第20話「海難と平均出合――“喪”を越える条(くだり)」
朝の潮は鈍く、空の端は灰を擦った指の跡。
港の防波堤に、黒い帯の旗が半分だけ上げられていた。喪ではない。注意の黒。
王都から来た早便が、厚い紙束をどさりと置いた。封蝋は固く、角は無駄に薄い。
「海難標準書(草案)——平均出合および救助評価」
添え状は、監督官ヴァレンの手ではなかった。文言は冷たく、拍は無し。
要旨:
- 共船は認める。だが式を王都式に。
- 黒匣は提出。中央検認で判定。
- 救助の価値は固定率。
- “損の歌”は添付資料(参考)に降格。
——紙の冷たさが、潮の寒さと合流する。
「降格ね」ギータが御者台で紙をめくり、鼻で笑った。「詩は参考じゃ回らないよ」
「条に拍を縫い込みます」わたくしは机を外に出し、角をさらに太くした。紙の上の見出しは、冷気を直立させる。
「平均出合・採択版(辺境案)——条に拍を、法に詩を」
章は五つ。
一:条素案——“宣・保・分・検・寄”の五条
二:黒匣検認の二重CRC(人歌/灯脈)
三:救助評価の“生重”——固定率の代わりに“呼吸率”
四:公開審読の手順——角太意見の集め方
五:喪越儀——喪を踏まない条文の渡し方
ノアが水位棒に掌を置く。「喪の拍を避ける条は水位に似てる。基準が要る」
「拍が基準です」リースが短く頷き、剣の柄をコツン。
◆
一:条素案
第一条(宣):共船宣言は長長短+チで行い、寄せ旗を掲げ、黒匣に灯脈とともに記録。短長長(喪)禁止。
第二条(保):保全行為(投荷/帆柱切り/曳航)は短短長+灯脈で刻む。見張名/実施名/目撃名を三者で残す。
第三条(分):割り前計算は式に従い、事情空白を併記。遅拍は白円+小チを挟む。
第四条(検):黒匣検認は人歌/灯脈の二重CRC。機歌の場合は要再審。斜光灯で刻線の揺れを読む。
第五条(寄):救助評価は**“呼吸率”に拠る(後述)。寄票は寄点として利根板**と連動。寄せ旗の印影を添付。
条の末尾ごとに小チを打つ欄を設ける。条の確認拍。
——条が音を持つと、読まれやすい。
ジュードが刻印台で**「条」の字の角を深く彫った。「角のない条は、影が好き勝手に潜る」
サト婆さんが笑う。「条に拍**があれば、婆でも読める」
◆
二:黒匣検認の二重CRC
王都は黒匣を中央で開けたがる。——開ける前に、現地で嘘を薄くする。
人歌CRC:刻音を耳と塔でなぞる。長長短/短短長/短長短の微揺を塔の鈴が拾う。均質は機歌の疑い。
灯脈CRC:灯の脈動記録(水灯二芯)。宣・保・分の拍と灯に位相があるか。遅れゼロは疑い。
検表:“人歌=甲/乙/丙/丁”、“灯脈=合/半/不”。“甲合”以外は要再審。
封印:錨+帆+橋印の三重封。角太シールに塩印。滲みは偽封。
ハンクが黒匣の縁に小さな揺刻を刻んだ。「指で撫でると揺れが触れる。触も記録だ」
◆
三:救助評価の“生重”
王都草案の固定率は平たい。命の重さは状況で息をする。
生重=時間×危険×回復の拍。
- 時間:介入拍の長さ(短長短×n)
- 危険:救助旗(薄赤十字+白円)の掲示時間/波高/喪域接近(長長短の比率)
- 回復:救助後の“静”と灯脈での体温戻り(温印=温/熱/透)
救値=生重×拍為幅×寄点係数(救助側の日常の寄)。
寄点係数を入れるのは、日頃の寄を救へ接続するため。見せ物ではなく基盤にするため。
——命を固定率に閉じない。呼吸に合わせる。
リースが兵の帳から顔を出す。「救が仕事と誇りの両方になる。刃は出さずに走れる」
◆
四:公開審読
天幕下に条を張り出し、角太意見をもらう。
投句欄(十七音)、条墨欄(追記)、逸脱例欄(見本)。
見本:
「第四条“検”——機歌の揺れ判定、塔の鈴が風で誤る時あり→無音窓で十呼吸後に再検」(名:ノア)
「第三条“分”——白円+小チ、子でも宣言可と明記」(名:サト)
「第五条“寄”——寄点係数の上限を二**。見せ金防止」**(名:ギータ)
汚い字は、強い。角の太い字は、条の骨になる。
ハーシュが読会の司会をし、ハンクが条墨の補筆を刷り、ジュードが帆印を焼く。
——条が街の手垢で黒くなるほど、法は人に寄る。
◆
五:喪越儀
喪の家は海にある。条は喪に触れる。触れ方に礼を。
喪拍(短長長)は禁のまま。代わりに喪越の黙を置く。
手順:
1. 白布符を掲げ、無音窓を三倍。
2. 灯は脈を止めず弱める(短長短の小脈)。
3. 条読みは長長短+小チで前置きし、“喪に触れぬ条”を明記。
4. 名を残し、寄票の片端に黒糸を一本通す。
——喪は詩の骨。折らない。跨ぐときに歌を下げる。
ザハラが鼓でツを弱く二度。「遠市もこの喪越を翻して使う」
◆
王都との擦り合わせ
監督官ヴァレンが来た。今日は靴が濡れている。良い兆候。
彼は条を一つずつ指で撫で、小チを各条末に静かに置いた。
「条の確認拍、いい。中央の紙でも音が要る。救値=固定率は撤回へ動かす。ただし、黒匣の中央検認は続ける」
「二重CRCを標準に。“甲合”以外は現地再審**。中央の判は最後で良い」
「理解している。条の**注**に入れよう」
ギータが御者台で口上を付ける。「見出しは“条に拍を、法に詩を”」
ヴァレンの口端がわずかに動く。「詩で殴る、ときみは言う。法は包む」
◆
大海難、来る
夕刻、遠礁で座州。積み高大、渡為便四本分。救助旗が複数上がり、救助歌と損の歌が交差する。
——試金石。
宣:各船が長長短+チで共船宣言、寄せ旗が多重に揺れる。
保:短短長+灯脈が続き、投荷は香味“中”“強”あわせて二十八。帆柱二、曳航三。
黒匣:揺刻が全匣に刻まれ、人歌/灯脈が二重で走る。
救:救値は生重で刻み始め、温印が温/熱に分かれる。
分:港の計算台に条が開かれ、式が走る。事情空白が黒糸で縁取られ、喪越の黙が三度置かれた。
怒号は二拍で減衰し、質問は条の注へ吸い込まれ、合意は小チで増殖する。
固定率を叫んだ商人も、温印の掌を見て息を飲み、寄点の柱で自分の名を探して黙った。
——見えるものは、沈む。沈んだものは、底になる。
◆
黒匣・中央検認
翌朝、王都便に載せる黒匣の束。錨+帆+橋印の封に塩印。
出立前に公開“耳合わせ”。人歌の揺れを塔で、灯脈の位相を水灯で、斜光灯で刻線を。
“甲合”→そのまま。“乙半/丙半”→現地追加所見を添付。“丁不”→要再審、王都へは見本のみ送る。
ヴァレンは頷き、「中央の机も揺れを習う」と言った。
◆
喪越の夜
座州の喪は避けた。けれど喪は海にある。
港の端で喪越を行う。白布符、小脈、黒糸。
条読みの前置きに長長短+小チ。
わたくしは条を読み上げ、名を置く欄に空白を残す。空白は事情の先にある。
ザハラが鼓でツを二度、静かに。確認拍は、誰のものでもない。
サト婆さんが若耳の肩を叩いた。「喪は禁。でも禁は抱える手順を持てば橋になる」
若耳は頷き、小チを一つ打った。小さい確認拍は、喪に触れない。
◆
審読の結び
角太意見は束になり、注が増え、条は太った。
CR-海20-01:灯脈CRCの位相ズレ許容(±小チ)。
CR-海20-02:揺刻の標準ピッチ(短長短×十で一周)。
CR-海20-03:生重の上限(救値が割り前の三割を越える場合、寄点へ超過分移管)。
CR-海20-04:喪越の黒糸は一本。二本は喪に触れすぎ。
——CRはネジ。詩は梁。条は柱。角は、拳。
ギータが御者台で帳面を叩く。「見出し:“平均出合、条に拍”」
ハンクが黒匣の留め金を磨き、「機歌が入ってきても、揺れで分かる」
リースは救助旗の縫い直しを命じ、ノアは水位棒に小脈の刻みを足す。
ヴァレンは封蝋を押しながら短く言った。「王都へ送る。参考でなく本文に——できるように」
わたくしは頷き、長長短を一打。喪ではない。働きの長調。
靴は今日も汚い。白と黒と土に、黒糸(喪越)と薄群青(寄せ旗)の粉が付いた。
なら、やっぱり、正しい。
【辺境KPI / 第20話】
塩産出量:0.78 → 0.78(海難影響継続も港内同調で横ばい)
用水稼働率:53% → 54%(割り前“遅拍”運用で搬出入の詰まり解消)
共船・法制化指標(新):
- 条素案 公開意見 126(採択 78/保留 31/却下 17)
- 黒匣 検認前整備 “甲合” 81%/“乙半・丙半” 18%/“丁不” 1%→現地再審
救値“生重” 適用 9件(超過→寄点移管 2)
喪越 儀 2回(苦情 0/追補意見 7)
治安指数:76 → 77(黒匣もどき流入 0/機歌検出 0/公開審読での騒擾 0)
ガバナンス:平均出合・辺境案 成文化/CR-海20-01〜04 採択/条確認拍 運用開始
市場・遠市:救値 生重 翻署導入/寄点 連動 追加 +41/橋印(海路) 便 11
住民満足度:+0.98(審読参加 603/条読み上げ満足 +0.92/喪越への理解 +0.89)
次回予告:「旧ギルド最終手——“白を黒にする紙”」。
偽の条、機歌をまぶした白札、名を剥がす委任状。角太の拳で受ける。詩を喰う紙には、歌で穴を開ける。




