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第9章――避けられぬ未来

 ハルは夢の中にいた。

 空は四方へと果てしなく広がっていた。

 銀と淡い青のグラデーションに染められた、終わりのない天蓋。

 雲は島のように浮かび、柔らかく、ゆっくりと、光の海に漂っている。

 頭上には無数の星が輝き、数え切れないほど近く、現実とは思えないほど大きく、瞬きもせず、ただ静かに光を放っていた。それはまるで、決して消えない記憶のようだった。

 そのすべての下に広がるのは——水。

 透き通るほど澄み切った巨大な水面。

 完璧に静まり返り、冷たくも暖かくもなく、ただ「そこにある」。

 あまりにも完璧で、空を鏡のように映し出し、天と海の境界は判別できなかった。

 ハルはその上に足を踏み出す。

 ガラスの上を歩くように、足元はしっかりと彼を支えた。

 波紋も、揺らぎも、音すらも生まれない。

 ここでは恐怖も、混乱も、好奇心すらもなかった。

 ただ——静けさ。

 呼吸は自然と深くなり、肩の力は気づかぬうちに抜けていた。

 ——深い平穏。

 一時的な安らぎではなく、存在そのものを許されるような安堵感。

 何も求められず、ただ在ることを赦される場所。

 遠くで何かが光っていた。

 光。

 星のように冷たくもなく、雲のように柔らかくもない。

 脈打つように輝き、誘うように瞬く光。

 理由もなく、言葉もなく——ハルは歩き出した。

 どれほど歩いたのかは分からない。

 ここでは時間が存在しないようだった。

 空は暗くならず、星々も変わらず、水面は依然として完全な鏡で、ただ一つ——ハル自身だけを映さない。

 やがて、それは現れた。

 水面すれすれに浮かぶ、影を持たない時計。

 盤面は古びた雲の色をした、石とも金属ともつかぬ素材でできていた。

 その縁には、凍てついた風を思わせる精緻な紋様が絡みつき、翼、羽根、光輪、そして人の手では決して刻めぬ螺旋が並ぶ——天使的な意匠。

 それは神聖さを帯びていた。

 そして、巨大だった。

 家より高く、通りより広い。

 水面に影を落とさず、ただ静かに——しかし生きているように——漂っていた。

 中心には黄金の針があり、しなやかで長く、機械仕掛けの優雅さで回っている。

 盤の周囲には数字ではなく——顔。

 数十もの顔が刻まれ、すべて異なり、すべてがこちらを見つめている。

 目を離せなかった。

 これは祈りや神殿のような「神聖」ではない。

 言葉で表せぬ、真理そのもののような——常に在り、常に在り続けるもの。

 そして気づく。

 長針が七つ目の顔を過ぎたばかりだった。

 息が詰まる。

 速い——。

 針は次の顔、八つ目へと異様な速度で進んでいた。

 かつてあったはずの時の律動が、壊されたか、捨て去られたかのように。

 そして——八を指した瞬間。

 空も、雲も、足元の静寂も——すべてがねじれ、歪み、水面は絵の具のように混ざり合って波打つ。

 星は消え、海は彼を引きずり込む。

 ハルは沈んだ——深く、深く。

 そして目を開けると——

 すべてが失われていた。

 熱と灰が空気を満たす。

 それは焼くだけでなく、息をも奪う熱。

 遠く、あるいは至るところで炎が猛り、煙、悲鳴、そして沈黙が混ざり合っていた。

 かつて神聖だったものは、跡形もなく壊れている。

 構造物も、象徴も、積み上げられた遺産も、塵と炎に帰した。

 ——ここは《ミブツァル・オブ・エイナイム》。

 長きに渡って多元宇宙を支えてきた秩序は裂け、解け、崩れていく。

 これは崩壊だ。

 善であったはずのものが、取り返しのつかない形で壊れた瞬間。

 理由を聞く必要も、答えを求める必要もなかった。

 ——自分が原因だと分かっていた。

 ハルは駆け出した。

 焼け焦げた大理石の破片、砕けたガラス、古代の残骸が降り注ぐ。

 考える間もなく、それらをすり抜ける。止まれば飲み込まれると、体の奥で理解していた。

 悲鳴は止まらない。

 それは痛みの叫びだけではなく——裏切られた叫び。

 存在そのものが嘆いているような声。

 肺が焼け、心臓が跳ねる。

 足が止まる。息が詰まる。

 ——見られている。

 煙の向こう、遠くに影が立っていた。

 崩れた石の端、高みから炎を背に、動かずこちらを見下ろす黒い輪郭。

 その存在は空間を圧迫し、胸の奥の空気を奪う。

 他のすべてを小さく見せる圧力。

 チッ…

 顔を上げる。

 ——そこにあった。

 あの時計。

 だが今は水面に浮かんでいない。

 すべての上に——天空全体を覆うほどの巨大さで。

 縁には燃えるような天使の刻印が光り、戦う星座のように輝いている。

 都市より長い針が、神聖な終焉を刻むように動く。

 世界そのものが息を潜めていた。

 時間ですら、ひざまずいているかのように。

 影もまた見上げていた。

 ——これが何を意味するか、理解しているように。

 そして共に見守る。

 黄金の針は進まず——戻る。

 八から七へ。

 そして——

 世界は解けた。

 炎は内へと折り畳まれ、煙は光に溶け、悲鳴はこだまに変わって消える。

 足元の地面は重さを失い、影は滲んで消える。

 すべてが逆流する。

 不可逆で、必然で、抗えない運動の中へ。

 ——そして。

 ハルは目を覚ました。



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