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クローゼットを開けて、ゆったりめのトップスにロングスカートを引っ張り出す。暑そうかなとも思ったけれど日に焼けるよりはいいような気がして、手早く着替える。
バスの時間まで十五分。
ゆっくり歩いてもバス停まで十分もかからないから、慌てる必要はない。それでも、なんだか落ち着かなくて私はバタバタと階段を降りる。お母さんに、いってきます、と挨拶をして玄関へ向かう。
サンダルとスニーカーを並べて、たくさん歩くことになりそうだとスニーカーを選んで靴紐を解く。足を入れて、紐をきゅっと縛り直すと光莉が真面目だと言って笑った。
緩く結んで靴紐を解かずに脱ぎ履きをすると、足がぴたりと靴と合わず気持ちが悪い。
頭の中の光莉にそうと告げると、今度は几帳面だと笑われた。
玄関を出て、日陰を探しながらバス停へ向かって歩く。
蝉が元気よく鳴いているけれど、人影はない。空を見上げれば太陽が私を焦がすように照っていて、額に汗が滲む。生温い風すら吹かない真昼の街は私一人しかいないようで、世界に取り残されたような気がする。
足元を見ると、ひっくり返った蝉がころりと落ちていた。
『暑そうだね』
(暑いよ。光莉は暑くないの?)
頭の中、彼女は写真立ての光莉と同じ冬服を着ていた。
熱せられた空気が纏わり付く午後は歩いているだけでも汗が止まらず、光莉の姿を見ているだけで体温が上がりそうだ。だが、彼女は何でもないことのように言った。
『遥が暑いと暑いような気がする、くらいな感じかな』
(だから、冬服でもいいってこと?)
『ああ、これ。遥が冬服の私をイメージしてるからだと思う。私、もう体がないからさ。たぶん、遥が夏服の私をイメージすれば夏服になるよ』
(そういう仕組みなの?)
『イメージしてみればわかるから、やってみて』
チェックのスカートに白い半袖ブラウス。
ボタンは一番上まで留めて、曲がることなく真っ直ぐにリボンを付ける。
頭の中に夏服を思い描いて、それを光莉に着せる。
すると、冬服だった光莉があっという間に夏服に着替えた。
(ほんとだ)
『体は、着せ替え人形みたいなものなんだと思う』
実体がない彼女の姿は、私のイメージ次第でどうとでもできるらしい。それは、光莉の意識だけがこの世界につなぎ止められていることを意味していて、胸の奥が苦しくなる。油断すると涙まで出てきそうになる。
私はぎゅっと手を握って、日の当たる道を駆け出す。
『急がなくても間に合うよ』
(わかってる)
流れる汗を拭いもせずにバス停まで走ると、ずっと病院にいたせいか息が上がっていた。五分も走っていないのに浅い呼吸を繰り返して、バスに乗り込む。それから三十分ほどバスに揺られて、動物園前で降りる。
入場料を払って、もらったパンフレットの四隅を合わせて折る。小さく畳んだそれを鞄の中にしまって歩き出すと、光莉が『キリンが見たい!』と叫んだ。
(順番に回っても良い?)
『えー、初デートはキリンから見に行ったのに』
(キリンから見ると、効率悪いじゃん。順番に全部見て回ろうよ)
さっき見たパンフレットだと、キリンは順路の半ばくらいでそこから見ると色々な動物を飛ばして歩くことになる。せっかく入場料を払ったのだから、できれば全部の動物を見て回りたい。
『好きなヤツだけ見ようよ』
(ええー)
『初デートのときも、こうやって揉めたんだよね。思い出さない?』
私は、どこに埋まっているかわからない記憶を探る。
デート。
動物園。
キリン。
キーワードになりそうなものを手がかりに意識の奥底へ潜ってみるけれど、この場所に二人で来たという記憶すら見つけることができない。
(ごめん。ここに二人で来たことも覚えてない)
『そっか』
光莉が静かに言う。
けれど、私にはその声が弱々しく聞こえて、酷く悪いことを言ってしまったような気がした。
(キリンから見ようか)
埋め合わせをするように言って、私は歩き出す。
園内はそれなりの広さがあり、目当てのキリンまで結構な距離がある。私は暑さでだれている動物たちを見ながら、光莉の思い出話に耳を傾ける。
周りに目をやれば、夏休みの土曜日だけあって家族連れが多い。それでも恋人同士と思われる人たちもいて、手を繋いでいたり、腕を組んだりして歩いていた。ここに来た私たちがどうだったのかは、記憶にない。
『二人で手を繋いで回ったの、覚えてない?』
カバの前を通り過ぎる頃、光莉が思い出したように言う。
(……今、私の心を読んだ?)
『考えてることわかんないって言ったじゃん。でも、すれ違う人をじーっと見てたから何を考えてるか想像できる』
光莉の言葉を聞いて、私は誤魔化すように笑った。けれど、あははという笑い声は口に出ていたらしく、隣を歩いていた子どもの視線が私に突き刺さる。
誰もが誰かと一緒にいる中、私は一人で歩いている。光莉と一緒に来てはいるけれど、端から見れば一人にしか見えない。そんな私が唐突に笑い出せば、奇異の目を向けられてもしかたがなかった。
『あーあ、私も遥と並んで歩いて、手を繋げたらいいのに』
歩く速度を上げると、光莉が叶えることができない願いを口にした。
私は、頭の中にいる彼女の実体があるようでない手を掴む。
光莉が笑う。
眩しいくらい白いブラウスの先、繋がった手に感覚はなかった。
『キリン、見えてきた』
光莉の声に意識を外へ向けると、サイの少し先に長い首が見える。私は父親と手を繋いでいる子どもを追い越して、キリンの前へ行く。柵の向こう側、悠々と歩くキリンを見ていると光莉が言った。
『あ、写真。スマホ見てよ。ここに来たときに二人で写真撮ったから』
スマートフォンには、確かに思い出が詰まっている。
私宛のいくつものメッセージ。
ずらりと並ぶ名前はほとんど私が知っているもので、すべて事故に遭った私を心配して送られたものだ。でも、どれを見ても私に送られたものだとは思えなかった。
写真だって何枚も見て、見覚えのあるものがいくつもあった。けれど、撮った記憶のないものもあって怖くて最後まで見られなかった。
小さく息を吸って、ゆっくり吐く。
私は鞄からスマートフォンを取り出して、二ヶ月前に撮った写真を見る。
そこには、確かに動物園で撮った写真が何枚もあった。
キリンの前、仲良く手を繋いでいる私たちの写真もある。
恋人のようでただの友達にも見えるその写真は、私の記憶にないものだ。何か思い出すかもしれないと目の前のキリンと見比べてみるが、記憶が蘇ることはなかった。
『思い出さない?』
(うん)
短く答えて、歩き出す。
結局、二人で見たというカピバラを見ても、ラクダを見ても、ライオンを見ても私は何も思い出さなかった。新しい思い出は増えたけれど、過去の記憶は見つからないまま動物園を後にする。
家へ帰れば、光莉はくだらない話ばかりした。
真夜中になって、彼女と明日も思い出巡りをすると約束して眠る。
目が覚めれば、行き先は決まっていた。
感動的だと評判だった映画を見に行った映画館、美味しいと噂のパンケーキの店。私は、光莉といくつもの思い出を巡る。
そして、一週間。
やっぱり、記憶は戻らなかった。
なくした記憶は、なくても生活に支障はない。
子ども時代は思い出せないけれど、学校で学んだことは覚えている。記憶に薄い部分と濃い部分があるが、それも新しい記憶に塗り替えられて平均化されていきそうだ。
光莉との記憶はほとんど残っているし、恋人同士だったという記憶が抜け落ちたままだったとしてもこの先困ることはないだろう。
けれど、光莉が私の中にいるうちに思い出したい。
私には、それくらいしか彼女にできることがない。
(今日はどうするの?)
お昼を食べて重くなった瞼を気合いで上げて、問いかける。
『今日は、部屋でのんびりしようか。予想最高気温三十六度だし』
(見るからに暑そうだもんね、外)
病院に閉じ込められていた体はすっかりなまっていて、腕も足も重たくなっている。窓ガラスの向こうを見れば、ギラギラと鬱陶しいくらいに輝く太陽に支配されていて外へ出たいとは思えなかった。
私は机の前、椅子に座って写真立てを見る。
肩よりも少し長いストレートの髪。
黒目がちな丸い目のせいか年齢よりも幼く見える顔。
飾られている写真には、身長も変わらない私と光莉が並んで立っている。
(似てるよね、私たち)
性格は正反対だと言われるけれど、私たち二人は見た目がよく似ていた。
『二人で歩いてると、よく姉妹に間違えられたもんね』
(そうそう。どっちが姉か妹かで揉めたりしてさ)
『私、もしかしたら自分の体と間違えて遥の中に入っちゃったのかも』
(あり得る)
実際のところ、どういう理由でこんなことになったのかはわからないし、知りようもない。でも、魂が違っても器が似ていれば、それなりに綺麗に収まるということもあるかもしれないと思える。
『遥の記憶がおかしくなっちゃったのって、私のせいかもね』
静かに光莉が言う。
(どうして?)
『遥の意識に私が引っかかっちゃったから、記憶が飛んじゃったんじゃないかなって。だって、遥の体にとったら私の意識なんて異物でしょ。無理矢理中に入ったら、びっくりして何かなくなったっておかしくないじゃん』
(言われてみれば、そうだけど)
『だから、私が出て行ったら元に戻るよ』
(……本当にいなくなるの?)
『そりゃあ、いなくなるでしょ』
四十九日。
魂の行き先が決まると言われている日。
それが本当なら、光莉は決められた日が経てばいなくなる。
(ずっといて欲しいって言ったら?)
死んでしまった人の魂を引き留めておくことが良いことだとは思わないけれど、光莉がいなくなったら寂しい。ずっと、私の中にいて欲しいと思う。
『そういうのは、私じゃなくて神様か仏様にお願いして』
天井を指さしながら、光莉が言った。
大雑把な私と几帳面な光莉。
私たち二人の評価は誰に聞いても大体そんな感じで、私自身もそれで間違いないと思っていた。けれど、体を失って心も軽くなったのか、今の光莉は私よりもおおらかだ。その楽天的とも言える明るさに私は救われている。
(お願いしてそれが叶うなら、いくらでも頼むんだけど)
天井を見上げて、ふうと息を吐く。
写真立てを手に取って、ひっくり返してみる。私たちの後ろ姿が見えたら面白いのにと思うが、そんなことはなく、かわりに下の方から緑色の何かがはみ出ていた。
糸よりも太いが毛糸よりも細く、短い紐のようなもの。
それが気になって、留め具を外して裏板を取る。
写真の裏側。
大きく“好きだと言えますように”と書かれていた。はみ出していたのは、そこにぺたりと貼り付けられた四つ葉のクローバーの茎らしい。きっちりと枠の中に収められないあたりが、私らしかった。
しかし、書かれている言葉に覚えがない。
『遥、願かけてたんだ』
(みたいだね)
記憶にはないが、書かれている言葉と四つ葉のクローバーからすると、光莉が言っていた私から告白したというのは本当のことだと思われる。
私は四つ葉のクローバーに触れ、二ヶ月前の記憶を探す。
告白をした。
好きだと言った。
いつ、どこで。
きっと二人きりの場所。
たとえば、この四つ葉のクローバーを見つけた学校の裏庭。
そう、あそこは滅多に人が来ない。
先生に花壇の水やりを頼まれた放課後。
四つ葉のクローバーを見つけた日も二人きりだった。
確かこれは――。
(光莉からもらった)
私は、写真に張り付いている四つ葉のクローバーを撫でる。
『春に二人で見つけたんだっけ』
(そう。告白したことは覚えてないけど、二人で四つ葉のクローバーを探したのは覚えてる)
三つ葉ばかりの緑の中、光莉が四つ葉を探し出した。それをもらったことは記憶に残っている。写真に貼り付けてまで大切にとっておいたのだから、思い出の場所である裏庭で告白もしそうだ。
そうだ。
どうして思いつかなかったんだろう。
光莉との思い出なら、学校にたくさんある。
私は立ち上がり、制服に着替える。
そして、スマートフォンを鞄に放り込んで部屋を出た。