第5話「港の塩倉、潮と税」
王都の石畳を抜け、川筋を下ると、海の匂いが衣の内側に潜り込んできた。
潮塩州へ戻る前に、わたくしたちは港の塩倉を見に行く。王都の喉であり胃袋への最短経路。ここを押さえれば、道の半分は引ける。
港務所は、海鳥の鳴き声と荷役の掛け声が交じる音の交差点にあった。木の桟橋はところどころ白く干割れし、滑車の油は黒く艶を失っている。桟橋の末端、潮が返すたび、杭が低く唸った。
ノアは杭の太さと間隔を測り、わたくしは倉の鍵穴を覗いた。鍵は古いが、鍵穴の縁に新しい擦れ——最近、誰かが開けた跡。
「監督官の許可で借りることになっているわ」とリース。
「“借りる”のではなく、再稼働です」とわたくし。
役人が現れた。港務所の朱色の襟章、きっちり剃られた顎。名をハーシュという。
「公社の“塩倉試験再稼働”の件。許可は下りている。……ただし、関税についていくつか——」
「紙でどうぞ」
彼はわずかに口角を下げ、縄目模様の封筒を差し出した。「関税計算書(改定)」の題字。
開くと、“港湾取扱料”と“倉入れ料”が二重に記され、さらに**“臨時保安費”**が欄外に手書きで加わっている。数字の末尾が上がり、誰かの手が震えた跡。
「“臨時保安費”は、どなたの決裁です?」
「“前例”だ」
「前例は最初の紙の別名でしたね。——その紙を拝見します」
沈黙。ハーシュは目を逸らした。
わたくしは規格書の束から、今朝綴じたばかりの**「通関仕様書・草案」を出す。
定義:同一ロットに対する同一性質の手数料は一度のみ徴収。
監査:徴収票は印の通貨で相互証明。印交換の相手は二者以上**。
臨時費:導入時は臨時理由・期間・名を必須記載し、会期終了後に廃止を明記。
「“名がない費用”は、影です。影は塩を湿らせます」
ハーシュは頬を強張らせ、「臨時保安費は——」と言いかけ、視線を横に振った。桟橋の陰で、旧ギルドの袖章。
ギータがすっと前に出る。
「公開でやろう。印交換よ。——港務所、ギルド、公社、三者で徴収票を交換。相互監査人に立ち会わせる」
「立会は私が」とジュード。汚い字の上に、審査台で受け取った相互監査の札が光る。
場の温度が、紙の角で切り替わる。
ハーシュはしぶしぶ頷いた。「では、仮に——三者印で」
わたくしたちは塩倉の扉を開けた。空気は重い。床板はところどころ沈み、梁には潮の白い筋。倉の中央に、古い計重台。錆びは固いが、天秤の刃はまだ生きている。
「ここを乾いた白に戻す」とわたくし。
「乾かない白は腐る」とノア。
リースが兵を手早く配し、窓を開け、風の筋を作る。ギータは職人を辻から呼び込み、埃を叩かせ、床に拍で掃除のテンポを刻ませる。
塩倉を清めるのは、儀式に近い。湿りを追い出し、音を整え、数を置く。
ノアは梁に手をかけ、耳で鳴りを拾った。「北西の梁が鳴く。潮汐の負荷で捻れてる」
「補強の木を対角に入れ、拍で締めましょう。短長短——」
ジュードが大工を捕まえて木を運ばせ、拍の合図で楔を打つ。梁が一つ、低く唸り、やがて声を沈める。風が通る音に、倉の息が混ざる。
床板の隙間から、古い札が出てきた。墨が薄れ、角が丸い。
——「前渡し:十」
——「返済:未」
旧ギルドの印。
ギータは無言で札をひったくり、封筒に入れた。
「“前渡し”で縛って“返済未”で繋ぐ。——味の悪い金だ」
「先渡しはこちらで設計済みです。返済と罰則と名を初めから書く。影のない金に」
塩倉が息をし始めた頃、港務所から鐘が鳴った。潮が返る。
波の膝が桟橋の腿を叩き、木が軽く震える。ノアが潮見表に目を落とし、指で線を引いた。
「今夜は大潮。北桟は二刻で水没。東桟は一刻後に“浅い道”が出る。荷は軽く。船は短喫水。拍は“長短長”に切り替え」
「道の欄に記すわ。——“浅い道”を地図に出す」
リースが兵を二手に割り、北桟の封鎖と東桟の通路確保を指示。
わたくしは倉の前で、人足たちに色紐を配った。
「緑は“王都行き”。青は“沿岸”。赤は“港内移動”。紐の色で税区分が一目でわかるように。徴収票は同色で綴じ、印交換で通す。——影が入る余地を、色で潰します」
人足の一人が笑う。「色で税を殴る令嬢とは」
「色は、誰の眼にも平等。殴るのではなく、逃げ道を塞ぐだけ」
◆
夜。大潮。
港は低い獣の腹のように鳴り、足元を海がなめる。東桟に“浅い道”が現れ、暗い水面に星の破片を撒く。
わたくしたちは一番船に小瓶と規格書を積む。倉から桟橋までは拍の列——短い足、長い腕、短い息。呼吸が合うと、荷は軽くなる。
その刹那、影が動いた。桟橋の影、鉤縄。
リースが先に気付いた。剣は抜かない。拍で合図。兵が滑るように影へ寄り、鉤縄の腕を押さえる。
男がもがき、海に落ちかけ、桟橋の縄に爪を引っかける。
「盗り縄だ」とジュード。「夜の“税”」
わたくしは男に近づき、色紐を差し出した。
「赤の紐を腕に。今からあなたは“港内移動”。名を書いて、同色の徴収票を受け取りなさい。盗り縄の腕は解ける。印交換の相手は三者。影はない」
男はわたくしの顔を見、海を見、紐を見て、しばらく考え、赤を腕に巻いた。
ハーシュが深く息を吐いた。
「——影を票に変えるのか」
「影は、紙にすると小さくなります。小さくなった影は、払える」
ノアが桟橋の端で耳を澄ませ、「拍が崩れる」と言った。潮がもう一段高く、船が浅瀬の縁に触れ始める。
「拍を“短長短”へ」
列が呼吸を変える。荷が揺れ、しかし落ちない。色紐が暗がりで小さく揺れ、印の蝋が月に光る。
◆
翌朝。港は昨夜の湿気を吐ききって、乾いた木の匂いを返していた。
倉の入り口で、通関仕様書・二版を貼り出す。色紐と印交換、臨時費の名、三者印の手順。紙の端に、昨夜赤紐を巻いた男の名がある。
ハーシュがそれを指でなぞり、わずかに目を細めた。
「名は、重い。——“臨時保安費”は廃止として記す。期間、理由、名」
「詩が整いましたね」とギータ。
倉の奥、古い計重台の皿に白が乗る。昨夜の一番船が、港の内側で返してきた“試験戻り”。瓶の口は蝋封、印は三者。
リースが封を検め、ジュードが記録し、ノアが塩の音を聞く。
ぱち。
倉の中の音が、ひとつだけ、澄んだ。
わたくしは手帳を開き、次工程を書いた。
一:港倉の梁補強・継ぎ手交換(潮汐対応)
二:色紐の常備と「紐の貸出帳」作成
三:出港・入港の「拍」標準化(鐘の回数・旗の振り)
四:先渡し契約の“港渡し条項”追加(印交換と名の掲示を条件)
「午後に相互監査の読み合わせを。港の人足にも、“許容差”を説明します。“遅延の許容”と“逸脱の記載”。だいたいを書ける紙に」
「枠がいる」と昨夜会った印刷職人のハンク。いつの間にか倉口に立っていた。「逸脱は悪じゃない。逸脱が言える紙が、事故を止める」
「あなたの名を二版の末尾に——」
「もう入ってたよ。字が黒々してた」
港務所の鐘が二度鳴る。開市。
わたくしたちは倉の扉を半分開け、白を小瓶で四つ出した。値は上代自由だが、出荷価は固定。色紐と印で流れを刻む。
旧ギルドの影は、桟橋の影と同じ。ここでは拍の中で薄くなる。
◆
昼下がり、書き物机を倉口に引き出して読み合わせを始めた。人足、船頭、港務所の若い役人、魚商、香辛料商。
読み上げ役は交代制。字の苦手な男には、絵が寄り添う。色紐の図、印の交わり、税の線。
わたくしは最後列で呼吸を数え、濁りと笑いと不満の拍を聴いた。
途中、ハーシュが手を上げた。
「ここ、“遅延の許容”。“千呼吸までの遅延は許容、紙に記す”。——千呼吸とは、どのくらいだ?」
ジュードが笑う。「拍で数えろ。短長短で百と少し、十回。拍は誰でも持ってる。拍に合わせれば、紙は怖くない」
ハーシュは頷いた。
「拍で税を数える令嬢とは」
「拍は、争いを減らします。拍が揃えば、列が揃い、列が揃えば、影は入りづらい」
読み合わせの最後、わたくしは紙の端に大きな空白を残した。逸脱と逸脱の許容を書くための空白。
「空白は、怖さを逃がす穴です。ここに“だいたい”を書いてください。名と一緒に」
人々の視線が、空白に吸い寄せられた。空白は人を招く。
最初に名を書いたのは、今朝赤紐を巻いた男だった。汚い字で、「昨夜、鉤縄。今夜、縄をほどく。名:スコット」。
倉口に、風が通った。
◆
日が傾く。
わたくしたちは王都を発ち、潮塩州の海へ戻る支度をした。塩倉は半分乾き、白は棚に薄く積もり、通関仕様書・二版は風で端が揺れた。
ノアが手袋を外し、指先のインクを見つめる。「水で落ちる。だが、拍は残る」
「拍は、道の骨です」
リースが笑って剣の柄を軽く叩き、ジュードが肩を回して木槌を積む。ギータは御者台で手綱を撫で、「港は腹持ちがいいね」と呟く。
わたくしは倉に一礼し、桟橋の杭に触れた。木の体温は、昼と夜の境目の温度。
「靴は塩で白いわね、課長」とリースがからかう。
「靴の白は、今日の誇りです」
潮目がひとつ変わる音がした。
わたくしたちは、道へ戻る。
【辺境KPI / 第5話】
塩産出量:0.65 → 0.67(港内での試験戻り成功・一番船始動)
用水稼働率:41% → 42%(港倉再稼働に伴う夜間通水の安定化/拍の標準化)
住民満足度:+0.52(港側相互監査人 0→18/読み合わせ参加 46名・色紐ボランティア 21名)
治安指数:51 → 54(“臨時保安費”廃止の明文化・三者印交換導入・“盗り縄”の票化)
物流指標(新):色紐運用開始(赤:港内 23件/青:沿岸 11件/緑:王都 7件)/先渡し契約“港渡し条項” 0→6
次回予告:潮塩州への帰還、畦の二重化と“大雨試験”。港は腹を満たした——今度は背骨を強くする。旧ギルドの新手は“水上ではなく空から”——雨の矢。拍と二重堤で受ける。




