第2話「規格書は剣より鋭く」
白い丘が立った翌日、わたくしはテントの天幕を跳ね上げ、机の中央に厚手の紙を置いた。紙は戦場の盾だ。今日の矛先は、人の不信と王都の圧力と、古い慣習が固めた“見えない壁”。
題名——「辺境塩・規格書(初版)」。
章立て——目的/定義/測定法/許容差/工程表/監査方法/改定手順。
書く手は速いが、言葉は遅く選ぶ。専門用語で飾れば貴族同士の議論には見栄えがする。けれどここでは、誰の目にも同じ形に読めなければ意味がない。わたくしは難しい語を切り、代わりにやり方を書く。やった人が同じ結果に辿り着けるように。
定義:「白」は“朝の光の下、腕を伸ばして見たとき、青や灰の色味が混ざらず、影が柔らかいこと”。
測定:粒度は「穀物ふるい三番」を通し、「五番」で止まる層を主とする。
含水率:火の側で木匙に盛り、三十呼吸で形が崩れない。
塩の音:焼石の上で“ぱち”が二度以上続く。
味:舌先で刺さず、舌の中央で開いて消える。
リースが湯を持って来た。湯気の向こうで目を細める。
「文章の刃、ね。これを壁に貼っておけば、喧嘩の回数が減る」
「できれば喧嘩は数字の上で完結させたいのです。人の顔色で決める配分は、必ずどこかで腐ります」
ノアが図板を抱えて入って来る。板には用水落差の暫定図。水位棒の刻みを、昨日より微妙に狭くしている。
「落差、あと指一本分ほしい。北の畦を二寸削れば出る。ただ……」
「魔物の回遊筋に寄る?」
「夜明けの足跡と糞が増えた。河鹿みたいに見えるが、角が硬い。畦の泣き声で寄ってくるのかもしれない」
「では、規格書に夜警の設計を追記。音番を二重化、見張り台の足元に“鳴き杭”を。踏まれたら鳴る仕掛け——子ども達にも作れる」
昼前、ジュードが男たちを引き連れて来た。白を見る目ではなく、紙を見る目になっている。よろしい。
「それが噂の紙か。貴族の紙は、だいたい嘘の匂いがするが」
「嗅いでみてください。木炭と魚膠の匂いしかしません」
わたくしは規格書を机の端に置き、彼に読ませた。文字の読める者、読めない者が混ざる。読めない者には絵を足す。木匙の盛り加減、ふるいの目、焼石の色。
「ここに許容差を明記します。たとえば粒度は、三番に通らず、五番でも止まらない外れ粒を五分まで許す。その代わり、塩の音は外さない。——“どこまで許すか”を書き、それを共有する。これが交渉の前提」
「許すことを書類にするのか」
「はい。完璧を前提にすると、最初に壊れるのは人です。許しの幅を、先に合意しておく」
ジュードは片眉を上げ、紙の角を指で弾いた。
「わかった。……それで、鑑評会とやらには、俺たちも行けるのか?」
「行けます。審査は盲目。出品名は隠す。舌と紙だけで勝負します」
午後、行商ギルドのマダム・ギータが御者台で笑いながら現れた。
「王都に先触れを打ってきたわよ。“辺境塩、規格書つき”って。料理屋の旦那たち、眉をひそめて、でも目が笑ってる」
「笑顔は信用できませんが、胃袋は信じられます。胃袋には嘘がつけない」
「そうそう。で、あんた達の規格書、数を刷る必要がある。紙とインク、代金は?」
「共同出資で。ギルドが三、住民二、公社五。売上から優先償還、配当は塩の出荷量に合わせて比例」
ギータは手帳を指で叩いた。
「計算が速い。嫌いじゃない。——ただし、王都の旧ギルドが耳にしたら、必ず噛んでくる。あいつらの“伝統”は、要するに“書かない権利”だから」
それはわかっている。書かれたルールは、古い利権の死を意味する。**“誰かだけが知っている”という価値が、紙にした瞬間、“誰でもできる”**に変わるから。
その夜、わたくしは規格書の監査方法に一項を加えた。
監査:誰でもでき、誰がやっても同じ結果になる簡易法を優先する。監査人は外部・内部・相互監査の三種。相互監査は、塩田どうしで行い、監査人の名を紙の端に記す。
リースが唇を尖らせる。
「名前を書かせるの?」
「はい。名の温度が、紙の温度を上げます」
「名が傷ついたら?」
「紙が守ります。紙が守れないときは、わたくしが守る」
言い切ると、胸の奥で何かがひとつ定位置に収まった。断罪の庭で背に向けられた視線の冷たさを、ここで別の温度に変える。そのための名。
◆
三日がかりで規格書の初版を刷り、塩田の外れの空き家を借りて公開読み合わせをした。読み上げ役は交代制。読めない者には子どもが肩越しに言葉を追わせる。
わたくしは最後列に立ち、聞く。読む声の濁り、笑いの乾き、不満のかすかな呼吸。紙は人の息で完成する。
読み合わせの最中、外から粗い足音。扉が荒く押し開けられ、男が二人、古びたギルドの腕章を見せた。
「王都塩商組合の者だ。ここで勝手な規格を作っていると聞いた。伝統の塩の名を毀損する気か」
リースの手が剣の柄へ滑り、ノアの視線が床の鳴りを測る。ジュードは短く舌を打ち、わたくしを見る。
わたくしは机の上の規格書を一冊取り、男たちの前にそっと置いた。
「読みますか。読んで、異議があれば紙の上で戦いましょう。伝統が守るべきは、“書かれない権利”ではなく、“良いやり方が続く権利”のはず」
「口が達者だな、お嬢さん」
「口ではなく、紙です。舌で判断される日もすぐ来ます。鑑評会で」
男の一人が鼻で笑い、もう一人が紙を持ち上げた。読める。ならば、戦場は同じだ。
「監督官への報告は済んでいる。勝手な規格は——」
「勝手ではありません。共同出資と公開読み合わせを経た、公開規格です。王都にも同じものを送ります」
短い膠着。外の風の音が、一瞬だけ強くなり、弱まる。男たちは互いに目配せをして踵を返した。背中に張り付いた“古い紙の湿り”のような匂いが、扉の向こうに消える。
リースが肩で息をし、剣から手を離した。
「危なかった」
「紙は剣ではありませんが、人の手を動かすスイッチにはなります。——ノア、扉の床、鳴りましたね?」
「板が一枚、空洞。中に隠し箱がある。誰かがここを目印にしてる」
ジュードが先に膝をついた。板を外すと、中から古い羊皮紙が束で出てきた。手に取り、一枚目を広げる。
塩田年貢の相場表。王都の旧ギルド印。住民の名の横に、二重線で引かれた上納額の上乗せ。
わたくしは息を吸い、紙の束をそっと置いた。
「——これは、証拠です。王都に持って行きます。鑑評会で“味”だけでなく、“取引の味”も審査してもらいましょう」
ギータが歯を見せて笑った。
「それは面白い見世物になる。料理人は舌で、役人は紙で、客は物語で、同じものを味わう」
「物語には出典を。規格書の末尾に相場表の写しを添付します」
ノアがわずかに眉を動かし、わたくしを見た。その目は褒めないし、甘くもない。ただ、合図だ。
「潮の時間だ。話はここまで。畦が泣く」
◆
夜。見張り台の足元に埋めた鳴き杭が、最初の音を立てた。小さい、しかし鋭い。リースの号令で兵が走る。わたくしはランタンを掴み、ノアの後ろから畦へ降りた。
黒い影が畦を跨ごうとしている。角の硬い、小鹿ほどの大きさの魔獣。河鹿の大型。鳴き声が畦の「湿った音」に似ているから、その名がある。
「追う? 退ける?」とリース。
「退ける。傷はつけないで。——鳴き杭の音を二倍に。嫌う音を作る」
ジュードが石を打ち鳴らし、ノアが杭を踏んで拍を作る。わたくしは蒸発皿の縁を指で弾いた。水の残る皿と乾いた皿、二つの音が重なって、妙な和音になる。河鹿は耳をひくりと動かし、首を振った。
リースがそっと近づき、腕を上げ下ろしで兵に合図。脅しの輪が広がり、魔獣は湿った低地の方へ去っていく。畦に残った足跡を確かめ、深さを測る。あと一寸で崩れるところだった。
胸の奥で、遅れて怖さが追いついた。声は出さない。代わりに手帳に書く。鳴き杭は二倍へ増設。夜警の拍は“短長短”。
ノアが小さく息をついた。
「……良かった」
「よくないことも起きます。だから紙を置き、次の人が良くなるようにします」
わたくしの声は、思ったより落ち着いていた。リースが笑う。
「震え声じゃない。あんた、度胸があるね」
「度胸は高価です。代わりに、準備を多めに持ちます」
◆
夜明け。規格書の初版に、夜警と魔獣回避の章が増えた。
魔獣回避:鳴き杭の設置、拍の統一、畦の泣き声の聴取訓練。
事故報告:発生から三十呼吸以内に口頭報告、千呼吸以内に紙で初報、翌日までに再発防止策を記す。
名:報告書には必ず名を書く。名は責任ではなく、誇りの所在。
読み返して、わたくしは一度目を閉じた。紙の端に、かすかな塩の白が付く。白は誇りの色だと、今日だけは言ってもいい気がした。
ギータの車列が王都へ向けて出る準備をしている。小瓶に詰めた辺境塩・試験一号、規格書の束、相場表の写し、そして招請状。
封蝋を落としていたら、リースが軽く肩を叩いた。
「護衛は任せて。道中、旧ギルドの顔が出ても、紙の束で殴ればいい」
「紙は剣より鋭いです。角が、ね」
「角、ね。鹿の角じゃないわけだ」
笑って、わたくしは封を閉じた。
ジュードがこちらを見ていた。目はまだ険しいが、仕事の目だ。
「俺たちの名は、紙に載るのか」
「載ります。相互監査人として」
「字が汚いがな」
「汚い字は、強い。紙が人の手でできたものだと、読む人に伝えます」
ノアが視線だけで頷き、出発の合図をギータに送る。車輪が砂を噛み、列が動く。王都までの道は、長く、埃っぽく、そして世間に繋がっている。
わたくしは立ち上がり、塩田を見渡した。風が起き、蒸発皿の表面に細い筋が走る。その筋は、やがて線になり、地図になる。
断罪の庭で切れた線の先が、今、ここに再び繋がっている。
靴はさらに汚れた。なら、たぶん、また正しい。
【辺境KPI / 第2話】
塩産出量:0.6 → 0.62(試験区画の再現性確認/規格書初版運用開始)
用水稼働率:38% → 41%(北畦二寸削り・落差回復/鳴き杭導入による夜間通水安定)
住民満足度:+0.3(公開読み合わせ参加者 32名/相互監査人登録 9名)
治安指数:45 → 47(旧ギルド介入を紙上で処理/夜警拍の標準化)
次回予告:鑑評会・一次審査へ。舌は嘘をつかない——だが、妨害もまた“味”を変える。紙と味と物語、三正面作戦で行く。




