処女作
真っ暗な公園に火が灯った。一度灯った火はあっという間に炎に変わり、周辺は一気に明るくなる。良く見れば、その炎は複数人の背中から出ているのだ。そこから数メートル離れた場所に、白いテーブルと椅子がある。そこに座り、チョコレートがたっぷりかかったドーナッツを頬張る青年がいた。にこにこ顔に黒い燕尾服、白い兎の耳がついたシルクハットを被っている。
彼の名前はアルネブ。復讐の代行業だ。やり方にはこだわりがあり、標的の背中に火をつけ、こんがり焼けたところで船に乗せ、水中に落とすというやり方しかしない。今、彼の目の前で燃え盛っているのは、今日の標的だ。彼は、こうやって焼けて苦しむ人々を、踊っていると考えて大変に愛している。だから今、炎に照らされている彼の表情は、こんなに恍惚としているのだ。
「どうして……どうしてこんなことするの」
ちょうど今燃えている一人の少女が、泣きながら問いかけてくる。アルネブは、その言葉を聞き、自分の過去を思い返したのだった。
「あなたのせいで、私の人生は台なしよ」
アルネブは母に、そう言われながら育った。
母は驚くほどに美しい人だった。父は滅多に帰って来ない人だった。母が言うには、父は他の女の家に泊まっているとのこと。が、それは母の被害妄想であると、アルネブは思っていた。こんなに美しい女性を置いていなくなる男なんているだろうか。
それでも母は、頑なに「私はあなたのせいで父に愛されなくなった」とアルネブに繰り返した。アルネブは母が大好きだったから、心苦しい思いでいた。日々機嫌を取ったが、奏功しなかった。
小学校に上がったころ、母の過去を知った。バレリーナを目指していたが、大きな大会の直前にアルネブを妊娠し、その夢を諦めざるを得なくなったらしい。だから、アルネブもバレエを習い始めた。母への罪滅ぼしのつもりもあったが、母は大反対であり、やっと宥めてバレエ教室に通えるようになってからも、一度も練習を見てくれることもなければ、ますます家庭から会話が消えるばかりだった。母は自分がバレリーナになりたかったのだ。
それでもアルネブが教室を辞めなかったのは、まず、バレエという芸術の面白さに興味を持ったからだ。次に、今まで母の評価ばかり気にしていたが、発表会に向けて練習するという目標が出来、前向きな性格にもなった。そして、其処で出会った小毬という少女に、初恋をしたからである。
小毬は、同じバレエ教室に通う同学年の少女だった。鹿のような少女たちが多い中、小毬の顔は生まれたばかりの子狸のようで、頬もふっくらしていた。それがチュチュを履いた、そこから伸びる焼きたてのパンのように柔らかそうな足が、アルネブはたまらなく好きだった。
バレエの技術は小毬よりアルネブの方がずっと上だった。何せ小毬は、トウシューズが痛いなどといって、唇を尖らせては練習しないような子だった。
小毬もアルネブも、バレエ教室が同じだけでなく小学校も隣のクラスということが分かり、たびたび連れだって図書室へ行くようになった。アルネブは其処で初めて、幼児向けの物語の存在を知った。アルネブの母は、徹底して子供の存在を意識から消したいのか、子供が食いつく玩具や絵本などは一切家に置かなかった。世話もロクにしない中、食事と服だけは、外の人が見て不審がらないためか、大層な高級品を与えてくる。そんなところもアルネブにとってはいじらしかった。
「何だか、貴方って兎みたい」
そうアルネブの白い髪と真っ赤な目を指し、小毬は笑いながら、「かちかち山」や「不思議の国のアリス」を勧めてきたものだった。そんな笑顔を見ながらも、アルネブは、バレエをやっていない小毬は本当に魅力がないなぁと思うばかりだった。
アルネブはある時、自宅で段差を踏み外して怪我をした。まさか、その怪我が人生を決めてしまうなんて思わなかった。
腫れは日に日に酷くなったが、母が「これくらい問題ない」ということで医者には行けず、治りが遅くなり、そのせいでバレエの秋の発表会へは出られなくなった。
代わりに小毬が出ることが決まり、アルネブは観客として見に行くことに決まった。その日から、アルネブは当日が楽しみで寝不足に陥ることとなる。
さて、当日行ってみると、其処は大きなホールで、アルネブを感動させた。さっそく舞台袖へ皆に会いに行くと、酷く緊張した面持ちで座っていた。チュチュを着た姿に、アルネブは矢張りときめいた。芸術品の完成度を上げるために、と思い、アルネブは熱心に小毬を励ましたのだった。
その後、アルネブは観客席に向かった。まだ暗い観客席に静かに座り、小毬が踊る姿を想像するだけで興奮した。膝に手を載せて見ていると、一瞬、華麗に踊る小毬を見た気がした。ブルーブラックの光に満ちた部屋で、小毬だけがピアノの音に合わせて踊っているのだ――はっと目を開く。この頃の睡眠不足が祟って、うたた寝していたらしい。
目を開けた先に、紅蓮の世界があった。
何らかの原因でステージに炎が回っていたのだ。ステージに上がっていた小毬にも火が点き、観客席まで、その泣き声が聞こえてきていた。
「小毬さん……」
アルネブは、その様を口を開けて見守るしかなかった。
観客席は更に輪を掛けて大パニックだ。何せ此方にまで火の粉が舞っているのだから。何とか逃げ切ろうと、出入り口に密集している。
アルネブは、体が熱いことも忘れ、燃え盛る舞台をじっと見つめた。手が自然と両頬にいき、いつまでも恍惚と見つめていたのだった。
「お前、よくそれで自分だけは生き残ったよな」
アルネブの前に座っていたカノープスが、呆れ笑った。ここでやっと、アルネブはハッとなる。先程、公園で大きな仕事をやってのけた後、すっかり回想に耽り、その帰りに、こうしてカノープスと酒を飲んでいる、という現実を忘れてしまっていたのだ。
アルネブは温かいベイリーズミルクに舌つづみを打った後、静かに首を横に振った。
「無傷だった、というわけではないんですよ。何せ、燃える小毬さんを夢中でじっと見ていましたから」
仕事着の一部である紺色の蝶ネクタイを外し、襟元を少し捲ると、爛れた皮膚が間接照明に照らし出された。
「すっかり大火傷を負ってしまいまして。日常生活には差し支えない程度ですが、間接の動きが悪くなって、プロのバレエダンサーの道は諦めざるを得なくなってしまいました」
「そんなに悲し気に笑うなよ。俺なんか見ろよ、踊ることすらできないぜ」
カノープスは快活に笑ってズボンを捲る。すると、白い陶器でできた、星空の描かれた繊細そうな義足が顔を出すのだ。
彼はアルネブと近しい、つまりは罪を犯すことを生業としており、今は自分で小さな集団を作ってやっているが、昔は大きな集団に雇われていた。そこでちょっとしたミスから逃れるために両足を、自ら斬ったのだというから、さすがのアルネブも、最初に聞いた時は驚いた。しかし、一応は励まそうとしてくれているようだ。
「別に私は落ち込んではいないんです。趣味で続けることは充分できますし、元々踊るより観ている方が好きでしたから」
今困ることは、女性と良い感じになった場合にファンデーションで火傷を隠すのがちょっと面倒なくらいです、とジョークを交える。
「ただ、御近所の方々は私を気色悪いと思うようになったらしく」
「実際に気色悪いもんな」
カノープスの呟きに笑顔を返す。怒るなよ、と、なんとも言えない顔をされた。
「母はますます私に失望したようで、私は母の夢を叶えてあげて、何とか評価を上げようとしたのです。だから、ある夜……」
アルネブの脳裏にその時の光景が蘇る。ざわざわと鳥肌が立ち、唇が緩むのを抑えられない。
「私は彼女の背中に火を点けて、彼女を燃やし……彼女を素敵なバレリーナにしたのですよ」
「それがお前の現職に至るきっかけか?」
「うーん。そうでもないんですけれどね。私の職業は復讐代行。母を燃やしたのは、他ならぬ愛しい母のため。私は今でも母を越えるバレリーナはいないと思っているのですから」
「ははは、お為ごかし言うなよ。要するに人を燃やすと興奮するんだろ」
そこでアルネブはポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認した。
「今日はバレエ教室の日なので失礼します」
「未だ通っていたのか」
「勿論。先ず自分がやってみなくては、人に指導できないでしょう?」
「だから、お前の職業は一体何なんだよ」
知っている癖に茶化して笑ってくるカノープスに、アルネブは兎の耳の着いたシルクハットを取って胸に当て、
「生きている人間の中に美しいものなどいますか? そんな醜い人間もバレリーナとなれば皆、美しくなれる。私は全ての人間を美しいバレリーナに昇華させる芸術家ですよ」
と、答える。カノープスは唖然とした表情に変わった。