第3章――新たな世界へ
この船が速いと言うのは――世紀最大の控えめな表現だった。
ハルは副操縦席の前バーを、まるで命綱の最後の一片のように掴んでいた。
指は白くなるほど固く握られ、関節がきしむ。
アズラエルは……アズラエルだった。
涼しい顔。飄々と、動じない。
操縦席近くのパネルに悠々と腰を下ろし、尾をゆらりと揺らしながら、星々が光の線となって流れていく様子を何事もないかのように眺めている。
レオニダスは舵を握り、鋼のように安定した手つきで機体を操る。
上昇の圧力を、他の二人と同じように全身で感じながら。
「近いうちにドック入りだな! そうだろ、ハル!」
加速の嵐の中、風切り音に負けじと叫ぶレオニダスの口元は笑っていた。
ハルは返事をしない。
すでにイヤホンを耳に押し込み、音楽を最大音量で流していた。
目を見開き、正気を保とうと必死。
不自然なG(重力加速度)と、自然すぎる死への恐怖が全身を襲う。
感動はある。
だがそれは、驚嘆よりも恐慌に近かった。
機体は大気圏を突き抜け、軌道を越え、そして――星々の海へ。
そこで、ようやく本物の感動が訪れる。
ピンサーは徐々に速度を落とし、宇宙空間を滑るような安定飛行に切り替えた。
ハルは片方のイヤホンを外し、やっと息をつく。
「……うわ……」
「だろ、坊主。」
レオニダスも声を落とす。「これはな……何度見ても慣れねぇ。」
「同感だ。」アズラエルは伸びをし、まるで昼寝から覚めたように言った。
「この時代の子どもたちの言葉を借りるなら――『始原はガチでやってくれた』、だな。」
ハルは無言で猫を見た。
この神聖な瞬間を、猫の寒いボケで台無しにする気はなかった。
代わりに、視線を窓の外へ向ける。
――地球。
青く、丸く、息を呑むほど美しい。
あまりにも現実感がなく、まるで幻のようだ。
胸の奥が静まり、心の奥底で何かが「カチリ」と噛み合った。
これが、自分の世界を離れるということか。
これが、無限というものか。
星々。銀河。果てのない虚空に描かれた天の絵巻。
月。木星。冥王星。
――そして太陽。
写真ではない。
映像でもない。
本物。
輝き。
巨きさ。
生命力。
「……壮麗だ。」
それだけが、息と共に静かにこぼれた。
「他に見たいもんはあるか、坊主?」レオニダスが笑う。
ハルの頭はもう限界だった。
木星の規格外の大きさで言葉を失い、太陽の神々しさで美の基準が溶けた。
――そして悟る。
これは始まりにすぎない。
この先には、もっと巨大で、もっと異様で、もっと聖なるものが待っている。
自分の脳が耐えられるかどうかも分からないような景色が。
「……いや。もうお腹いっぱい。」
レオニダスは声を上げて笑う。
アズラエルは退屈そうに大あくび。
やがてレオニダスは表情を引き締めた。
「さて、遊びはここまでだ。――そろそろ教えてやる。宇宙を越えて『ミブツァル・オブ・エイナイム』へ渡る方法をな。」
ハルは即座に姿勢を正す。
「俺の右手の甲、見えるか?」
差し出されたそこに刻まれていたのは――955。
ハルは以前から見ていた。ただのタトゥーだと思っていた。
だが今、意味が分かる。
レオニダスが理由もなく彫るはずがない。
「アークナイトは二つの数字を持つ。」レオニダスは説明する。
「左手の数字は、本人以外には見えない。そっちは所属内でのランクだ。」
右手を軽く叩く。「こっちは可視の番号。ウォッチャーズが選んだ分類番号だ。実力や成績じゃなく――」
「運命。」アズラエルが淡々と口を挟む。
「まぁ、そういう説だな。」レオニダスは薄く笑い、続ける。
「重要なのは、この番号が身分証になるってことだ。これでマルチバースを渡っても犯罪者としてマークされないし、ウォッチャーズのシステムにもアクセスできる。任務、道具、特権――全部だ。」
「……どうやって使うんだ?」
「意図を込めて番号を口にする。それで精神的にウォッチャーズと繋がる。」
「契約……みたいなもんか?」
「まぁ、擬似契約ってやつだな。」
そしてレオニダスは笑みを戻す。
「さあ、よく見とけよ――955!」
その瞬間、眼前の空間が裂けた。
白、金、黒が脈打ち、液体の光と古代の魔法が混ざり合ったような波紋が現れる。
「掴まれ。」
ピンサーは刃のように裂け目を切り裂き、異世界へ飛び込む――
――そして、新たな世界が広がった。
そこは「ミブツァル・オブ・エイナイム」。
空に太陽はないのに、光は完璧だった。柔らかく、鮮烈で、神々しい。
天は青と白の広大な幕のように広がり、地球の晴天よりも明るく、純粋で、解き放たれる感覚があった。
「……すげぇ……」
ハルの声は震えていた。
「坊主。」
「……なに?」
「――ようこそ、ミブツァル・オブ・エイナイムへ!」
都市か、領域か、あるいは別の何かなのか――それはとてつもなく、そして信じられないほど現実離れしていた。
空には様々な船が飛び交っている。海賊船、未来的な艦、異文化の技術を融合させた巡航艇……空を行くものもあれば、河や湖面を滑るものもあった。
白と銀を基調にした建築群は、古風から超近代、サイバーパンク、超古代風まで入り混じる。
空に浮かぶ建物もあれば、天を突く塔もある。
そして――空中に逆さに浮かぶ巨大な銀のピラミッド。
蜂の巣のように船が出入りしている。
「……あれは?」
「『エイヴィアリー』だ。犯罪者を収容する場所だ。」
高度を下げ、街の上空を滑るように進む。
街にはあらゆる種族が混ざり合っていた。
人間のような姿の者もいれば、透明な皮膚を持つ長身の存在、四本腕の小柄な種族、スーパーヒーロー、戦士、商人――地球の言葉では形容できない生命たち。
そして秩序を保つ者たち――『エンフォーサー』。
白と黒に金をあしらった技術的侍鎧、青白く光るバイザー付きの兜、背と脚部には青い炎を噴くジェット。
腰にはプラズマ刀――柄は日本刀風だが、刃は動きに応じて形を変えるエネルギーの光刃。
「……すげぇ……」ハルが呟く。
「だろ。」レオニダスが軽く返す。
「警察みたいなもんか?」
「そうだ。ウォッチャーズ直属の特務部隊だ。」
やがて耳元で小さく音楽が鳴った。忘れていたイヤホンの片方から。
ハルはスマホに手を伸ばし――固まる。
バッテリー残量、100%。
「……は? なんで充電されてんの?」
「ミブツァルには強力で絶えず動く『マナ』が満ちてる。ほぼ無限だ。」レオニダスが笑う。
「だから機器は常に充電されるし、電波も途切れない。仕組みは知らんが便利だろ?」
さらに「体も元気になる。健康も上向くし、睡眠時間も減る。」と付け加えた。
ハルは頷き、心の中で反芻する。
マナ――物理と霊的現実の間に生じる存在の核エネルギー。
測定不能、完全理解不可能、しかし理不尽なほど強大。
全ての力はそこから流れ出す。
それは三神が人類に与えた聖なる贈り物――。
――そして、美しい永遠の時間の果てに、彼らはついに城塞の中心へと辿り着いた。