第1話「白い塩、七日の証明」
断罪の印章は、塩で白く曇っていた。
王都の広間で押された赤い蝋は、ここ潮塩州の海風を一晩吸い込んで、くすんだ桃色に褪せている。あのときの歓声も、恥のための太鼓も、もう届かない。届くのは潮の匂い、砕けた畦のひび割れ、白く死んだ蒸発皿が数え切れないほど並ぶ沈黙だけ。
わたくしは、ひざまずかない。しゃがむのは、地面を見るため。
腰をかがめ、親指の腹で塩土をこそげ取る。塩は指先で鳴る。湿りの残る日の“こすり音”は鈍く、乾き切った日の“さやさや”は軽い。今日は中間。うっすらと光る結晶は、しかし均一ではない。ひび割れの底に塩柱が立ち、表面だけが粉を吹いている。蒸発が途中で止まり、濃度の偏りが起きた証拠だ。
「——アルジェ嬢、危ない。そこ、畦が落ちる」
低い声が背後から飛んできて、わたくしは踵をずらす。かろうじて残っていた土の梁が、ぱきりと割れた。
声の主は、痩せぎすで、日焼けした頬の男。短く刈った髪から汗が筋になって流れ、軍靴ではなく泥に強い作業靴を履いている。
「用水技師のノア・バルティです。公社からの任命書——確認済み。案内を」
「悪役令嬢課、課長のセリーヌ・アルジェ。……まずは数で話しましょう、ノア」
ノアは小さく瞬きし、わたくしの手帳をのぞいた。手帳には項目だけが並ぶ。
課題:塩田死。用水路半壊。住民信頼指数——未計測。
前提:干満差1.7メルグ(この州の単位)。主風・海から内陸へ。日射は春高・秋低。
仮説:落差不足/風の向きに対し蒸発皿の向きが逆/濃縮手順の省略。
「最小区画で試験運転をします。畦の補修、塩水の引き込み、風向に合わせた表面のならし——七日で白い塩を上げたい」
「……七日」
ノアの喉仏が動く。こちらが強気の数字を出すとき、人の首は必ずこう動く。
遠くで、見張り台の鐘が一度だけ鳴った。潮返しの時刻だ。
「敵は“潮”ですか、“人”ですか」
「どちらも。ですが、最初に倒すのは潮。人は数字で説得できます」
ノアは、ほとんど見えないほどの微笑をした。
「数字で、ですね。案内します」
塩田を囲む堤は、ところどころ崩れている。鳥の足跡、子どもたちが投げた貝殻。半分潰れかけた小屋の軒先で、男たちが腕を組んで見ていた。反公社派の若頭、ジュードの姿もある。目が鋭い。口角の癖が、いつでも罵倒に変わる準備をしている。
「王都のお嬢様が、靴を汚しに来たって? 見物だな」
「靴は汚れますけれど、未来は儲かりますのよ」
笑って、通り過ぎる。今は言い返しで勝っても仕方がない。七日の数字で勝つほうが早い。
用水路の分岐点まで歩くと、水はわずかに濁り、流速が落ち、ところどころで渦が起きていた。ノアは膝をつき、棒で底をつつく。粘土質の堆積。畦の裏からの漏れ。潮止め板の歪み。
「大雨のあと、仮修理で済ませた痕があります。落差が死んでいる」
「落差が死ねば、塩も死ぬ。——落差を取り戻すこと。蒸発皿の向きを風に合わせること。濃縮の手順を戻すこと。三つを最初の勝ちに」
わたくしは手袋をはめ、歪んだ板を持ち上げる。海からの光が水面に跳ね、指輪の宝石のように眩しい。指輪は王都で置いてきた。ここで光るのは、水だけでいい。
昼前、辺境隊の旗が見えた。砂塵を上げて騎兵が近づく。先頭の女騎士が馬から降り、兜を小脇に抱えた。
「リース・ハイロウ、辺境隊隊長。公社の護衛と治安維持は任せてください。噂は聞きました。王都を捨てられたお姫様が、塩で国を救うって」
「捨てられたのではなく、手放したのです。両手を空けたほうが、たくさん持てますわ」
リースは苦笑し、ノアに目配せした。互いに短く頷く仕草が、現場の人間の合図だ。
「まずは、あの反公社の連中が騒ぎを起こさないようにする。あなたは七日で何か見せる——で、いい?」
「ええ。白い塩を、一皿。条件を揃えた上で、誰の舌にも誤魔化せないものを」
午後、仮囲いの中に最小単位の蒸発皿を設ける。畦の割れ目には藁と粘土を刻んだパテを詰める。浜で拾った平たい石を焼き、熱を帯びた石に少量の塩水を垂らして“塩の音”を聞く。ぱち、ぱち。濃度が高いと音は高く、薄いと低い。音が揃うまで、わたくしは石を替え、ノアに塩水をゆっくりと導かせる。
子どもが柵の外から覗き込んでいる。わたくしは視線でリースに合図し、彼女は兵に“近づいてよし、触れるな”の手振りを出した。
「何してるの?」と、一番背の低い子が聞いた。
「空の味を作っているの」と答えると、子は目を丸くした。
日が傾き始めると、風の向きが少し変わる。海から陸へ、直線だった矢印が、やや北へ回る角度になる。蒸発皿の表面を木の板で軽く撫で、風が流れる「筋」を作る。塩は筋を好む。筋に沿って水が薄くなり、結晶核が生まれる。
「アルジェ嬢。潮返しの時刻に合わせるなら、今夜は……」
「交代で見張りましょう。畦の乾きを待つ間に、わたくしは地図を描きます」
夜になり、火が焚かれ、簡素なスープが配られた。わたくしは蓋をして保温し、手帳を広げる。月明かりで見えるよう、炭の芯を短く削る。
地図はただの線ではない。魔物の回遊道がどこを通るか、風の通り道がどこで狭まり、どこで鳴くか。昼間、ノアと歩いた道程を、手触りのまま線に置き換える。リースが静かに寄ってきて、肩越しに覗く。
「その印、何?」
「風が笛を吹くところ。畦の割れは音色が違います。そこへ見張りを置けば、夜でも畦が泣いたらわかる」
「泣く畦、ね。——兵を二人、音の番に回すわ」
交代の眠り。夜半、わたくしは目を開け、蒸発皿に月が落ちるのを見た。水は薄くなった。結晶が、皿の端で星座のように光る。指で触れたい誘惑を抑える。塩は気まぐれだ。焦ると崩れる。
二日目、朝一番でジュードが来た。後ろに男たちを連れている。
「噂は速いな。王都の嬢ちゃんが白い塩を七日で上げるってさ。——見物料を取るのか?」
「見物は無料。働いてくださるなら、賃金は払います。今日必要なのは、畦の張り替えと潮止め板の削り出し。手のいい人が必要です」
「金は?」
「今日の分は銀貨一枚。明日からは作業量に応じて。加えて、白い塩が上がったら——製法書の公開。あなた方の塩田にも使えるようにします」
ざわめきが走る。ジュードは鼻で笑った。
「製法をタダで渡すって? 貴族の施しは、あとで倍にして取り立てるのが常だ」
「施しではなく、仕様です。透明な仕様は、誰かを弱くするためのものではない。皆が同じ前提に立てば、交渉は速くなる」
ジュードはわたくしを観察する猫の目になり、やがて肩をすくめた。
「いいだろう。暇な手を十——いや、五。今日は五で様子を見る」
「ありがとうございます。——リース、労災の誓約書を。ノア、潮止め板の寸法一覧を」
昼過ぎ、最小区画の畦が生まれ変わった。土は新しく、藁の繊維がまだ黄金色だ。潮止め板はノアの設計に従い、下辺がほんのわずかに斜めに削られている。あの角度が、水を“通す”と“止める”の境目だ。
三日目、風は強く、空は抜けるように青かった。蒸発皿の水は、午前のうちに薄紙のような膜になり、午後には膜が裂け、小さな山脈が生まれた。わたくしは台所から借りてきた古い木匙で、そっと寄せる。
白い。
幼い頃——王都の台所で、料理番がこぼれ塩を指で集め、皿の縁に小さな丘を作っていたのを思い出す。貴族の食卓で、塩はただの調味ではなかった。見栄と誇示の飾り。
ここでの白は、誇示ではなく、証明だ。
四日目、王都からの馬車が埃を上げてやってきた。行商ギルドのマダム・ギータ。ふくよかな体に派手なスカーフ、金糸の縁の帳簿。
「あなたが噂の“悪役令嬢課長”? 私は商人。噂は利益になり得るが、まずは舌で確認する主義」
「歓迎します。まだ試験段階ですが、——どうぞ」
木匙で寄せた白を、ほんの指先ほど。ギータはぺろりと舐め、目尻を持ち上げた。
「どこかの祭の塩……海の匂いが残る。嫌な残り香がない。——よろしい。これを続けられるなら、王都の料理屋に“辺境塩”として提案しよう。ただし、製法の透明化が条件。規格の紙が要る」
「用意します。粒度、含水率、色度。……鑑評会でのブラインド審査も」
ギータは面白そうに笑った。
「断罪された令嬢が、鑑評会で王都に喧嘩を売る。——よく通る話ね。好きよ」
五日目の夕刻、ジュードの男たちが自発的に畦の目地を指で撫で、ひびの早期発見を競い始めた。リースは兵を“威圧の壁”から“夜警の灯”へ変え、子どもと老人が火の周りに座れるようにした。ノアは何も言わず、ただ水位棒の印を一つ増やした。増えた印の高さは、彼の気持ちの変化と比例しているように見えた。
六日目、王都から監督官ヴァレンの使いが来た。「公社のKPIを提示せよ。七日での達成が見られない場合、予算の一部停止を上申する」。
わたくしは封を破り、リースとノアに読み上げ、ギータに見せ、ジュードへも渡した。隠す必要はない。数字は皆で背負ったほうが軽い。
「七日目の朝に、“白”を見せます。午後には“規格”を示す。夜には“見通し”を。——ヴァレン殿には、黒字予測の初版も同封しましょう」
「強気だな」とジュード。
「予測は裏切りますが、準備は裏切りません」
七日目の夜明け前、風は止み、空は灰色だった。火の周りに皆が集まる。わたくしは木匙を持ち、蒸発皿の縁に膝をついた。ノアが軽く頷く。水面の最後の薄膜が、音もなく割れた。
白い丘が、静かに立ち上がる。
わたくしは手袋を脱ぎ、指先でひとつまみをすくった。光が戻ってくる。灰色だった空に、薄金色が差し込み、白は白として立ち上がる。
「——運転、成功。白、上がりました」
歓声は起きなかった。代わりに、大きく息が吐かれた。緊張が解ける音。足元で子どもがささやく。「空の味だ」。
ギータが一歩前に出て、懐から小瓶を取り出す。
「辺境塩・試験一号。王都へ運ぶ。——正直、あんたの“悪役”って看板、商売になる。好きに使いな。『断罪の塩』って名前はどう?」
「名前はあとで。まずは規格。透明な製法書を作ります」
ノアが、いつの間にか持っていた木札に“水位棒・規格案”と記した。リースは兵に目配せし、夜警の交代表に“見張りの耳”という欄を加えた。ジュードは、白を見たまま動かない。目の奥の何かが、固く、しかし少しだけ解ける。
「——七日、か。……これなら、手を貸す理由がある」
「ありがとうございます、ジュード。分配モデルの案も今日中に。あなたの“反公社”が“現場リーダー”へ変わる設計で」
「勝手に役職を渡すな、嬢ちゃん」
「呼び名は仮です。本採用は、あなたの仕事次第」
笑いが、塩田の上を薄く走った。潮の匂いは同じなのに、匂い方が違って感じられる。数字の前に、匂いが先に変わることがある。
わたくしは木匙を置き、夜明けの色が広がっていく空を見上げた。断罪の印は、もう思い出せないほど遠い。いま手元にあるのは、白い丘と、まだ粗い地図と、数字のために動く人たち。
靴は汚れた。なら、たぶん、正しい方向に歩いている。
手帳を開く。今日から新しいページだ。
成果:白、上がる。住民の参加増。行商の興味獲得。
課題:王都の圧力/旧ギルドの妨害予兆/治安指数の脆弱さ。
次工程:鑑評会へ向けた規格書/用水の通年運用設計/夜警の参加型設計。
わたくしは顔を上げ、ノアとリース、ギータ、ジュード、子どもたち、兵、職人——全員に届くよう、しかし静かな声で告げた。
「辺境開発公社・悪役令嬢課は、本日より正式に開庁します。数字と未来と、少しの誇りで、ここを、王国を食わせる産地にしましょう」
潮の向きが、ほとんどわからないほど少しだけ変わった気がした。
塩の丘は、朝日にきらきらと鳴っていた。




