雨量計ネットワークの常設、吐け口の石張りと小扉、高まりの常設備蓄、旧ギルド丘の監視。


 ノアが隣に立ち、畦の向こうの白い蒸発皿を見た。「白は雨で流れた」

「白はまた作れます。土は今、守りました」

 彼は少しだけ頷いた。「土が残れば、白は増える」


 靴は泥で重く、裾は塩で白く、手はインクで黒い。色が増えるほど、紙は前に進む。

 わたくしは拍を一つ、指で刻み、畦の肩に軽く手を置いた。

 ——笑って、次を開ける。


【辺境KPI / 第6話】


塩産出量:0.67 → 0.66(大雨対応により一時減/流出最小化)


用水稼働率:42% → 46%(二重堤・逃がし路・吐け口の導入で降雨時の運用継続性向上)


住民満足度:+0.61(避難運用の成功/名の掲示 58名→102名/子ども雨量隊 0→23名)


治安指数:54 → 55(旧ギルドの雲呼びに対する冷静な紙上対応/避難時の混乱軽微)


安全指標(新):鳴き杭稼働率 78%→93%/吐け口開閉手順“笑”採用率 67%


次回予告:旧ギルドの“相場の刃”が再び——密売と盗難。塩が白ければ、影も寄る。治安指数の壁に挑む。鍵は夜警の“参加型設計”と、“名前の温度”で冷やす盗みの熱。紙は今度、灯になる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ