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人影がぽつりぽつりと闇に沈むように座っている。
シーズン中は熱いファンで埋め尽くされているが、すでに勝負の決したあとの消化試合、夜風も冷たい平日のナイター、三塁側内野席とくれば、せいぜいこんなものだろう。
さすがに一塁側にはまだ地元の熱心なファンが陣取っている。
飛んできたファウルボウルが、避ける人もないベンチに当たって鈍い音が響く。
夏の名残はもうどこにもない。こう寒くてはビールを飲む手も震える。それでも、野球を見る時はビール、昔、親父はよくそう言って日焼けした顔で笑っていた。三つ子の魂百までとはこういうことか。
七回表に追加点がはいり、迎えた裏の攻撃もあっさり終わった。この時期になって、調子をあげてくるピッチャーに、
「やる気出すのが遅いんじゃ、ボケ!」
優勝を逃したホームのファンから悔し紛れのヤジが飛ぶ。確かにピッチャーがこの調子なら、今日の試合はもう動かないだろう。
つまらない人生の最後に似合いすぎるくらいつまらない試合だ。
スタジアムに来るつもりなんてなかった。
混雑するホームで入ってくる電車をぼんやり見ていた時、急に何もかも面倒になった。二、三歩踏み出して、全部終わりにしても別にいいような気がした。そうして、踏み出した時、足下のチケットに気づいた。最後に野球を観るのも悪くないと思った。
攻守が代わって、ベンチから弾かれたように威勢良く飛び出した若手が、その勢いのまま外野に向かって駆けていく。
ペナント争いをしていた頃は、ベンチを温めて声だけを張り上げていた若手にも、消化試合になってようやく出番が回ってきたらしい。
六甲おろしが吹き抜ける中、辿り着いたレフトで、大きく足を広げて片方ずつ伸ばし、軽くジャンプを繰り返している。
待ちきれなくて少しもじっとしていられない子どものように。どんなフライが飛んできても命がけで飛び込んでいきそうだ。消化試合だろうと何だろうと、今この場所にいられることが嬉しいのだろう。来年は、もっとチャンスを貰えるかも知れない、そんな希望も未来もある。そのために努力を重ねてきたはずだ。
生まれつき心臓に障害を抱えていた俺の息子はそんな努力をすることさえできなかった。キャッチボールはできなくても、いつかスタジアムに行こうと約束していた。
ホームランボールを取ろうとグローブも買った。その日を夢見て、目を輝かしていた。
「冷えますなぁ」
後ろのベンチから声がした。いつの間に座ったのか。これだけ空いているのに近くに座るのは、話し相手が欲しいということか。
聞こえないふりをして、ため息を押し殺す。面倒くさいが、まあいい、気に障るようなら、黙って席を立てばいい。最後まで観戦する気だったが、我慢してまで観たいわけでもない。
「死のうとでも思てはりますか」
思わず振り向いた。どこにでもいそうな作業着を着たくたびれたじいさんが座っていた。
「わかるんですわ、こっち側におるからね」
こっち側というのが三塁側ということではないはずだ。じいさんは、傍らに置いたままのビールを見て、うらやましそうな顔をする。
「野球を観る時はやっぱりビールですな。懐かしいなぁ。暢気にビール飲んで、野球観てた頃が一番幸せだったんですな」
歓声が遠く聞こえる。俺とじいさんの周りだけが薄い膜で被われているみたいに。
「あんた、死んでいるのか?」
そんな言葉が口をついた。普通に考えれば頭がおかしいと思われるだろう。だが、今の俺には身近な言葉だった。
「そうですな、ここにはわしみたいなんが時々おるんです。風が吹き下ろすせいか、人が集まるからか。わしは、試合を観たい、観たいと思いながら死んだからも知れませんな」
「随分熱心なファンだったんだな」
「新人のファン第一号になる予定やったんですわ」
じいさんの薄い作業着は闇に溶けそうで溶けない。冷たさが気にならなくなったビールを流し込む。
照明がこの夏を駆け抜けたグランドの選手たちを照らしている。今が盛りの男たちだ。
だが、それを見下ろすスタンドに、亡霊がいるのなら、越えがたいように見える生も死もたいした違いはないのかも知れない。何もかも泡沫のように。
後ろでじいさんが話し出した。勝手にしろと思いながら、俺は黙ってグランドに目を戻した。