後宮幽玄録~下女、寵妃となりて謎を解く~
「寧嬪……。寧嬪まで余を残し、死の国へと去ろうというのか……」
白梅が皇帝である永寧の背中に腕をまわすと、永寧の唇が白梅の額に触れた。
「よくぞ清貴人を殺した者を見つけてくれた。褒美として、寧嬪を貴妃に封じる」
永寧は震える声で勅命を下した。貴妃とは、皇后に次ぐ地位である。
「ありがたき……幸せ……」
寧嬪から昇格して寧貴妃となった白梅は、意識が遠のいていくのを感じた。
永寧が自分の名を呼ぶ声を聞きながら、白梅は目を閉じた――。
月の輝く夜だった。
一人の下女が、後宮を流れる川のほとりに立っていた。
白梅という名のその下女は、故郷に伝わる童謡を歌っている。
懐かしき歌を聞かせる相手は、この世にはすでにない。
白梅の姉の杏華は、皇帝の寵妃である清貴人として、この川に沈んで命を落とした。
杏華は皇帝の目にとまるはずのない、洗衣局の女官だった。
ふっくらと丸い顔と身体をした、よく笑う、やさしい女だった。
杏華は両親が亡くなると、白梅を養うため女官となった。己もまだ幼いというのに、自らを売って後宮に上がったのだ。
杏華からの手紙には、いつも『早く年季があけてほしいわ。白梅と一緒に暮らすのがなによりの楽しみなの』と書いてあった。
杏華は皇帝からの寵愛など、欲してはいなかったはずだ。
白梅の頬を一筋の涙が伝い、童謡を歌う声がかすれた。
白梅は川に沿って、上流へとゆっくり歩いていった。
川の上流から、蓮の花を模した灯籠が流れてきた。
淡い桃色の光を放つ、天に捧げる美しい花――。
誰かが死者を悼んで流したのだ。
驚きながら灯籠を見つめていた白梅の耳に、笛の音が聞こえてきた。
白梅は歌うのを止め、立ち止まった。
洗衣局の水汲み役の下女が、こんな時間に出歩いている姿を見られるわけにはいかない。
白梅は杏華を殺した犯人を見つけるまでは、後宮を追い出されたり、罰せられて死んだりするわけにはいかなかった。
身を隠さなければと思うのに、なぜか白梅の身体は動かなかった。
「杏華……? そこにいるのは杏華か……?」
笛の音が止み、若い男が姉を呼ぶ声がした。
白梅は小さく息を飲んだ。
男は妃嬪の名を呼び捨てにした。
杏華は貴人という妃嬪の位を持ち、寵愛の深さゆえに『清』という封号を皇帝より授けられた。
もう誰も、清貴人を杏華などと呼ぶことはできなかった。
この品王朝の第五代皇帝、品永寧、その尊き方以外は――。
その男は金糸で龍が刺繍された衣を着てはいなかった。だが、洗衣局で働く白梅は知っていた。その男が纏っている、金糸の織り込まれた錦の白衣が、皇帝が部屋着として愛用しているものであることを。
「戻って来て……、くれたのか……?」
白梅はひざまずくことも忘れて永寧を見つめた。
月光に照らされた長身で精悍な美丈夫は、玉でできた高価な笛を胸の前で握りしめ、涙を流しながら白梅を見ていた。
民たちは永寧について、武芸に秀でていながら、政にも長け、眉目秀麗だと噂していた。この男は、その噂通りの人物なのだろう。
白梅に向かって歩いてくる永寧の後ろに、三人の人影が見えた。おそらく護衛の者たちだ。
ここで杏華のふりをして、「はい」と答えたならば、どうなるだろう。皇帝を欺いた罪に問われるだろうか……。それとも、清貴人として暮らすこととなり、杏華を殺した犯人により近づけるだろうか……。
白梅が返答に迷っているうちに、永寧は白梅のそばまで来ていた。笛は懐にでもしまったのだろう。もう永寧の手の中にはなかった。
「白梅……? まさか、白梅なのか……?」
永寧に名を呼ばれ、白梅は慌ててひざまずいた。
この男は、杏華の気持ちを無視して手を出し、妃嬪にして、故郷に帰れないようにしてしまった暴虐なる皇帝のはずだ。……それなのに、永寧はひざまずく白梅の腕を引いて抱き寄せて、宝物のように髪や背中をなでてくる。
「ここに……、ここにおったのか……。探していたのだぞ……」
永寧がなぜ、洗衣局の水汲み役の下女など、こんな時間に探しているのだろうか……。いや……、清貴人である杏華の妹を探していたとでもいうのだろうか……。
「杏華の文が届いたから来たのか?」
「はい……」
杏華からは、たしかに文が来た。
『妃嬪に取り立てられたから、これでもう一生、お金の心配はいらなくなったわ。白梅、後宮に来て、わたくしの侍女になってちょうだい。いずれ良い時期が来たら、妃嬪の侍女として、立派な家に嫁がせるわ』
故郷には、杏華が好いていた、幼馴染の男だっていたというのに……。
(姉さんは、お金のために後宮に入り、お金のために皇帝の妃嬪になってしまった……)
幼馴染の男は杏華が妃嬪になったと知ると、すぐに隣村の娘を娶った。妻を迎えてからは、男は白梅と目も合わせてくれなくなった。
永寧が杏華のなにもかもを台無しにしたのだ。
「一人で来たのか? さぞ苦労したであろう? 今はどこでなにをしている?」
「故郷より一人で出てまいりました。今は洗衣局で水汲み役の下女をしております」
白梅は問われるままに答えた。
本当は杏華のように女官になりたかったが、女官の採用を待つよりも、下女として入り込んだ方が手っ取り早かった。一日でも早く後宮に入り、杏華を殺した者を探したかったのだ。
「そうであったか……」
永寧は白梅と共に立ち上がった。月光が永寧の秀麗なる顔を照らしていた。
白梅は永寧の顔に見惚れた。杏華もこの顔を、こうして間近で見たのだろう。そして、煌びやかな妃嬪となり、故郷では見たこともないような顔の男のそばで、栄華を極めることにしたのだろうか……。
永寧は白梅を抱きあげると、背後にいる護衛たちへと向き直った。
「今宵はこの者と過ごす」
護衛の一人が「はっ」と短く答えて、走り去っていった。
(なにを言っているの……?)
もう夜も更けた。これから花びらを浮かべた風呂に入れというのだろうか。髪を艶が出るまで梳かれ、美しく結われろと……。
皇帝を迎えるにふさわしい錦の衣を着せられて、寝台に座って待っていろとでもいうのだろうか……。
永寧はやはり暴君であったようで、白梅が『まさか、そんなはずはないだろう』と思っていた皇帝を迎える準備をすべてさせた。
白梅は、清貴人だった杏華が使っていた栄耀宮へと連れていかれ、姉が使っていた寝台に座って永寧を待つことになった。
「どうだ、皇帝らしいであろう? 杏華が見せたがっておったのだ。いかにも皇帝であろう?」
寝所に入ってきた永寧は、尊い色である朱の錦に、金糸で龍を描いた衣を着ていた。この朱禁城の由来にもなった、朱衣である。
永寧は白梅の前でくるりと回って、得意げに腕を広げてみせてから、なにかを思い出したように沈んだ顔をした。
「杏華がおったら、白梅がここに来たことを、どんなに喜んだことか……」
困惑している白梅をよそに、永寧は部屋の隅に行き、薄緑色の玉でできた箱のようなものを白梅の前に持ってきた。白い玉と黒い玉が、箱の上に並べられていた。
「杏華が碁を覚えてくれたので、一緒にやってみていた。対局の途中だったのだ……」
他の者たちが打っている途中の碁盤を見せられても、白梅はどうしたらいいのかわからなかった。杏華の代わりに、碁の相手をしたら良いのだろうか……。
「石は宦官に言いつけて、盤面に固定させた。杏華のいた頃のまま、変わらぬように……」
永寧はため息をついた。憂う表情からは、物凄い色香が漂っていた。
永寧の生母は、先帝の寵愛を一身に受け、貴妃にまで上り詰めた。
永寧の持つこの色香は艶貴妃、いや、今は艶太貴妃である方から受け継いだものだろう。
「杏華のいた頃は、一緒に矢投げもよくやったのだ」
永寧はまた部屋の隅に行き、鉄製の花瓶のようなものと短い矢を持ってきた。白梅は弓がないことに困惑した。矢とは、弓を使って飛ばす武器のはずだ。
「もしや、白梅は矢投げを知らぬのか?」
永寧は床に鉄の花瓶を置き、少し離れた場所から矢を投げた。矢は吸い込まれるように花瓶に入り、からん、と音を立てた。
矢投げは、子供の遊びであるように見えた。立派な体躯をした永寧が、まるで子供のように杏華と遊んでいたと言う。
(ああ、そういうことなのね……)
白梅はこれだけのことで、永寧と杏華の関係を理解した。
杏華が故郷で好いていた幼馴染の男も、少し頼りないところが妙に魅力的だった。
永寧はその男とは比べ物にならないほどに、激しく母性をくすぐる『愛い男』。まさに杏華の好みの男だ。
白梅には、杏華が「あらまあ」などと言って笑いながら、永寧と一緒に遊んでいる姿が目に浮かぶようだった。
「ああ、すまぬ……。大人の男がこのような……。母上からは、『狂っているのか』とよく叱られる……」
永寧は矢をぎゅっと握りしめ、辛そうな顔をした。その姿は、皇太后の産んだ二人の兄を殺して皇帝の座についた、残忍で強欲な男のものとは、まったく思えなかった。
「とんでもございません」
白梅は寝台を下りて、永寧の足元にひざまずいた。
「余は……、幼少の頃、他の皇子や皇女らのしておったような遊びや、外を駆けまわるということをしなかった。勉学に武芸、礼儀作法……。いずれ二人の兄たちを押しのけ、皇帝となれるよう、学ぶことしかしてこなかった……。それゆえ……」
永寧は自ら、矢と鉄の花瓶を部屋の隅に戻した。おそらく、杏華がいた頃には、二人で道具を準備し、遊び、片付けていたのだろう。
「白梅が来てくれたら、三人で目隠し鬼をしてみたかったのだ。あれは特に楽しそうであった。だが……、余はこんなにも育ってしまった。今になって、女官や宦官を相手に目隠し鬼などしたならば、暗愚な皇帝と思われるであろう……」
ひどく沈んだ声だった。『武勇にも優れた賢帝』が、妓楼で酔った男が妓女と戯れる時にする遊びなど、できないのだろう。
永寧ははっとしたように、足元でひざまずいている白梅を見た。
「すまぬ! 本当にすまぬ!」
永寧は白梅の腕をとり、立ち上がらせた。白梅は「恐れ多いことでございます」と顔を伏せた。
「いきなり余の話ばかり……。杏華から『いけませんよ。びっくりさせてしまいます』と言われてしまうな」
白梅は『びっくり』どころか、『引かれる』だろうと思ったが、あまりにも不敬なので口には出さなかった。
永寧は白梅をいきなり抱きしめた。ここは寝所だ。そういうことをする場所――。
「会いたかったぞ!」
永寧とは初対面だ。なのに、このまるで再会したかのような言葉はなんなのだ。
そんなにも杏華は、白梅の話を永寧にしていたというのだろうか。
「杏華の妹ならば、余の妹も同然だ。余のことは、永と気楽に呼んでほしい」
「永……様……」
「杏華は永と呼んでくれたが……」
白梅も、最終的には永と呼び捨てすることになるだろうと思った。当然ながら、二人きりの時のみだが……。
元女官だった杏華ですら、様付けを止めたのだ。永寧はずっとこんな調子なのだろう。
「もう休むか。白梅も疲れたであろう。積もる話もあるであろうが、それは明日にするとしよう」
初対面なのに、積もる話があるなどと、どうして思うのだろうか……。
己の速度で生きているらしい永寧は、寝台に寝転ぶと、白梅を抱えてすぐに寝息を立て始めた。
翌日には、白梅は勅命によって栄耀宮を賜り、寧嬪と呼ばれるようになった。
位が杏華の賜った貴人より一つ上の、嬪なのはまだ良いとして……。
皇帝である品永寧の『寧』の字が、封号として下賜された。
「これで白梅を殺せる者はいなくなった。余が寧の字を与えた白梅を殺すことは、余を殺すことだからな」
と言って、永寧は満足げに笑っていた。
皇帝が妃嬪に自分の文字を与えるなど、品王朝では前例のないのこと。
後宮では、皇帝の名前に使われている文字は使われない。永や寧の入った名前だった妃嬪は、改名しているくらいの徹底ぶり。
皇帝により特別に許されていなければ、皇帝の尊き名は、妃嬪ですら呼んではならないことになっている特別なものである。
永寧はこのような慣習を全て無視し、臣下たちの反対を押し切って、白梅に『寧』の字を下賜した。
永寧は白梅のために、とんだ暴君ぶりを発揮していた。
白梅は皇后に初めての挨拶をするため、皇后の謁見室でひざまずいていた。
豪華絢爛たる部屋には、皇后の他に、三人の妃、四人の嬪がいた。
「寧嬪……。寧嬪だったな。元は洗衣局の下女、白梅だったか。いきなりの嬪とはまた、寵愛が深いようだのう……」
皇后の困惑したような声が降ってくる。
なにに困惑しているのだろう。下女がいきなり嬪になったことか、『寧』を賜ったことか、それとも……。
白梅は杏華とよく似ていた。杏華の方がふっくらと丸かったが、杏華が亡くなって数か月が経っている。杏華が痩せていたとしても、不思議ではないだろう。
「ありがたいことでございます」
白梅は杏華の口調を真似て答えた。杏華のあの、おっとりとした、やさしい声音が、永寧の心を捕らえたのだろう。
「立つがよい。いつまでも『寧』を賜った者をひざまずかせておけぬ」
皇后も大変だろう。白梅をどう扱えばよいのか、決めかねているようだった。
「席はこちらへ! ほら、ずれるのよ!」
皇后に一番近いところに座っていた麗妃が、他の妃嬪たちに席を移るよう命じた。妃嬪たちは慌てて、それぞれ隣の席に座り直した。
(めちゃくちゃすぎだわ……)
白梅は己の命を的として、杏華を殺した犯人を探すつもりでいた。だが、その作戦は、永寧によって完全に封じられたかのように見えた。
あの皇帝ときたら、『大好きな杏華の妹』と会えて浮かれて、余計なことをしてくれたものだ。
「あ……」
白梅は立ち上がろうとして、わざとよろけた。
皇后や妃嬪たちが、ぎょっとしたように白梅を見た。
徳嬪が、慌てて駆け寄り白梅を支えた。徳嬪は位が嬪であるのに、妃という一つ上の位を賜った者たちを押しのけて、麗妃の隣に座っていた。
「申し訳ございません……」
白梅はひどく疲れている風を装い、小さく息を吐いた。
徳嬪は麗妃の示していた席に白梅を座らせた。
麗妃と徳嬪のことならば、杏華の手紙に書かれていた。二人とも女官上がりで、同じく女官上がりの杏華に、とても親切にしてくれていたらしい。
杏華の手紙では、二人は麗嬪と徳貴人で、今より一つずつ位が低かったが……。
「少し……体調が……」
皇后や妃嬪たちの雰囲気が硬くなった。
白梅が疲れている理由など、皇后や妃嬪たちは一つしか思いつかないだろう。
――皇帝の寵愛を受けたから。
実際は永寧に抱えられて眠っただけだが、そんなことは皇后や妃嬪たちにはわからない。
「ああ、急なことだった故、まだ侍女も決まっておらなんだな。早急に誰かつけねばなるまい」
皇后は話を変えたかったのだろう。自分のそばに控えている侍女の一人に、なにか指示を出した。侍女が謁見室を出ていく。白梅の栄耀宮に侍女や宦官を置くため、内侍局に手配を頼みに行くのだろう。
白梅はこの不手際の意味を理解していた。皇后としては、いきなり下女から嬪になった白梅に対して、『皇帝の寵愛さえあれば、なんでも思い通りになるなどと思うな』と教えようとしていたのだろう。
「お気になさらず……」
白梅は慎ましく答えた。どのような受け答えをすれば良いのかは知っていた。
「ただ……、病み上がり故、陛下にお渡りは控えていただけるよう、皇后陛下からお願いしていただけたらと……」
皇后と妃嬪たちが、「ヒッ」と小さく悲鳴を上げた。
杏華が痩せたような女が、『病み上がり』などと言い出したのだ。
皇后と妃嬪たちは、まるで幽霊でも見ているような顔をした。
「そう……だのう……。体調は……考慮してもらわねばな……。もう戻ってよいぞ……」
震える声で同意した皇后は、白梅を追い払うように手をふり、そのままぴたりと動かしていた手を止めた。『寧』の文字の力は絶大だ。
白梅はゆっくりと歩いて謁見室を出た。皇后の住まいである吉祥宮から、栄耀宮はそれほど遠くない。どちらの宮も、永寧の住まう安泰宮に近いところにあるからだ。
皇后の吉祥宮が永寧の安泰宮に近いのは、皇后が正室という立場からすれば当然だった。皇后の居所は、初代皇帝の頃より吉祥宮と決まっている。
杏華が住み、今は白梅が住んでいる栄耀宮は、吉祥宮と同じくらい安泰宮に近い。第三代皇帝が、最も寵愛した妃嬪のために建てたものらしかった。
「清貴人様、清貴人様」
杏華を呼びながら、一人の女官が細い脇道から飛び出してきて、白梅の前にひざまずいた。
結った髪に一粒の真珠が飾られている。安泰宮の女官なのだろう。皇帝の居所に仕える特別な女官の証が、その真珠のかんざしだった。
「生きて……、生きておいでだったのですか……」
白梅よりほんの少しだけ年上に見える女官は、すすり泣き始めた。
「……雲月?」
杏華の手紙に書かれていた、洗衣局で杏華と同室だった女官の名を呼んでみた。たしか、両親に売られて女官となった娘だ。杏華は雲月を『後宮でできた、もう一人の妹』などと書いてきていた。
女官は泣きぬれた顔で白梅を見た。白梅はその表情から、自分の推測が正しかったことを知った。
「立ってちょうだい」
白梅は雲月の手をとって立たせた。
「なぜお一人で歩いておられるのですか……。不用心でございます……」
雲月は白梅の両手を強く握って、さらに涙をこぼした。
白梅は雲月の身体をそっと抱きしめた。
「池に落ちて、記憶を失って、ずっと離宮で養生していたのよ。陛下に言われるまま、白梅として後宮に戻ってみたら、栄耀宮は空っぽだったの……。どうしたのかしら?」
白梅は小声で雲月に教えた。雲月は杏華の親しい友だ。秘密を打ち明けることくらいするだろう。
「死んだことになっていたのよ!」
雲月は叫んでから、「あっ」と言いつつ、白梅を、そして、さらに白梅の後ろを見た。
「あらまあ、そうだったの」
白梅は杏華の口調を真似てから、おっとりと笑ってみせた。
向き直ると、先ほど謁見室にいた麗妃や徳嬪、他の妃嬪たちが、並んで白梅と雲月を見ていた。
白梅は雲月に付き添われ、ゆっくり歩いて栄耀宮に戻った。
雲月との会話は、他の妃嬪たちに聞かれていたのだろう。
白梅が杏華であるという噂が、後宮に広まった。
翌日には、もう永寧の耳にも届くほどに……。
「杏華のふりなどして、どういうつもりなのだ!? 白梅は杏華の後ばかり追いかけている、泣き虫娘ではなかったのか!?」
白梅のところに渡ってきた永寧は、人払いをすると、寝所で声を荒げた。
(その言葉の通りでしょう?)
今もなお、白梅の心は、泣きながら杏華を追い求め、この朱禁城まで白梅を連れてきた。
「政務が忙しく、余が自ら、栄耀宮に信頼する者を配置すると、皇后に伝える暇さえなかった……! ここの者たちの身元は確かなのか!? 白梅を殺そうとしたり、傷つけたりはせぬのであろうな!? 後宮は皇后の管理下にある。皇后が内侍局に命じたとあっては、もはや余に口出しできぬではないか!」
その時間がとれなかったのは、なにか政治的な問題が起きたからのようだった。いまだに残っている前王朝を復興しようとする勢力か、草原の部族が攻めてきたのか、永寧の兄弟が帝位を奪いに来たのか……。理由までは、白梅のいる栄耀宮には届かなかったが。
白梅にとっては、内侍局から宦官や女官が適当に連れてこられたのは、都合の良いことだった。犯人や犯人の手の者が、栄耀宮に紛れ込むのも楽だろう。白梅が犯人を探す手間が省けるというものだ。
「あらまあ」
杏華の口癖を真似てから、白梅はおっとりと笑ってみせた。
永寧は小さくため息をついた。
「白梅は『あらまあ』などとは言わぬ。知っておるのだぞ」
ひどく沈んだ声で言い、永寧は白梅の手を握った。まるであやすように、白梅の手をなでてくれる。
「杏華の真似などしてくれるな……。白梅は白梅であろう? 杏華は余が白梅に会ったら、すぐに妃嬪に取り立てようとするだろうと言っておった」
白梅は手を引こうとしたが、永寧はさらに強く白梅の手を握った。
永寧は一歩、白梅に近寄った。
永寧の切なげな吐息が、白梅の髪に落ちた。
「杏華はな、『白梅は後宮なんていう恐ろしいところはさっさと出て、良い家で良き夫に仕えて、一生のんびり暮らすのですよ』と、余に向かって口癖のように言っておった。あれほど『だめですよ』と言われておったのに……。こうして白梅を妃嬪にしてしまって、杏華も怒っておることだろうな……」
白梅はなにも言えなかった。たしかに後宮は恐ろしいところ。杏華も殺されてしまった。
白梅を後宮から嫁に出すことなど考えず、杏華自身が誰かそれこそ『良い家』の出で、『良き夫』となってくれる者に、下賜してもらうことを考えてほしかった。
永寧の様子からして、杏華が臣下に下賜されることは難しかっただろうが……。
「女官の雲月が、白梅に仕えたいと言ってきたが、どうする? 杏華に仕えておった者だ」
「永様のお心のままに……」
白梅は妃嬪の模範解答をした。この永寧をどう扱ったらよいのか、白梅にはまだわからなかった。
「白梅、よそよそしいではないか!」
「永様に一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
よそよそしいもなにも、ほぼ初対面だと思いながら、白梅は永寧を見上げた。永寧は頬を染めて、白梅から顔をそむけた。
「なんでも聞くがよい」
「わたくしめは、かつて永様と、どちらかでお会いしたことがありましたでしょうか……?」
白梅が覚えていないだけで、どこかで会っているのかもしれない。これだけやたらと親しげにしてくるのだ。かつて故郷で会っていると言われても不思議ではなかった。
「会ったことなどない。余はこの朱禁城で育ち、白梅は故郷にいたではないか」
では、なぜこんなにも、白梅と親しいようにふるまい、距離を詰めてくるのだろう。白梅から見ると、永寧はまったく知らない相手でしかなかった。
「余はずっと会いたかったのだぞ。杏華から白梅の話をたくさん聞かせてもらった。白梅は勇気と行動力ある非凡な娘である。白梅の話は、いつも余を笑顔にしてくれた。白梅、そなたはこの後宮の誰よりも愛らしい」
白梅は顔を引きつらせた。それは愛らしいだろう……。杏華の知っている白梅は幼女なのだ。
姉の真っ赤な下着の腰巻を頭からかぶって、花嫁ごっこと称して、近所を練り歩いたのだ。
いきなり大将軍を目指し、故郷に女官を探しに来た官吏の前で、棒切れを振り回してみせて、自分を軍隊に入れるよう迫ったのだ。
出家して道士になりキョンシーを倒すため、武神廟に自分の服や鍋を持ち込み、「キエー!」などと叫びながら修行に励んでいたのだ。
白梅は恥ずかしくて死にそうだった。この三つの話は、杏華のお気に入りだった。杏華は絶対に、永寧に語ったはずだ。
「あの白梅だ。余が皇帝である程度のことなど、少しも気にせぬであろう?」
たしかに幼女の頃ならば、気にしなかっただろう。永寧がどういう存在か、よくわからなかったのだから……。
(姉さん、なんてことしてくれたのよ……!)
うつむいて頬を染める白梅を、永寧はそっと抱きしめて、やさしく背中をなでてくれた。
この二人の寄り添う姿は、紙張りの窓を通し、芸人の見せる恋愛影絵の結末のように、睦まじい皇帝と妃の姿を描き出していた。
その翌日には、麗妃と徳嬪が栄耀宮にやって来た。
白梅が記憶を失って碁の打ち方を忘れたと言うと、二人は宦官に碁盤を運んでこさせて、白梅に碁を教え始めた。
「皇帝陛下は娯楽を好まれるのよ! 碁の打ち方まで忘れるなんて! つまらない女だと思われたら大変よ!」
「後宮は寵愛こそ力なの! わたくしたち女官上がりには、他の妃嬪のような後ろ盾がないでしょう? 陛下を退屈させてはいけないの! とにかく寵愛! これしかないのよ!」
二人は『箱のようなものが碁盤で、白と黒の玉は碁石と呼ぶ』という、基本中の基本から教えてくれた。
本当は碁の打てる白梅が申し訳なく思うほど、二人の教え方は丁寧だった。
二人は豊穣宮で共に暮らしているらしかった。
「いつでも遊びに来るのよ!」
「困った時は、すぐに言ってちょうだいね!」
と言い残し、二人は仲良く帰っていった。
さらに翌日には、麗妃と徳嬪は、自分たちの持っている服やかんざしで、白梅に似合うものを持ってきた。
ああでもない、こうでもないと、二人で相談しながら、必死の形相で白梅を着飾らせた。
「雲月もしっかりするのよ! 主が寵愛を失えば、雲月も他の宮の女官にいじめられるんだからね!」
麗妃が怒鳴ると、雲月は震えて、玉でできたかんざしを落として割ってしまった。
雲月はその場でひざまずいて許しを乞い、麗妃は徳嬪から「女官を脅かしたらいけないって言ったでしょ!」とひどく怒られていた。
「玉のかんざしなんて、すぐ壊れる物よ」
「皇帝陛下からもらった物でもないんだし、こんな物はまた買えばいいのよ」
麗妃と徳嬪は雲月に気にしないよう言っていたが、雲月はひどく落ち込んでいた。
栄耀宮には、日に日に物が増えていった。
麗妃と徳嬪が持ち込んだ、永寧の好みとされている香炉に香、甘い香りのする蝋燭、琴に書に画。
他の妃嬪たちからも、永寧の寵愛の深い白梅に取り入ろうと、装身具や壺、像や布などが贈られてきた。
ある夜などは、麗妃と徳嬪が手配した永寧の好きな月餅が、白梅が用意したものとして届けられたことまであった。
雲月は不安そうに、「麗妃様と徳嬪様には、どうかお気を付けくださいませ」と進言してきた。
白梅は雲月に「ありがとう」とほほ笑んでみせてから、妃嬪から贈られた玉のかんざしを一本、雲月の髪に挿した。
永寧は数日おきにしか白梅のところに来なかった。
他の妃嬪のところに行っているのではなく、なにか政治上の問題に忙殺されているようだった。
『毎日でも会いたいと思っている』
などと書かれた文が、何通も白梅に届けられた。
麗妃と徳嬪がいる時にも文は届けられ、二人は興奮気味に「恋文よ!」だの「熱烈だわ!」だのと叫んでいた。
永寧が忙殺されている理由は、麗妃と徳嬪により伝えられた。
白梅が昼食を終え、娯楽武芸小説の傑作である『王国』を読んでいると、麗妃と徳嬪が大騒ぎしながらやって来たのだ。
「草原から嫁いできた蒼妃が殺されていたのよ! 大問題だわ!」
麗妃は興奮を隠すことなく叫んだ。
「蒼妃は大部族長の孫なの。皇帝陛下は、草原では朱禁城より空が広く見えると聞いて、蒼の字を下賜されたそうよ」
徳嬪は、蒼妃について教えてくれた。封号の意味まで教えてくれたのは、寵愛故に封号を下賜されたわけではないと教えてくれているのだろう。
「蒼妃は朱禁城と草原の友好関係を保つために嫁いできたのに! 政治的な理由で嫁いできておいて殺されるとか、蒼妃も、まわりの者も、なにをやっているのよ!?」
麗妃は叫んでから、「あっ!」と口元を押さえた。
「麗妃に悪気はないの。許してちょうだい。麗妃は、元は執務中の皇帝陛下にお茶を淹れる役の女官の補佐役だったでしょう? 政治的なことを知ることのできる立場だったから、いろいろ思うこともあるのよ」
徳嬪が麗妃について説明してくれた。お茶淹れ女官は、有力な貴族の娘が、皇帝のお目にとまるために就く役職だった。その補佐役だったということは、麗妃はどこかの有力な貴族の侍女だったのかもしれない。
「本当に大変なことなのよ! 寧嬪みたいに、どこかで生きていてくれたら良いのだけれど……」
蒼妃がどこかでこっそり生きているなどということは、決して起きないと、白梅は知っていた。清貴人である杏華も、本当は生きていないのだ。
「蒼妃は自分の血を床に擦りつけて、文字を残していたの。『なにか伝えたかったんじゃないか』と噂になっているのだけれど、誰にも意味がわからないのよ」
「あらまあ……。普通でしたら、犯人の名前が書かれているところですわよね」
白梅は杏華のようにおっとりと言い、困ったように笑ってみせた。
「草原で使われている文字なのかしらね? 草原から連れてきた蒼妃の侍女や宦官も、意味がわからないと言っているらしいけれど、本当かしら? 誰かを庇っているのかもしれないじゃない?」
「どのようなものが床に残されていたのですか?」
白梅が問うと、徳嬪は雲月に紙や筆を用意させ、書いて見せてくれた。
一
口
二
一
古
「蒼妃も、一口一二古なんて書くのではなくて、意味のわかるように書いてくれたらいいのに!」
「そうですけれど……。これがもし、犯人の名前をそのまま書いたのでしたら、犯人に消されてしまうかもしれませんわ」
「そうかもしれないけれど……! 誰にも意味がわからなかったら、それこそ意味がないじゃないの!」
白梅は麗妃の率直な人柄を好ましく思った。
麗妃は、後宮でも一、二を争う美しさを誇っている。だが、麗妃が妃嬪となれたのは、その美しさよりも、このまっすぐな人柄のせいなのではないか、と白梅は思った。
「一口二一までは、小さめに書かれていたみたいなのよ。それに、口の右の縦棒が、少しかすれているのですって。品朝文字だとすると、名前ではないわね。五文字もあるのですもの」
「やっぱり草原の文字なのかしら? 誰の名前なのかしらね? 気になるわ」
麗妃と徳嬪は、ああでもない、こうでもない、と言いながら、二人で推理を始めた。
白梅は草原の言葉がわかる。読み書きもできるし、会話もできる。
白梅は杏華が後宮に上がった後は、尼寺の世話になっていた。
白梅が武神廟で『修行』に励んでいる時にお参りに来た、武神の熱烈な信者である尼たちの寺だった。
尼たちは、両親を亡くした白梅と、姉の杏華の苦境を知り、二人に会いに来てくれたのだった。
妹を養いたいという杏華の願いを聞き、女官となれるよう手を尽くしてくれたのも、この尼寺にいた元女官だった。
尼たちは「こんなに小さいのに、武神様からあふれ出る魅力がわかるとは、実に見どころがある娘だ! 世話は任せよ!」などと杏華に言って、白梅を引き取ってくれた。
その尼寺は武神の信者たちの間では有名で、元は後宮で妃嬪だった者から、裕福な商家の娘、江湖と呼ばれるやくざな世界で生きてきた女傑など、いろいろな女たちが集まっていた。
草原の出身者も何人かいて、白梅はその者たちから、草原の言葉を教えてもらったのだった。
「蒼妃のところには、草原からついてきた宦官が一人と、侍女が一人、乳母が一人、他は内侍局が配置した宦官と侍女がいたのよね」
「蒼妃は部屋が荒らされていた上に、めった刺しにされていたらしいわ。草原からわざわざついてきた忠義者たちが、そんなことをするかしら?」
麗妃と徳嬪は、残されていた文字の意味を読み解けず、犯人も特定できないまま、豊穣宮に帰っていった。
白梅は珍しく筆をとると、永寧に宛てて『文、嬉しく拝見しております』と書き、雲月に政殿宮に届けるよう命じた。
雲月が栄耀宮を出たことを確認すると、白梅は寝台の裏に手を突っ込んだ。隠しておいた下女だった頃の衣を出し、身にまとう。金色に輝く鏡の前に座り、頬に綿を詰め、右目の下に痣を描き、ほくろを書き足す。
花嫁ごっこをして近所を練り歩いた白梅は、故郷では一番大きな妓楼の妓女たちに、「無邪気でかわいい」と気に入られた。
家族を養うために妓女となった者たちは、白梅の楽しげな姿の中に、己の弟妹を見たのだろう。
妓女たちは幼い白梅に、たびたびお菓子や装身具などをくれた。さらに、変装術まで教えてくれるようになった。それは、その妓楼の妓女たち秘伝の技だった。
美人や不細工、年寄りに見せる化粧術から、老婆のような歩き方をする方法や、男のふりをするために肩幅を広く見せる方法まで――。
なぜ白梅の故郷のような僻地にいる妓女たちが、そんな技を身につけているのかは、誰も教えてくれなかった。だが、幼いながらも白梅は、この妓楼が、どうやら裏の仕事を担う女たちの養成所であるようだと察していた。
妓楼の女店主と旅立つ妓女たちが、涙ながらに抱き合って、『立派に間者として勤めてきます』や『刺客としてしっかりやります』などと別れの挨拶をしていたのだ。それは幼い白梅だって、いくらなんでも気づくだろう。
あんな不用心で、みんなはちゃんとやれているのだろうかと、白梅は心配でならなかった。
白梅は自分の履物の片方に、丸い小石を入れた。片足が悪いように見せるための細工だった。
身支度を終えた白梅は、自分の糞尿が入った壺を抱えた。
尼寺にいた老いた元女官から、下女の格好をして糞尿の壺を抱えて歩いていれば、誰も寄ってこないという話を聞いたことがあったのだ。
白梅はこっそり栄耀宮を出ると、蒼妃が住んでいた芳墨宮に向かった。
数人の妃嬪と侍女や、宦官や女官らとすれ違ったが、誰もが『糞尿の壺を抱えた下女』からは距離をとった。
いかにも気の利かなそうな下女が、糞尿の壺を抱え、お仕置き後のような姿で、よたよたと歩いているのだ。近寄っていって、うっかり転ばれたら臭くてかなわない。誰も近寄らなくて当然である。
妃嬪とすれ違う時には、下女は壁の方を向いていなければならない。まさか『皇帝の寵愛深い寧嬪』が、糞尿の壺を抱えて壁に向かって立っているとは、誰も思わなかっただろう。
白梅が芳墨宮に到着すると、宦官が二人、門の左右に立っていた。槍を持たされているので、おそらく武芸ができる者たちなのだろう。
「あのぅ……、この壺を、こちらに届けるよう、言われたんだけども……」
白梅は宦官に寄っていき、いかにも訛りを直そうとしている風な口調で話しかけた。
「よっ、寄るなっ!」
宦官は服の袖で口元を隠した。白梅の身なりと、糞尿の壺を見ただけで、臭うような気がするのだろう。
(乾燥させた薫衣草と薄荷の葉を混ぜてあるから、そこまでひどく臭うはずないんだけどね)
白梅は宦官から少し離れた場所に立ち、申し訳なさそうにうつむいてみせた。
「豊穣宮にこちらを届けるよう、言われて来たんだけども……」
白梅は糞尿の壺を二人の宦官に向かって突き出した。
「豊穣宮!? ここは芳墨宮だ!」
「別なところ……?」
白梅はよくわからないという表情をした。
「豊穣宮というと、あの『寧嬪に取り入っている妃嬪』のいる宮か」
「とんだ勘違いをしてくれたものだ……」
宦官たちは困り切った表情で、顔を見合わせた。
「女官様から妃嬪様になったお方たちだと聞いたもんだから……。こんなもの持って行かれねえ……」
二人の宦官は、今度は糞尿の壺と白梅を見比べた。
白梅は、しくしくと泣き出してみせた。
「お貴族様の出とは違って、立派な後ろ盾もねえのに……。お二人でご苦労されてるそうで……」
「そうなのだ。知っているか? 寧嬪様も女官上がりで、一度は殺されかけている」
「あのお方も大変だ。後ろ盾がないばかりに、妹として下女からやり直しさせられたそうだ」
宦官たちは仲間を心配する口調で、白梅にいろいろと教えてくれた。新入りの下女だと思ってくれたようだ。
「とても持ってなんて行かれねえと言ったら、しこたま叩かれちまって……」
「それはそうなるだろう……!」
「愚かな……!」
宦官たちは、白梅に主の名を聞かない。知りたくないのだろう。
知ってしまったら、『どなたの宮の者か知らなかった』という言い逃れが使えなくなってしまう。
人の好さそうな宦官二人だ。このまま白梅を通したら、重い罪に問われることになるかもしれない。
白梅は周囲に人の気配がないことを確かめると、糞尿の壺を足元に置いた。身を縮めたまま、二人に近寄っていく。
「壺が重くてならねえ……」
白梅は両方の手首を交互に握って、痛みに耐えるように背を丸めた。
宦官たちもまた、心配そうに白梅に寄ってきた。
顔を上げた白梅は、素早く二人の背後に回ると、二人の首筋に手刀を叩きこんだ。
白梅が大将軍を目指し、棒切れを振り回して見せた官吏は、品王朝が誇る娯楽武芸小説『王国』を愛読していた。
『王国』は、奴隷だった李少年が、『大将軍になる』という亡き友と交わした約束を胸に、戦場で数々の手柄を立て、のし上がっていく物語だ。
幼い白梅は、当時は文字など読めず、李少年のことなどまったく知らなかった。だが、官吏は、大将軍を目指す白梅が、誰かに『王国』を読み聞かせてもらったのだと思った。
「私は愚か故に文字など知らなかった! だが、聞け、小娘よ! 私も『王国』を読み聞かせてもらい、『王国』を自分で読むために文字を覚えた! 今ではこうして官吏となれているのも、すべて『王国』のおかげだ!」
官吏はいきなり幼い白梅の手を握り、このように自分について語った。
李少年を心から尊敬している官吏は、幼い白梅が棒切れを振り回す姿に、『王国』の物語を貫く熱き魂を見たらしかった。
「『王国』すごいですね」
幼い白梅は、官吏にいろいろ語られても、とにかく『王国』がすごいということしかわからなかった。
官吏は白梅のこの言葉を聞き、感動の涙を流しながら、白梅の武芸の師を用意することを誓ってくれた。
官吏はわざわざ白梅の故郷へと配置換えをしてもらい、自ら白梅に武芸を教えつつ、各地から『王国』の愛読者たちを呼び寄せた。
自らも李少年を目指し、各地で様々な武芸や兵法を極めていた愛読者たちは、幼い白梅の夢を叶えるため、持てるすべてを伝授してくれた。
その成果が今、こうして二人の宦官を気絶させていた。
妓楼で知った暗殺術を使っていたならば、当然ながら、二人は死んでいただろう。
妓楼では気絶させるなどという『生温い方法』は教わらなかった。『邪魔な者は誰でも殺す』が妓楼流。店主は力も立場も弱い女たちに、『情けをかけて逃がすなど、己を死に至らしめる行いだよ』と強く言い聞かせていた。
白梅は糞尿の壺を抱えなおすと、妃嬪たちが通る門の横にある小さな出入口から、芳墨宮へと入っていった。
しん、とした芳墨宮の中を歩き、妃嬪の居室を探す。新米の下女が、愚かにも道に迷っている風を装って。
白梅は蒼妃が亡くなった部屋を探し当て、床に残された文字の実物を見た。懐から紙と筆を出し、床に残された文字を写し取る。
紙をじっと見つめた白梅は、小さく息を吐いた。
「思っていた通りだわ……。これは草原の文字ではないわね」
つぶやくと、紙と筆を懐にしまった。
白梅は再び糞尿の壺を抱えると、芳墨宮を出た。
二人の宦官を起こした白梅は、二人から「自分たちは、ずっと真面目にここで番をしていた」という言葉を引き出すと、栄耀宮へと戻っていった。
栄耀宮では、政殿宮から戻った雲月が、白梅の姿が見えないと騒いでいた。
白梅は下女の服をこっそり土に埋め、靴の小石を捨て、糞尿の壺も茂みに隠すと、下着姿で自分の居室に忍び込んだ。
化粧を直し、身なりを整えた白梅は、また居室を出て、庭から雲月のところに戻っていった。
「あらまあ、そんなに騒いでどうしたの?」
おっとりと笑ってみせると、雲月は「またいなくなったのかと……」と言って、泣き崩れた。
白梅は雲月を慰めてから、雲月が持ち帰った永寧からの返信を読んだ。
『寧嬪が喜んでくれるならば、文などいくらでも書き送ろう』
永寧の文字は軽やかで、なんだかとてもうれしそうに見えた。
白梅が送った文は、ただ雲月を遠ざけるために書いたもの。
白梅は申し訳なく思うと同時に、なぜか胸が苦しくなった。
『蒼妃が床に残した文字が見とうございます』
この文もまた、杏華を殺した犯人に近づくためのもの。
蒼妃を殺した者が、杏華を殺した犯人だという可能性もある。
(皇帝に会いたいから出すわけではないわ)
白梅の好みは、自分の窮地に現れて、颯爽と救ってくれるような、強くて逞しい男だ。
杏華好みの、なよなよした『愛い男』などではない。
「あの方はないわよ……」
つぶやいた言葉が、まるで自分に言い聞かせるような響きだったことに、白梅は気が付かなかった。
永寧は『寧嬪の望みとあらば、なんでも叶えよう』と返事を寄越した。
翌日の昼過ぎには、永寧は政務の合間を縫って白梅に会いに来た。
白梅は皇帝用の豪華絢爛たる輿に、永寧と並んで乗せられて、芳墨宮まで運ばれていった。
芳墨宮には、白梅の頼みを聞いた永寧によって、草原から蒼妃についてきた者たちが集められていた。
麗妃と徳嬪も、自分たちの輿に乗って、芳墨宮にやって来た。白梅と永寧が芳墨宮に行くことを、どこかで聞きつけたのだろう。
白梅は麗妃と徳嬪の二人と、蒼妃がどのような関係だったのか知らない。
(犯人は犯行現場に戻ると聞いたことがあるわ)
麗妃と徳嬪も、警戒するに越したことはなかった。
白梅は永寧に連れられて、蒼妃の居室に行った。二人の後ろから、麗妃と徳嬪や雲月、宦官や侍女たちがついてきた。
「永様」
居室に入る前、白梅は永寧に身を寄せた。
「なんであろうか?」
「わたくしめが、床の文字の謎を解きます故、永様は草原から来た者たちをよく見ておいてくださいませ」
「寧嬪の望みならば、余はなんでも叶えよう」
永寧は白梅に笑いかけ、白梅は頬を染めて、永寧から顔を背けた。
永寧の顔は美しく、衣越しに触れた身体は逞しかった。
そんな永寧の目が、自分を見つめる時にだけ宿る、熱を帯びた輝き――。
(こんなはずではなかったのだけれど……)
白梅は自分の心にもまた、予期していなかった熱が宿っているのを感じていた。
永寧に付き従ってきた宦官が、蒼妃の居室の扉を開けた。
永寧と白梅は部屋の奥にある豪華な椅子に座り、麗妃と徳嬪も、宦官が並べた丸椅子に座った。
草原から蒼妃についてきた者たちも、宦官たちに連れられて居室に入ってきた。
白梅は永寧に連れられて席を立ち、蒼妃が倒れていた場所を見に行った。
「皇帝陛下、わたくしめが、この謎を解き明かしてご覧に入れます」
白梅は永寧に向かってひざまずいた。少し芝居がかった言葉と動きは、いかにも謎解き役を任されている者に見えるはずだった。
「できるものならば、やって見せよ」
永寧は傲慢な口調で言い放った。いきなり小芝居が始まって、白梅は軽く戸惑った。
永寧は人が亡くなった場でふざけるような、不謹慎なことをするような性格はしていない。
きっと永寧は、白梅がなにか意味があって芝居を始めたと考えたのだろう。
「下女上がりが、謎を解くだと!」
「思い上がっておるわ!」
麗妃と徳嬪が、全力で永寧の小芝居に乗っかって、雰囲気を盛り上げてくる。このような知恵が回るからこそ、二人は女官から妃嬪へと大出世を果たしたのだろう。
白梅はちらりと草原から来た者たちを見た。白梅と永寧たちのやり取りを見て、少し警戒が解けているように見えた。
小芝居には軽く驚いたが、これはこれで良いだろう。
「紙と筆を持て」
雲月が白梅に、まず紙を渡した。白梅は床に書かれている一口二一古の文字に近寄った。
一
口
二
一
古
口の右のかすれている部分に沿わせて、紙を置く。
雲月が白梅に筆を渡し、墨入れの筒をさし出した。
(さて、どうしようかしらね)
永寧や麗妃と徳嬪が、白梅のために小芝居をしてくれているのだ。
こうなったら、それらしく進めていくしかない。
こうして悩んでみせるのも、緊張感が高まって良いだろう。
白梅は雲月に筆を返すと、永寧に向かって、再びひざまずいた。
「どうしたのだ? あれだけ大口を叩いておいて、まさか解けないとは申すまいな」
永寧の言葉は、実にそれらしいものだった。永寧は、この小芝居にもなにか意味があると考えているのだろう。
皇帝である永寧のこのような言葉は、白梅を危険に晒すことになる。永寧はそれがわからないような、暗愚な皇帝ではない。
白梅には、永寧が『白梅ならば謎を解ける』と信じてくれているからこそ、小芝居をしていられるのだということがわかっていた。
白梅の視界の端で、乳母が表情を緩めたように見えた。
「皇帝陛下……。わたくしめは、蒼妃様の心を汲みたいと思います」
「蒼妃の心、と申したか?」
「はい……」
白梅は永寧の前で、さらに身を低くしてみせた。いかにも身分の低い下女の出といった風情である。
「ちょっと、どういうことなの?」
「わからないわよ!」
麗妃と徳嬪は、本当にわからないようだった。
「申してみよ」
永寧の言葉に、白梅はうっすらとほほ笑んだ。
「――これは事故にございます」
白梅は厳かに言い放った。
「事故……だと……?」
「事故!?」
「事故ですって!?」
永寧と麗妃と徳嬪が、口々に訊き返してきた。
「はい。蒼妃がそう書き残しております」
白梅は雲月に命じて、先ほどの紙を近くの机に広げさせた。
事
故
紙に大きく事故と書き、右側を別な紙で隠してみせた。
口の右側の線が少しだけ見えるように調整する。
紙の上には、だいぶ歪な一口二一古が現れた。
「おそらく蒼妃様は犯人と争い、部屋には紙が散らばっていたのでしょう。めった刺しにされ、倒れて動けない蒼妃様は、床に紙が落ちていても、そのまま自らの血で文字を書くより他に、どうしようもなかったはずです」
「動けぬ以上、そうだったのであろうな……」
「はい。紙は事故ということにしたくない者が、どこかへ持ち去ったのでしょう。おそらく、もう処分されているかと……」
永寧はひざまずいていた白梅の手を取り、立ち上がらせてくれた。謎解きは終わったと判断したのだろう。
蒼妃の居室に、草原の言葉が響いた。
「(お前が殺したのか――!)」
白梅が声のした方に向き直ると、宦官が侍女の胸倉をつかんでいた。
「(妹のお前が、なぜ――!?)」
「(お姉様は皇帝の妃嬪になって贅沢して、その上、あなたにも宦官になって仕えてもらえるほど愛されてた! そんなのずるい! ずるいじゃないの!)」
侍女は「(私には、私には、なにもないのに――!)」と絶叫した。
「(黙れ、愚か者ども! あの小娘が死んだなら死んだで、品王朝のせいにできたというのに! 草原のことを考えよ!)」
乳母が宦官と侍女を引き離そうとして、突き飛ばされて転んだ。
永寧が連れてきた宦官たちが、草原から来た三人を拘束する。
「殺したのは侍女で、『事故』の右側の紙を捨てたのは乳母です。侍女は蒼妃様の妹です」
「姉を殺したとは……。なぜだ」
「姉は皇帝陛下の元での贅沢な暮らしも、宦官の真心も、すべてを持っていると思っていたようです」
永寧は黙り込んだ。蒼妃と妹の関係は、清貴人である杏華と、その妹の白梅の関係と同じである。
「蒼妃様にも、持っていないものならば、ありましたのに……」
「そうであるな……。蒼妃の方はあれほど刺されてなお、庇おうとするほどに、妹を大事に思っておったというのに……」
白梅と永寧の言葉が聞こえたのだろう。侍女は大きく目を見開き、その場で崩れ落ちて号泣した。
「……永様、わたくしは姉を殺しておりません」
小声で言った白梅が永寧を見上げると、永寧もまた小声で「知っている」と強く返し、うなずいた。
永寧は蒼妃に仕えていた三人に対し、草原に帰るよう命じた。
蒼妃の心を汲んでやさしい言葉で語られたそれは、実質的には追放刑だった。
三人は檻のついた牛車に乗せられて、草原へと旅立っていった。
蒼妃は大部族長の息子の養女にされ、永寧に嫁がされた娘だった。大部族長の弟の孫娘で、両親は大部族長に粛清されたらしい。
幼馴染は宦官となり、妹は侍女として、後宮に入った。
乳母ということになっていた女は、大部族長の命を受けて、蒼妃を監視するために後宮入りしたようだった。
三人が草原に戻ると、大部族長からはすぐに、侍女と乳母の首が送られてきた。
永寧は、白梅が蒼妃を殺した犯人を見つけた功に対する褒美として、白梅の位を妃へと上げようとした。
白梅はそれを拒み、『栄耀宮の中庭にある大木の枝に、大人の男でも使えるほど頑丈な鞦韆を作ってほしい』とねだった。
永寧は目隠し鬼すらしたことがなかったのだ。きっと鞦韆で遊んだこともないはずだ。
建物に囲まれた中庭ならば、外から覗かれることはないはずだ。永寧も鞦韆で遊ぶことができるだろう。
永寧の喜ぶ顔を想像すると、白梅の心は温かくなった。
その日も、永寧から白梅に『今夜も行かれぬ。寧嬪の笑顔が恋しい』という恋文まがいのものが届けられた。
栄耀宮に遊びに来ていた麗妃と徳嬪は、「今はお忙しいだけよ! またすぐお渡りいただけるわ!」だの「寵愛は深いわ、大丈夫よ!」だのと、ひとしきり白梅を励ましてから帰っていった。
「杏華姉さん、麗妃と徳嬪が、杏華姉さんのために夜空に天燈を飛ばしてくれるそうよ」
雲月は時間をかけて、杏華の友に戻ってくれていた。
年上の雲月から姉と呼ばれても、白梅は気にしなかった。
杏華に最も近かっただろう雲月が、白梅を痩せた杏華だと信じたのだ。他の者たちも信じていることだろう。
「まあ、天燈ですって!」
天燈とは、紙と竹で作った提灯に火を灯し、熱で空へと飛ばすものだ。草原では気球と呼ばれている。
麗妃と徳嬪は、永寧が渡ってこなくて寂しがっているはずの白梅のために、天燈で夜空を美しく彩ってくれるつもりなのだろう。
「こっそり出て来てほしいそうなの」
雲月は興奮しているようで、頬を染め、目を輝かせていた。
白梅は雲月も自分の衣で着飾らせ、二人だけで栄耀宮を抜け出した。
「楽しみだわ」
白梅は雲月におっとりと笑ってみせた。
雲月は白梅の腕に腕を絡めて、弾むように歩いていった。
「ここなの?」
白梅は、杏華が沈められた川のほとりに立っていた。
天燈を飛ばすにしても、この場所はない。
杏華が殺された場所なのだから……。
「ええ、そうよ」
雲月は白梅の腕を強く引き、白梅は雲月の手をふり払った。
「あらまあ」
どこか小ばかにしたように、雲月がひどく邪悪な笑みを浮かべた。
「あなた……、あなたが突き落としたのね」
「あらまあ、やっと思い出したの?」
雲月はくつくつと笑うと、白梅が下賜した玉のかんざしを髪から引き抜いた。
かんざしは、ばきり、と折られて、川に捨てられた。
「あたしのことも、こうして捨てようとしていたわね」
白梅の知る限りでは、杏華が雲月を捨てようとしたことなどなかった。杏華は雲月のことも、白梅と同じように妹だと思い、『良い家の良き夫』に嫁がせようとしていた。
「あたしに後宮に出入りする絹織物の店の息子に嫁げですって!? ばかにしないで!」
雲月も杏華や白梅と同じように、貧しい家の出だ。裕福な商家に嫁ぐなど、後宮で女官になっていなければ、望んだところで手の届かないもののはずだった。
「良い縁談だわ」
後宮など、たった一人の男を巡って、女同士が殺し合いまでするところ。そのような場所で妃嬪の一人となるよりも、都で成功している男の正妻となり、使用人らから『奥様』と呼ばれる暮らしの方がよほど幸せだろう。
「良い縁談ですって!? 自分が今では、皇帝陛下と相思相愛で幸せに暮らしているから、あたしが邪魔になったのよ!」
「そんなこと、思ったこともないわ!」
「両親はあたしを捨てたけど、杏華姉さんは、杏華姉さんだけは、ずっと一緒にいてくれるって言ったじゃない――!」
雲月は白梅に抱きつくようにして、川に飛び込んだ。
武芸もできる白梅には、当然ながら、雲月を避けることなど簡単だった。
だが、あえて、白梅は雲月のしたいようにさせた。
冷たい水に落ちると、雲月の腕は白梅から、するりと離れていった。
白梅は水を吸った衣の重みで沈みながら、水面の上にある夜空を、歪んだ月と星を、眺めていた。
(姉さん、犯人を突き止めて、相討ちだけど、仇はとったわ……)
水面が大きく揺れて、大きな影が近づいてきた。影は白梅を抱えると、力強く浮上していった。
白梅を地上へと戻したのは、永寧だった。
永寧は自ら川に飛び込んで白梅を助けただけでなく、白梅の背中を叩いて、水を吐かせることまでしてくれた。
「麗妃と徳嬪がおらねば、死んでおったのだぞ!」
永寧はずぶ濡れのまま、白梅を抱きしめた。
永寧の肩越しに見えた麗妃と徳嬪は、二人とも震えながら泣いていた。
「寧嬪……。寧嬪まで余を残し、死の国へと去ろうというのか……」
永寧もまた泣いていた。白梅が永寧の背中に腕をまわすと、永寧の唇が白梅の額に触れた。
「よくぞ清貴人を殺した者を見つけてくれた。褒美として、寧嬪を貴妃に封じる」
永寧は震える声で勅命を下した。
麗妃と徳嬪が「寧貴妃様、おめでとうございます」と、同じく震える声で祝福してくれた。
「ありがたき……幸せ……」
言いながら、白梅は意識が遠のいていくのを感じた。
永寧や麗妃と徳嬪が、自分の名を呼ぶ声を聞きながら、白梅は目を閉じた。
「陛下、こちらです!」
「こちら、こちらですよ!」
「あら、そちらは違いますわ!」
栄耀宮の白梅の居室に、白梅、麗妃、徳嬪の声が響く。
永寧は布で目隠しをして、三人の妃嬪を探し歩いていた。
白梅は歌うように永寧を呼び、麗妃は笑い、徳嬪は手を叩いた。
あの夜、永寧が来ないことを知っていた麗妃と徳嬪は、なにかに導かれるように、こっそり徒歩で栄耀宮に来ようとしていた。そして、白梅が雲月と共に栄耀宮を抜け出してきたのを見た。
麗妃がすぐに永寧の元に走り、徳嬪は白梅と雲月の跡をつけた。
徳嬪は白梅と雲月が川のほとりに着くと、お付きの侍女を永寧の元に向かわせ、永寧たちは迷うことなく白梅を助けに来られたのだった。
雲月はあのまま水底に沈み、翌日になって、杏華と同じように水面に浮いているところを発見された。
永寧の命により、雲月はあえて助けられることなく、翌日まで捨て置かれたのだった。
助けられたところで、雲月は死罪となるのみ。
皇帝の名から一字を貰った封号を持つ、寵愛深き妃嬪を殺そうとしたのだ。
反逆罪にも等しい行いである。
雲月は助けられたところで、楽に死なせてはもらえない。
雲月を杏華が沈んだのと同じ川で死なせたのは、杏華が妹のように思っていた者に対する、永寧の情けだったのだろう。
「誰も捕まらぬではないか!」
永寧は目隠ししていた布をとり、三人を睨みつけた。
「陛下ったら、まるで見当違いな方向にばかり行かれるんですもの」
「室内ですから、庭ほど広くはありませんのに」
「音のする方に来てくださいませ」
白梅と麗妃と徳嬪が口々に言うと、永寧は大きなため息をついた。
「子供の頃からやっておらぬと、目隠し鬼ですら難しいのであろうか……。どうやら、もう少し鍛錬が必要であるようだ……」
永寧は目隠しに使った布を袖口にしまった。今日はもう、目隠し鬼は終わりのようだった。
四人は部屋の隅に寄せていた家具などを、自分たちで元の位置に戻した。
外はもう暗くなりかけていた。
麗妃と徳嬪は、永寧と白梅に挨拶をして、豊穣宮へと帰っていった。
「実はな、一人、捕まえたと思ったのだ。だが、腕をつかんだと思った途端に、この手の内から消え失せた……」
永寧は己の右手のひらを見つめた。
きっと杏華が、こっそり目隠し鬼に加わっていたのだろう。
そして、誰も捕まえられそうもない永寧に、わざと捕まった。
やさしい杏華のやりそうなことだった。
「不思議なこともあるものでございますね」
「ああ、実に不思議である」
白梅と永寧は部屋を見まわしてから、侍女を呼び、杏華の好んだ香を焚かせた。
白梅は故郷に伝わる童謡を歌い、永寧は歌にあわせて笛を吹いた。
聞かせたい相手が、今もすぐそばにいると信じて――。