助け出されても、信じられなくて
『さっさと準備しなさいよ、ノロマ亀!』
やめて。
『ドレスを着て、メイクをして、ヘアセットを二人分するのよ?このペースで間に合うわけがないでしょう!』
あなた達の都合なんて知らないわ。私は公爵令嬢よ!なぜ召使いのように、この私があくせくと働かなくてはならないの?
『名前のとおり亀のようにノロマな動きしかできないのね!もっとせかせかうさぎのように動けないの!?』
『ご、ごめんなさ……っ』
『口の効き方がなってない!』
『ひ……っ』
女狐の娘は私を鬼の形相で睨みつけてきた。平民の癖に。何を怯える必要があるの?私に指図するな。
私は、恐れるのではなく立ち向かうべきだった。お父様と一緒に。私が弱かったせいで、お父様は死んでしまった。私が強ければ。出会ってすぐに言い返して、あの女狐と娘を追い出したのに。あの女狐と娘さえいなければ。私は今だってお父様と笑いあい、美しい容姿のまま、ノルンに愛されていたはずなのだから──
「るん……ノルン……」
「……さ、な……」
許さない。
あの女狐と娘だけは、絶対に。
パチリと悪夢から目覚めた私は、心配そうに覗き込むノルンの姿を捉えた。その表情は蒼白で、私が目を覚ますと驚愕の表情を浮かべて椅子から立ち上がった。
「ランク!医者を呼んでこい!」
「はい、ただいま!」
ランク?
聞き覚えのある名前と声に。ゆっくりとその方向を見るが、目の動きが遅すぎて姿を捉えられなかった。
ランクと言えば、あの女狐に屋敷を追い出されても最後まで私の傍にいるとごねていた従者のランクドムを思い出すが……。本人なのだろうか。
「リアム。ランクを気にしているのか?」
「……ぁ……」
「無理に声を出す必要はない。首を振るくらいはできるだろう。肯定ならば目線と首を下に。否定ならば左右に振れ」
私はノルンに言われた通り、首を下に向ける。ゆっくりと視線を戻せば、ノルンは記憶とは異なる低い声で、私に説明してくれた。
「ランクはシンヘズイの家を追い出されてから、俺に懇願したのだ。リアムが義母と義姉に酷い扱いを受けていると。俺はランクが訪ねて来てからどうにかリアムを助けられないかと機会を窺っていたのだが……。ランクが俺に助けを求めてから、救い出すまで5年も掛かってしまった」
「………………」
「義母とその娘は俺に捕まることを恐れたのだろう。すでにシンヘズイの屋敷からは逃げ出したようだ。リアムを一人残したまま俺が姿を消せば、奴らが戻ってくるかもしれない。リアム。お前の安全を守るためにも、俺と婚姻しよう。このまま俺の部屋で暮らすんだ」
ノルンの部屋で暮らす。
婚約者としてではなく、妻として。
骨と皮の私を見て青白い顔で気丈に振る舞う彼と結婚するの?私の容姿が昔のように。美しく花開くように美しく変化すれば、ノルンは私と婚姻してよかったと喜んでくれるだろう。
けれどもし、不治の病か何かに侵されていたとして。私の容姿が生涯骨と皮のままだとしても、彼は私を愛し続けてくださるのだろうか。
ノルンは第二王子。お世継ぎは第一王子の妻が産めばいいとしても。
王族は大いに越したことはないだろう。いついかなる状況が起きて、ノルンにお鉢が回ってくるかなど、わからないのだから。
そもそも。
好きだの愛していると薄っぺらい愛を囁かない時点で、私が彼を信頼することはないと言ってもいい。人間は裏切る。一方ではいい顔をしていても、また他方には悪い顔を見せる。
お父様にいい顔を見せる裏で、私に悪い顔を見せてきたあの女狐と娘のように。
『貴方のようなみすぼらしい容姿の女を好きになる男など、いるわけがないわ』
「……っ!」
耳元で聞き覚えのない妖艶な女性の声が聞こえる。彼女は私の首元に背中から手を回すと、私の肩から背中に掛けてずっしりと体重を掛けてきた。
「リアム?どうしたんだ、顔色が……」
ノルンは私を心配してこちらに手を伸ばしてくる。相手はノルンだ。幼い頃私と手を繋ぎ、たくさん愛を囁いてくれて。将来幸せな夫婦になろうと誓い合った。この国の第二王子。ノルドレッド・ワンダルフォン。
『その手を取ったら後悔するわよ。男なんて皆、愛だの恋だのは性欲に直結しているもの。貴女に愛を囁かないのは、性欲を感じないから。ふふ、当然よね?骨と皮に欲情する殿方は特殊性癖くらいなものですもの。彼の手を取ったら後悔するわよ。一生愛して貰えないと覚悟することね』
くすくすと人の不幸をあざ笑う女の声が、肩や背中に掛かる重みがうっとおしくて仕方ない。
亡くなったお父様やお母様に聞こえる、そっくりな声は私を未来へ導いてくれるような暖かさがあったけれど。人の不幸をあざ笑うこの女の声は、私を深淵へと引き摺り込む。ずっと抑え込んでいた負の感情を爆発させようと誘導しているかのように。
いちいち癇に障るのだ。それも全部、あの女狐とよく似た話し方をするからなのだろう。
『貴女はずっと後悔して来たのでしょう?周りに言われるがまま行動した結果、貴女はどうなったの?』
お父様に今日から継母と義姉になる人物を紹介され、よろしくお願いしますと手を取った──その結果、お父様は殺害された。
お父様に再婚などしないでと必死に止めていたなら。未来は変わっていたかもしれない。
お父様が亡くなったときだってそうだ。どうしてお父様が亡くなったのか聞けば、生意気な娘だとクローゼットの中に突き飛ばされ、そのまま軟禁されてしまった。あの時理由など聞かずとも、着のみ着のままでもいいからノルンに頼るべきだった。そうすれば、私は骨と皮の状態で、生きる屍のように生活することはなかったのに。
『貴女は自分から行動することを怠ったせいで、不幸のどん底まで叩き落されたのよ。けれどこれは、ある意味幸運でもあるわ。最下層まで落ちたのならば、あとは這い上がるだけ。甘い言葉を囁く人間ほど、裏では貴女を利用しようとしているのよ。この婚約者だってそう。5年もあれば、人は変わるわ。貴女が知る婚約者が、当時のままかどうかなど、今すぐに判断などできないでしょう。また、後悔することになってもいいの?』
嫌だ。もう二度と、後悔などしたくない。
虐げられたくもなければ、死にたくもなかった。
助け出される前までは、ずっとノルンが5年前と変わらず。私のことを大好きなままでいる心優しい青年であると信じて疑って居なかったけれど。
私が劣悪な環境に身を置き、骨と皮のような見た目で生活している間。ノルンは第二王子として華々しい生活を送ってきたはずだ。私のような女には愛想を尽かして、他の女とよろしくやっていたっておかしくはない。
ノルンの手を取り婚姻し。容姿が原因で私を遠ざけ、美しい女とよろしくやっている姿を私に見せつけてくるノルンの姿を想像するだけでも腹が立つ。
近寄らないで。ノルンは私のものよ!
誰にも渡さないわ!私とノルンは、幼い頃から添い遂げる運命なの!
『そう。その調子よ、リアム。もっともっと、独占力をひけらかして。自分の意志を表に出すことを恐れなければ、貴女はとっても素敵な女性になるわ』
まともな食事も与えられず、狭いクローゼットの中に閉じ込められ続けていたせいで。筋力は衰え、発話も困難なこの身体では満足に言葉を口にすることはできなかったけれど。
耳元で囁く女の声に背中を押され、怒りの感情を身体全体に湧き上がらせながら。私はノルンの差し出された手を、ぺちんと指先で触れて弾こうとした。
「リアム……?」
「……っ、……!」
「リアム、落ち着いてくれ。大丈夫だ。もう怖いことはなにもない。目覚めてすぐに求婚など、するべきではなかったな。俺は何もしない。俺はお前を守れなかった。これからは、俺がリアムを守ると誓おう。だから、落ち着いてくれ。頼む……」
「………………」
筋力が衰えた手では、ノルンのこちらに伸ばした手を完全に叩き落とすことはできなかったけれど。私の触れた指先が彼の手に触れた瞬間、握りしめるようなことをしなかったことだけは彼に伝わったのだろう。
大丈夫。怖いことはない。何もしない。俺だけは味方。俺だけは守る?
5年間も、毎年律儀に誕生日だけ顔を出して。門前払いを食らい、それ以上私を助けるために行動しようともしなかった男に。どうやって私を守れると言うのかしら。口先ばっかりで、頼り甲斐のない男だわ。
私はどうして、彼のことが好きだったのかしら。
私は何度も懇願したわ。心の中で助けを求めたのに、誰も助けてはくれなかった。ノルンが唯一私の為に行動を起こしてくれたことと言えば、私がお父様とお母様の声に背中を押されて助けを求める為。行動を起こした際に、2階の窓枠から身体を滑らせた私を抱きとめてくれた。それくらいだわ。
私のことを思うならば、5年間も私を幽閉したあの女狐と娘の首を落とすくらいするでしょう。彼は私の骨と皮を見ただけで怯み、私だけを王城に連れ帰った。
被害者の安全確保よりも、まずは犯人逮捕が先決でしょう。基本がなっていない。あの女狐と娘が逃げ回っている間、私が一生怯えて暮らすべきだと考えているのかしら。
酷い人。私のことを思うなら、安心しろと告げるなら。女狐と娘の首を落として。私の前に持って来てよ。
『あの女どもに向ける醜い感情!素晴らしくてよ!貴女は素晴らしきブラックダイヤモンドの原石だわ……っ。これからたっぷりとわたくしが磨いてあげる。これからたっぷりと時間を掛けて、復讐しましょう。リアムが受けた苦しみ、悲しみを。すべてあの女どもに返すのよ!』
「ノルドレッド様!お医者様を連れてまいりました……!」
耳元で囁く女の重みが背中や肩から薄れると、私は眠くなってしまった。
興奮したからだろうか。なんだかとても眠い。到着した医者はなにか私に語りかけているけれど、答えるのも面倒だ。どうせ発話などできない。
「カメリアム様、聞こえますか?」
うるさい。
「身体のどこが痛いですか」
痛くない場所なんてないわ。
「身体の傷はこれからゆっくり直していきましょう。リハビリをすれば、きっと元通りの身体に戻れますよ」
きっと元通りの身体に戻れる?
随分他人事なのね。私が受けた苦しみを理解したような口ぶりで寄り添うふりがうまいこと。そんなものよね、人間なんて。生きているのが不思議なくらいの栄養状態で、私は息をして自らの意志を伝えようとしているのだから。
「……して」
「リアム?なにか伝えたいことがあるのか!?」
ノルンは嬉しそうに身を乗り出した。どうせ、先程有耶無耶になった婚姻の返答とでも勘違いしているのだろう。
酷い扱いを受けた女が、力では勝てない男に縋り付くことがあるとするならば。
それは男を愛しているからではなく、これ以上ひどい目に合いたくないからだ。この場でノルンとの婚姻を了承することこそが正解だと言わんばかりの顔をしないでほしい。私を恐怖で支配したいのならば、これほど正解の選択肢はないけれど。
「──ころして」
「……ああ、そんな。リアム……。そのようなことを、口にしないでくれ……」
あの女を半殺しにして、惨めな姿を私の前に晒せたら婚姻してやってもいい。その意味を込めた私の言葉は、うまく彼には伝わらない。
私が死にたいとノルンに許可を得る必要がどこにあるのだろう。お父様とお母様は、ノルンに助け出されることが奇跡だといったけれど。私がお父様とお母様の想定する女としての幸せが一致しているかどうかはまた別の問題だ。
愛されたい。愛したい。誰かを好きになって、誰かに好きになって貰えたら。私はそれだけで幸せだったのに。
女狐と娘のせいで、私の幸せは歪んでしまった。
ノルンとの婚姻は、強大な権力を得るための過程であって、ゴールではない。
私はあの女狐と娘を、自分の手は汚さずに始末したかった。
女狐と娘に、私と同じかそれ以上の地獄を味合わせる為に生き続ける。それが私の幸せだ。
「睡眠薬を」
「よろしいのですか?」
「リアムはまだ正常な判断が難しいようだ。もう少し、眠らせてやってくれ。せめて夢の中では、穏やかな夢が見られますように……」
ああ。貴方も。私との対話を拒絶するのね、ノルン。
貴方なら、私の気持ちに寄り添ってくれると信じていたのに。
愛する人をひどい目に合わせたあの女狐を責任持って始末してくれると信じていたのに。
貴方は私を悪夢の中に追いやるだけで、私には何もしてくれないの?
──なら、いいわ。私はもう貴方には期待しない。あなたを信じた私が馬鹿だった。私は一人で生きていく。頼りにならない。使えもしないお荷物など、私の人生に必要ないわ!
「お………………さ………………」
覚えてなさい。
この恨みは、一生忘れないから。
そうして私は、意識を手放した。