第11話「耳の学校、休む手順」
朝の白はやさしく、港の潮はおだやか。
——にもかかわらず、道歌がときどき空振りした。拍は打たれている。灯もある。色紐も揃っている。なのに、返歌が遅れる。耳の良い婆さんの眉が、日に日に険しくなる。
「沈黙だよ」
最初に言ったのは婆さん・サト。小さな体に、百の市場を通した声。
「旧ギルドが音を奪っている。奪うってのは、うるさくすることだけじゃない。耳を疲れさせて、静けさを重くするんだ」
報告が続いた。市場の角で無意味な鐘、港の裏手で低い唸りの車輪、夜の畦で風受けの凧が音を吸う。
騒ぎではない。疲労だ。拍を刻む者の耳を鈍らせる粘った沈黙。
「休む手順を、規格にする」
わたくしは机を外に出し、紙の角を太くして見出しを書く。
「耳の学校・初版/休拍運用 v0」
章立ては三本柱。
一:耳の学校——育成・認定・耳地図。
二:長距離歌の交代——休拍と代拍、CRC(拍の検査符)。
三:沈黙対策——視旗、触索、無音窓。
◆
耳の学校の教室は天幕の下、床は板、壁は風。講師は婆さん四名、補助に子ども夜拍隊。
カリキュラム:
- 音の目(耳介を動かして方向を取る)
- 拍の数え替え(短長短→短短長、長長短の誤聴補正)
- 無音の重さ(十呼吸の黙で耳を洗う)
- 雑音の中の拍(井戸の水音、荷車の軋み、子どもの笑いの中で拍を拾う)
- 疲労の自己申告(名と一緒に耳印を残す。耳印は「今日の耳の温度」)
認定は三段。若耳(子ども)、働き耳(巡回)、婆候補(歌見張り)。
耳地図は新しい。港—市場—工房—畦の各点で耳の良い位置と悪い位置、風の溜まり、石の反響を絵で示す。地図の端には逸脱空白。「今日の耳」を書ける欄だ。
サト婆さんが板にチョークで描き、子どもが小さな拍を指で叩く。
「耳は筋肉だよ。筋肉は休む手順までが一式。休まない筋肉は、明日ひっくり返る」
わたくしは頷き、次の紙を出す。
「長距離歌・交代仕様 v0」
定義:休拍は意図的な空一拍。列の代拍がそこを埋め、CRCで誤りを検出する。
CRC:三節の末尾に確認拍を追加。短短長+チ/短長短+チ/長長短+チ。確認拍が抜けたら、その便は要確認。
交代:休拍を合図に歌方が交代。交代者は二拍前から重ね打ちで同調し、一拍だけ強く打って引き取る。
署名:交代には名を残す。疲労は誇り。
KPI:拍エラー率、休拍遵守率、誤聴補正成功率。
ノアが木杭に耳を当て、静かに言う。「骨も音を運ぶ。触索を畦沿いに張ろう。指で拍を拾える道」
「触索?」とジュード。
「膝の高さの綱だ。節に拍を刻む。耳が疲れたら手で読む」
「良い。視旗も出すわ」とリース。三色旗で巡/集/止に加え、休の旗を作る。星の形で一目。
ギータは帳簿をめくり、鼻で笑う。「無音窓も設けよう。市場と港に“拍禁止、十呼吸休む”の小さな場。休むことを見える化する」
◆
実装は速いほうが勝つ。
午後、畦に触索が走った。麻の細い綱、節には小さな結び目。短短長は小・小・大、短長短は小・大・小、長長短は大・大・小。
見張り台から視旗が上がり、星旗が休を示す。
港と市場の角に無音窓の縄が張られ、「十呼吸静かに」の札。静けさの仕様だ。
耳の学校は昼二回/夜一回。子どもが婆さんの横で耳を澄ませ、婆さんが子どもの肩で拍を取る。
サト婆さんが言う。「沈黙は悪くない。ただし、疲れた耳の上だと悪い。休拍は、耳に塩をひとつまみ振るみたいなものさね。余計な水気が引く」
◆
初日の長距離歌・交代試験。
王都への緑紐、道札は新木、荷は白小瓶二十、香味六。
出発の歌は短短長+チ。二節目で休拍、代拍者が重ね打ちで引き取る。
CRCは最後にチが跳ねる。
港門の婆さん・トメが耳だけで笑う。「確認拍、入ってる。いい音だ」
中腹の柳。ここが昨日、沈黙に刺された場所だ。
旧ギルドの低唸り車輪が遠くで回る。風受けの凧が木の上で音を飲む。
——無音の重さが押し寄せる。足音だけが自分の背骨に響く。
「休!」
星旗が上がり、触索に手が乗る。小・小・大。
代拍が交代を受け、確認拍がチと鳴る。
列の肩に笑いが走る。笑って開けるのは水の口だけじゃない。休みも、笑って取ると速い。
その帰り、荷の片側がまた軽くなった。
今度は違う。道歌は合っている。CRCも通った。視旗も間違っていない。
ジュードが道札の裏を見て唸った。「道外の空白、白いまま」
わたくしは指先で木目を撫でる。寄り道が悪になっているから、誰も書かない。書かない寄り道は影。
「空白を怖くなくす。——道外の書き方、見本を出す」
その場で板の裏に書く。
「道外:柳の根元で無音強。十呼吸の休**。触索使用。名:セリーヌ」**
ギータがすかさず「見本」の札を付けた。
群衆が寄ってきて、誰かが震える字で続けた。「道外:荷台の革紐、きしみ音大。CRCが聞こえにくい。名:アーヴィン」
——汚い字は、強い。空白が道になっていく。
◆
沈黙の手は、次に夜へ来た。
凧ではない。油布の幕を風上に張り、大気の振動をやわらげる。灯は見えるが、拍が遠くなる。
リースが兵を散らし、ノアが風の筋を見て、幕の影の角を指した。「ここで拍が死ぬ」
対処は三段。
一:触索を幕越しに引き回し、指の道を増やす。
二:視旗に拍のCRC(小旗のチ)を追加。
三:灯を脈で点滅(短短長+チ)。目で確認拍が取れる。
幕の影は沈黙の牙を隠したつもりだが、触索は牙に布を被せた。指は鈍らない。
サト婆さんが笑う。「耳が疲れたら手で読む。手が疲れたら目で読む。目が疲れたら休む。それが道の礼儀よ」
◆
耳印の札が掲示板に増えてゆく。
耳印は丸い小札に今日の耳の温度を書くだけ。“軽/普/重”と名。
重が増えた日は無音窓を増やし、巡回を短くする。休拍の比率を上げる。
数字が音楽になってきた。拍エラー率が下がり、休拍遵守率が上がり、誤聴補正成功率はじわりと伸びる。
監督官ヴァレンが、紙束を抱えて現れた。
「期限の中間点だ。耳の学校——数字を見せてくれ」
「KPI板をどうぞ」
板には新しい列が並ぶ。耳学校登録、耳印“重”率、無音窓使用回数、交代成功率。
ヴァレンは無表情で頷き、「無音窓は手続きか?」と訊いた。
「詩です」とわたくし。「“十呼吸、黙る”を手順書にすると、沈黙は味方になる」
彼の口端が、またわずかに動いた。「きみは詩で殴る」
「改定手順違反だけを殴ります」
◆
公開“休拍検分”をやった。
天幕の下、観客に触索を握ってもらい、短短長+チを目・耳・手で同時に渡す。
CRCが抜けたとき、指が先に気づく者、耳が先の者、目が先の者。
人は違う。違うから、重ねる。重ねると、嘘が入りにくい。
旧ギルドの若造が人混みの外で舌打ちした。
——舌打ちは音だ。音は、詩に吸われる。
サト婆さんがふっと笑って、短短長をひとつ返した。若造の舌打ちは、二度目で拍に合っていた。
拍は感染する。感染の仕方まで、仕様にする。
◆
夕暮れ。
工房の香りが低く漂い、港の潮が肩で呼吸をして、畦の二重堤はしずかに光る。
掲示板には新しい紙。
「耳の学校・初版(掲示)」
「長距離歌・交代仕様 v0」
「沈黙対策・二版」(視旗のチ、触索の節、無音窓の運用、耳地図の更新)。
事情は今日も三件。偽札は零。道外の記入が増え、空白が薄くなった。
トーベンが耳印:普を掲げて歌先生を手伝い、アーヴィンが触索の節を締め直し、カイが無音窓で十呼吸、黙って座った。
罰は見える。休みも見える。名は温度だ。
ノアが肩を並べ、触索に軽く指を置いた。小・大・小。
「拍が、前より柔らかい」
「休みは筋肉の友達です」
「筋肉があると、骨が嬉しそうにする」
「骨は道。筋肉は歌。皮膚は名」
彼は短く笑い、チをひとつ打った。
リースが剣の柄をコツン。「夜番、交代準備。休拍の旗、星を二つに増やした」
ギータは御者台で帳面を叩く。「見出しは決まり。“沈黙も手順に——耳は資産”」
サト婆さんは若耳の肩を叩き、「あんたら、明日から婆候補だよ」と言って鼻で笑った。鼻の笑いは、拍に似て短い。
靴は今日も汚い。白と黒と土に、麻の粉が加わった。
なら、やっぱり、正しい。
【辺境KPI / 第11話】
塩産出量:0.74 → 0.75(途中すり替え減・夜間運用の安定化)
用水稼働率:48% → 49%(休拍導入で搬出入の停滞短縮/疲労起因の遅延減)
住民満足度:+0.84(耳学校 登録 93/婆候補 17/無音窓 利用 128件)
治安指数:63 → 65(沈黙攻撃の無力化/道外記入率 18%→37%/偽札検知 0)
供給鎖指標:拍エラー率 6.8%→2.1%/休拍遵守率 92%/誤聴補正成功率 88%
ガバナンス:交代記録 100%署名/耳印“重”日 3→1
次回予告:「火薬ではなく、粉——粉塵爆発に気をつけろ」。乾いた白と香草の工房に潜む新たな危険。旧ギルドの“火の噂”に踊らされず、換気・静電・粉管理の規格で先回り。拍にもう一つ——**“静”**の記号を足す。




