全て台無しにするクライマックス(演出:真智さそり)Ⅰ
雪が降ってもおかしくない凍える朝だ。布団の中で目を覚ます。
俺は、自分が裸であることに気づいた。昨日のあれは夢ではなかったのか……と俺は再び目をつむった。瞼の裏に映像が流れてくる。それだけで、俺のキカンボウ熱くなりかけてしまう。
胸のサイズ、とか腰のくびれとか、毛の生え方とか……おにゃのこって素晴らしいな。
はっとして俺はレイナの姿を探した。なぜだか、レイナがいなくなってしまったような気がした。
「レイナ! レイナ⁉」
「ん~なに?」
と眠そうな返事が返ってきた。レイナはちゃんと俺の傍にいた。同じ布団の上で、同じ毛布に包まれている。
俺はなにげなく毛布をめくって中を覗いてみる。すると、レイナの奴、自分だけ浴衣を着直していやがった。一部の隙もなく綺麗に浴衣を着ていた。レイナと浴衣は二つで一つの存在のようだった。その浴衣は決してレイナの体から離れることのないように見えた。昨日の夜、俺はこの浴衣を脱がしたのか……現実感が伴ってこない。
「あ」とレイナは顔をそむける。「まだ服着てないの? 嫌なんだけど」
「うっ! ごめん」
と俺は謝って慌てて浴衣を身にまとった。
午前八時。大宴会場で朝食を食べる。昨晩、俺とレイナがしたことが雪たちにバレてないかどきどきしたが、あいつらは別段気づくこともなく、朝食の時間は平穏に流れていった。
午前九時。俺たちは宿を出て、地元への帰路についた。
俺とレイナはもちろん、雪と堀北と鈴江たちも何やら疲れている様子で、電車に揺られながら全員ガチで寝ていた。奇跡的に乗り換えが上手くいったのはラッキーだった。それには五人という人数の力もあると思う。五人もいれば、誰かしらタイミング良く目覚めて起こしてくれるものだろう。
そうしているうちに、いつの間にか俺たちは地元に到着していた。帰り道の記憶がすっぽりと抜け落ちていて、地元の土を踏んでいるという実感がなかなか湧いてこなかった。
俺たちは出発前の朝、あのド早朝の時と同じように駅前のベンチに座り込む。そしてまたじゃんけんをした。負けた俺は、人数分の飲み物を買いに自販機へと。誰が何を飲むかは訊かなくても大体把握していた。俺は昨日の朝のことをちゃんと覚えているのだ。俺と堀北がコーヒーで、レイナと鈴江はミルクティーだったよな。で、雪は? いいや、コーラにしちゃえ。
プルタブを引くと、カシュっと空気の抜けていく音がした。肌寒い十一月の午前中。高く青い空の下で、コーヒーを胃に流し込む。のどかな時間だ。しかし、レイナは、
「私、もう行くね。この場所に、長くいすぎちゃった」
「え?」「え?」「え?」
俺と堀北と鈴江は素っ頓狂な声を出した。
「だったら私も、そろそろ……だね」
と雪も微かに呟いた。
突然のことだったけど、俺たちはそれぞれ自転車に乗って裏山の泉へと向かう。自転車を持っていない雪は、鈴江と二人乗りをした。途中レイナの家に立ち寄って、旅行の荷物を置かせてもらう。そしてまた走り出した。
道中、口を開く者はいなかった。若い男女五人が、薄い表情のまま固まって自転車を漕いでいるその光景は実に奇妙なものだっただろう。さぞ奇妙だったことだろう。しかしそれは仕方のないことなのだ。これは、泉から現れた女の子とお別れをするためという、余人には理解不能な目的を有する行軍。つまり奇妙なことをしに行こうとしているのだから、奇妙に見られて当然だ。
何もかもが当然のことだった。しかしあまりにも突然ではないかと、俺は思った。旅行から帰ってきて、すぐにお別れなんて普通ありえるだろうか。タイミングが悪くないか。今じゃなきゃだめなのかそれは。
自転車を漕ぐ俺の横を、レイナが走っている。俺は横目でレイナを見た。レイナは真面目な顔をして前を向いている。俺にはその横顔が少し可笑しく思えた。これからお別れだというのに、どうして俺たちは澄まし顔で自転車なんて漕いでいるんだ。情緒が足りないと思った。別れの前に特有の、あの湿っぽい雰囲気がない。徒歩ならよかったのに。もう少しゆっくりと、惜しむように、景色を眺めながら歩くのが、こういう場合正しいはずだ……。
時の流れは平等だと言う。時間は俺たちへと平等に降り注ぐ。それはあくまで、時間が全ての人間を同様に扱うという意味。時間を司る神は、あの空より遥か上の世界から、全ての人間に対して同じ距離を取って見下ろしているということだ。しかし人間側には、時の神の御姿がくっきりと見える人もいれば霞んで見えてしまう人もいる。見え方には一人ひとり差異が生じる。
そんなつまらないことを考えていると、時間は驚くほど早く過ぎていった。俺たちはすでに裏山のふもとに自転車を停め、細い登山道に踏み入っていた。
神隠しにでも遭わないかな……今、瞳を閉じて、開いてみれば、そこに……なんて現実逃避をしてみても意味がなかった。
俺はレイナと離れたくないと、はっきりとそう願っている。たしか昨日の夜は真逆のことを言っていたはずなのに。セックスしてから気が変わったのだろうか。つくづく俺は最低の男だ。ろくでなしだ。でも、俺はセックスしても気が変わらないような薄情な男ではないことは確かだ。どちらにせよ、男なんて最低だ。生まれ変わったら男根を滅却するために作られた戦闘アンドロイドになりたい。
風が吹いて、森がざわめいた。かつては深緑の色をたたえた森も、今はその色を失ってしまった。葉を失った枝が、空に幾何学模様を描いている。俺は親しみを持った目でそれを眺めた。この森とは良い友達になれそうな気がした。
はて? 先ほどからの俺のこの鬱な頭の中は、何なんだ?
あれか? 賢者モードというやつか?
……ガッツリ落ち込んでるんじゃねえか。
「っったくよぉ……」
と俺は口の中で呟いた。
レイナはいなくなる。麗奈とまた会える。全ては元に戻る。俺はそのことを喜ぶべきはずだった。でも、今の俺の気分は喜びとは程遠いもので。
大切なものは失って初めて……気づく……のか? 俺は気づきつつあるのか? そして傷ついてしまうのか?
長いお別れ。ロンググッバイ。長い賢者モード。ロング……ワイズマンモード。
ロングワイズマンモード……その言葉の響きは、ガラクタを寄せ集めたみたいにゴチャゴチャしていて言いにくい。
そう考えるとイーティーは凄い奴だ。あいつはガラクタを集めて宇宙の果てまで届く通信機を作ったんだから。俺は生まれ変わったらイーティーになりたい。
レイナは泉の前で立ち止まって、何度か深呼吸をした。俺はその背中を見つめていた。レイナはくるりと回ってこちらに向き直った。
「皆、今までありがとう。短い間でしたが、お世話になりました。沢山迷惑かけてごめんなさい。沢山戸惑わせてしまってごめんなさい。沢山……悲しい想いをさせてしまって、ごめんなさい」
レイナは深く礼をした。俺はレイナの頭が上がるまでの時間を心の中で数えてみた。四秒だった。そういえば小学校で、礼をする時は四秒頭を下げろと教わった。誰がどこで決めた基準だよ。ジュネーヴの国際標準化機構が決めたのか?
「けど、私には悪気はなかったんだよって、心にとどめておいて下さい」
「分かってるよ」と鈴江は言った。「そんなこと分かってるって、今さらじゃん? 私たち、もう十分お互いのこと理解できてるって」
レイナは微笑んだ。そして鈴江も女子っぽい笑顔を浮かべた。
「姫ちゃん。バレーボール、どうするの? 怪我が治ったら、バレー部、復帰するの?」
とレイナは訊いた。鈴江は涙ぐんだ声で、
「うん。続けるよ、バレー。レイナや、島の皆に恥ずかしくないように……頑張る」
「そっか、偉いね。姫ちゃん。姫ちゃんがバレーしてるとこ見れる日が来るの、楽しみだなあ」
と言って、レイナは手を組んで上に伸ばした。そのまま数秒間、ぐっと伸びをした。やがて、ほっと息を吐いて腕を下した。
「……でも、やっぱり違うかも。私って、消えちゃったら、本当に消えちゃうんじゃないかなって、最近思うんだ……。前はそうは思わなかったんだけど。なんでかな? 長くここに居すぎて、変なものでも芽生えちゃったのかもしれない。自我、みたいな? でも、だめなんだよね。私の居場所は、麗奈ちゃんのモノなのに……」
「だったらさ、私と一緒に行く?」
と、不意に雪は言った。俺以外の皆は首を傾げた。
「私も実は、同じなんだ。レイナと。この世界にとってはイレギュラーな存在ってやつ」
「そう、だったのか?」
と堀北が驚愕して言った。雪はうなずいて、
「私は逃げてきたの。遠い、遠い街から……元の、淡雪ゆこの存在になり替わって、雪として、流浪の旅をしてる。近いうちにこの街からを出ていくつもり。だから、ついてこない?」
「そ、そんな……だめ、だよ」
「別にいいんじゃないの? じゃあ、私たちは黙って泉の底へと消えていくべきだって言いたいの?」
レイナの顔に逡巡の色がちらついた。そして長考の末、選択を決めた。
「黙って消えて……たまるか! ……でも、私、ここを離れたら、さそりの傍にいられなくなるし……そしたら意味ない。私は、さそりと一緒にこの街にいたい!」
「そう……よかったね、そんなに好きな人がいて。で、どうするの? さそり」
雪はじろっと鋭い眼を俺に向ける。
どうするのって……それはつまり選べってことか? レイナか、麗奈かを。
「さそり」とレイナは毅然とした態度で、
「選んで! 私か、麗奈ちゃんか。今、ここで!」
そんなこと聞かれても、わかんねえって……。十一月のひんやりとした森の中なのに、自然と汗が流れ出した。適切な選択をできる気がしない。なあ、言っておくけど、俺はただの高校二年生なんだぞ! ただのっていうかむしろ普通より劣っているんだぞ! そんな俺にどうしろっていうんだ……そんな俺に、あ。
閃いた。こんな劣等生な俺だからこその、俺なりの、答えの出し方を。汗が森の空気に冷やされていくのを感じながら、俺は表情を引き締める。
「皆、聞いてくれ!」
レイナへ、そしてレイナ以外の皆へと。
「報告することがある。俺は昨日の夜、レイナと〇〇〇をした!」
「はあああ?」
と堀北はびっくりして言った。
「昨日、ちょっと喧嘩みたいになっちゃってな。それで、その後にしたんだ。仲直りックスってやつだ」
「お、お前急に何てこと暴露するんだよ! 意味不明だぞ、てか今言うことかよ!」
と堀北は真剣に怒って責め立てた。レイナは目を白黒させている。
「俺の言いたいこと、分かってないみたいだな。もう一度言うぞ、セックスをしたんだ!」
堀北は俺と同じくらいの勢いで、
「だから何だってんだよ! 真智、お前ふざけてんのか! 意図がぜっっっんぜん読めねえんだよ!」
「初めてだったんだよ、俺もレイナも。二人とも! しかも、あんな良い温泉旅館で! 皆でゲームしたり、美味しい夕飯食べた後に、こっそりと二人だけの秘密を作ったんだよ! これってシチュエーションとしては最高じゃん! 理想的な初夜じゃん! なかなか普通は経験できないことだぜ!」
「やめろ、それ以上は!」と堀北は喉が千切れそうな声で叫んだ。次に声を落として、「最低だよ……」
「とうとう、壊れたのか?」
と鈴江は呆然として呟いた。瞳孔が変な開き方をしている。
雪でさえもドン引きしているし、当のレイナは苦笑いしながら首をひねっている。
そんな女子メンバーたちの反応を見て、さらになお俺は続ける。
「つまりだな、俺はレイナのことを、絶対に忘れないっていうことだ!」
決まった……のか? 予想と違って、あまりリアクションを得られなかった。
「夢みたいに綺麗だった。これは俺の人生至上、最っっ高の思い出になる! だから、俺は絶対にレイナを忘れない! お前と過ごしたこの数か月は、永遠に俺の心の中に息衝いていく。俺は、俺は……」
自分でも最低の台詞だと思った。まさかこれがレイナに言ってやれる最後の台詞になるなんて。もう少しマシな頭が欲しかった、そしたら、こんな風にレイナに最悪な印象を与えたまま別れるようなことはなかったのに。
情けないことに涙まで流れてきやがった。涙で前が見えない。涙で上手く喋れない。最低な台詞ではあるけど、せめて途切らせずに言うべきだよ、ったく。
「俺は……お前を、選べない!」
「っ!」
とレイナは息を呑んだ。その瞳から湧き出るように、とめどなく涙が落ちる。
「ごめん、俺は麗奈に会いたいんだ。生意気な奴だけど、俺はあいつが好きなんだ! だから、ここでさよならだ……」
俺は俺なりにレイナが見せる反応を予想してみた。
おそらく、柔和な微笑みを浮かべて、『だよね。やっぱり、還らなきゃだよね」と言うんじゃあないかと思う。しかし、
「は?」
「ん?」
今、レイナの口から剣呑な感じの声が漏れたような。そして、レイナが凄く怖い顔をしているような。
「さそり、言いたいことがある」
「なんだ?」
「…………エッチだってしたのに、フザけないでよッ!!」
「な、レイナ?」
「フザけんなって言ってる! ばか! 私を捨てる気なのね? 仲直りックスしたのに!」
と腹から声出すことの手本のような圧で吠えた。
俺はレイナの急変についていけず狼狽して、
「だから、お前との仲直りックスは絶対に忘れないって! 青春の輝きだって! 俺たちは二人で世界の頂点に昇りつめることができたんだって! それって、最高の思い出だろ?」
「そんなの思い出じゃあねええぇぇええええ!」
ぬかった……俺が学ぶべきだったこと。それは女心と、スウェーイング……上体を後ろへ反らせて敵の攻撃をかわすボクシングの技術。
レイナの会心の一撃に、俺は吹っ飛ばされた。衝撃が脳を揺さぶる。
ドラマみたいに別れることはできないものなのか。公園のブランコに座りながら、『私、さそりとのこと、後悔してないから』みたいなさ。
「真智さそり、そこでのびてればいいんだ! 雪ちゃん、私を連れてって! 遠くの街まで! ここではないどこかへ!」
「え? あ、うん」
レイナは雪の腕を引っ張って、山を降りて行ってしまった。