するの? しないの? 温泉旅行その2!
七時半。古今東西ゲームの後、トランプやウノやラー〇ンズ考案の言葉ポーカー玄人版をやっていっぱい笑った俺たちは、笑い疲れた体に鞭を打って、大宴会場へと向かった。
夕飯のメニューは、わかめの酢漬け。ポテトサラダ。お刺身。地魚の炙り焼き。天ぷらの盛り合わせ。蒸し鶏。デザートに白玉ぜんざい。
俺的に特に美味しかったのは蒸し鶏だった。ただ鶏肉を蒸しただけと思いきや、噛むたびに旨味がじわっと口の中に広がって、凄く白米に合った。天ぷらは種類が豊富で、えび、いか、まいたけ、キス、かぼちゃ、ナス、山菜、とどれも素材が抜群で、衣の食感も最高だった。衣さえも美味かった。
雪はポテトサラダが大好物らしく、俺は自分のポテトサラダと雪の刺身を交換した。
夕飯を食べ終えて、ひとまず解散ということで、それぞれ部屋に戻った。俺はレイナと二人きりだ。部屋にはすでに布団が敷いてある……しかも隣り合わせで……気にはなったが気にしていないフリをして俺は布団に寝転がった。
「あ~疲れた~!」
時計を見ると時刻は八時半を示していた。どうしてまだ八時半なのにこんなに眠いのだろう。それは今朝五時に起きたからだ。思えば長い一日だった。俺は仰向けになって、深く息をついた。天井が高い。それはベッドじゃなく布団に寝ているからだ。
「私も、もうだめ~」
とレイナも布団へダイブした。レイナの乱れた髪が枕に広がる。それはあまり色気のない行動だった。別に色気なんて求めてはいないけど。
レイナは乱れた髪を直さず俺に近づいてきて、
「さそり、もう寝た?」
「そんなに早く寝れるわけないだろ、のび太じゃあるまいし」
「私はもう眠たくて眠たくてたまらないよ」
「そうか、じゃあ寝ろ」
と俺は言って、レイナがいない方向へ体をひねった。レイナはからかうような口調で、
「寒かったら言ってね、温めてあげるからさ」
「……」
この状況はなんだろう。レイナと二人きりで布団の上に寝ているこの状況は。これって、いけないことなんじゃあないのか? 健全な高校生の男女が、こんな退廃的な一瞬を過ごしていていいのか。
なぜか俺は教育者的な立場からこの状況を俯瞰している。そして、いかんと思った。こんなことをしていたら、いかん。
しかし誰も俺たちを止めようとしなかったことも事実だ。俺たちのこの状況は黙認されている。誰か良識ある大人が、どこかの時点で、俺たちに注意することもできたはずなのに。誰も俺たちを、見咎めようともしなかった。宿のカウンターでも、すんなりとチェックインできた。ロビーにいる老人たちも何も言ってこなかった。仲居さんは布団を隣り合わせに敷いた。雪と堀北と鈴江に至っては、俺とレイナが同室になることを推奨していたかに思える。
つまり、公認なんだ。俺とレイナの間に、これから何が起こるのか起こらないのか、その可能性の全てを容認されているんだ。
そうこう考えているうちに、俺の心臓は早鐘を打つように高まってきた。
マンガやアニメなんかでよくある、頭の中で天使の自分と悪魔の自分が、欲望の取り扱い方について議論するやつ。あれと同じことが今俺の頭の中でも行われている。悪魔は俺をそそのかし、天使は道徳的なことを言って俺を諭している。その争いに、第三勢力が加わってきた。睡魔だ。睡魔は悪魔や天使の主義主張を無視して、絶対的な圧力をもって俺の頭に来襲してきた。睡魔の強大すぎる力に対して、俺は対抗する術を持っていない。だから、どうしようもなくなって、こんな時は、寝るしかない……のだ……。
ふと目覚めた。はっきりと意識が覚醒した。瞼がパチッというたしかな音を立てて開いた。
俺は上半身だけを起こし、ゆっくりと頭を振った。いつのまにか寝ていたらしい。もはやすっかり性欲は消えている。それは少し残念なような気もしたが、やっぱり俺は何も起こらなくてよかったとホッとした。と、そう思った自分に違和感を感じた。何も起きなてよかったとホッとしただと? 俺はそんなこと全く思っていない。ただひたすらに、好機を逃してしまった自分に落胆しているというのが本当の気持ちだ。
「かといって、夜這いなんてするわけいはいかねえしなあ……」
声にならない声で、俺はぼやいた。第一そんなものはロマンティックじゃあない。だから、もう、遅いってことだ。レイナが寝てしまうより先にすやすやと寝てしまった俺が悪いんだ。
ご飯を食べ終わって、部屋に戻って、少し静まり返って、でも何らかの期待に満ちていた、あの瞬間。あの瞬間はもう取り戻せないんだ。
俺はレイナの安らかな寝顔を一瞥して、やるせなくなった。
……人は後悔すると結構なエネルギーを使うらしい。俺は腹が減ってきて、リュックの中からカップ麺を一個つかみだした。そして部屋に備え付けのポットで、レイナを起こさないように少しずつ湯を注いだ。フタを閉じて、その上に液体スープをのせた。
いつも家でやる癖で、秒針の音に耳をすませてみたが、いくら意識を向けてもその音は聞こえてこなかった。今いるこの宿の部屋には、アナログ時計はかかっていないみたいだ。仕方なく俺は携帯の時計を見た。
すると、一件メッセージが届いていた。送り主は堀北だった。本文は無かったが、画像が一枚添付されていて、開いてみると、そこには雪と鈴江のツーショットが写っていた。
トランプを持ったまま寝ている鈴江と、食べかけのスティックパンを握ったまま寝ている雪。とても心の温まる写真だと思った。レイナも、雪も、鈴江も、みんな泉に振り回されて、でも今はこうして幸せそうに眠っている。
ここ最近の俺の周りでの出来事は全て丸く収まったと言っていいのだろうか。不思議な泉が巻き起こした一連の騒動は解決したのだろうか。
そうだ。解決したと言ってもいいだろう。そして解決の先にあるのは、別れだけだ。もうすぐレイナは泉に還り、麗奈が戻ってくる。雪はこの街から去っていく。
別れ……。俺はレイナや雪のことを、十年後も覚えているだろうか。十年後の俺は、このローファンタジーな事件に、どのような意味づけを与えるのだろう。どのような名前をつけて保存するのだろう。
ふいに、レイナや雪の存在が、儚いように思えてきた。これから待ち受ける茫漠とした人生の中で、ある日なんとなく散歩してる最中に、レイナと雪に関しての記憶をうっかり落としてしまうんじゃあないかと、心もとなくなった。胸をかきむしりたくなった。
期限は、すぐそこまで差し迫っている。みぞおちの辺りに重力の塊が発生しているみたいな嫌な感覚がした。俺は焦っているのか、それとも鬱になっているのか、判別がつかなかった。
辛い。辛い夜だ……。
三分が経ち、俺は音を立てないようにカップ麺を食べ始めた。
また蒸し返してしまうけど、なんて色気のない夜なんだろう。
部屋に充満するカップ麺のスープの匂いを嗅いでいると、いつも一人で過ごす夜と何も違わないように思えてくる。
だがしかし、ほのかにシャンプーの香りもした。それは紛れもなくレイナの存在の証だった。いつか消えてしまい、忘れてしまう香りだった。俺は余計に切なくなった。そしてカップ麺を一口すすった。
「さそり?」
とレイナが寝言を言った。寝言と会話してみるのも面白い試みかもしれないと思った。俺はいつもの自分の態度を再現するように、
「なんだよ。お前にはやらないぞ? これは俺が持ってきたものだからな」
「欲しいなんて言ってないけど」
とレイナは寝言を言った。
「そうか、なら良かった。けど俺はお前が欲しいと言っても言わなくてもどっちでもいいんだ。どちらにせよあげないんだからな。人に手料理をふるまうのは好きなんだけど、それとこれとは別なんだ。カップ麺だけは誰にもあげたくない。このこだわり、わかるか?」
「そんなのわかるわけないじゃん」
とレイナは寝言を言った。
「レイナ、お前、起きてるのか?」
「起きてるよ」
とレイナは寝言を……いや、起きてるってよ。
「ごめんな。なんか腹減っちゃって、うるさかったか?」
「ううん」とレイナは掛け布団をはがして起き上がり、女座りみたい姿勢になった。「夢、見てたの」
「どんな夢なんだ?」
「……」
レイナは口をつぐんだ。浴衣がはだけて、白い太ももが露わになっている。レイナは言葉を探すようにして、唇を開いたり閉じたりした。
俺はレイナの言葉を待つフリをして、その視線を扇情的な太ももへと据えた。
レイナはやはり何かを言おうとした。そして断念したように下を向いた。
その瞬間、ぴんときた。レイナの夢の内容について、漠然とだが読み取ることができた。
「レイナ……」
消えるのを見送る者と、消えていく本人と、どちらが辛いかなんて考えるまでもなく分かるはずだった。
俺は食べかけのカップ麺を机に置いて、レイナのそばに寄って行った。
「レイナ、怖い夢でも見たか?」
そっとレイナの手を握る。冷たい手をしていた。
「大丈夫だ。俺がここにいるから。俺はお前のこと絶対に忘れないから」
レイナは儚げに俺を見上げて、
「夢の中で……さそりとか、麗奈ちゃんとか、姫ちゃんが……学校にいて、楽しそうに笑ってるの。私もその会話に混じりたくって、近寄ってみても、皆の声が……聞こえないの。まるで透明な壁に隔たれた別の世界みたいに……私はそっちへ行くことすらできなくて……」
瞳には、何度も見たはずの涙が、また浮かんでいた。
「だい……」
大丈夫だ。と言おうとして止めた。そんなものは虚しい慰めにしかならない。
俺はどうしたらいいのか分からなくなった。こんな風に迷ってしまうのは何度目だろう。だけど、本当に分からないのだから仕方ない。いくら頭をひねってレイナを励ますようなセリフをひねりだしても、結局のところレイナは消えてしまうのだ。レイナは消えて、麗奈が戻ってきて、俺は麗奈との日常を生きていく……それは決まっていることだ。そうであるべき結末だ。元からそうだったんだから。元からこの世界にいなかったレイナには、元通りいなくなってもらうしかない……。これは当然なことだ。当然なことなんだけれど、どうしてだろう。こんなことを考えている俺が、とても冷酷な人間のように思えてくる。
「どうして私、ここにいちゃいけないのかな……?」
とレイナは言った。俺は握りしめていた冷たいレイナの手を、放した。
「しょうがないだろ。お前の居場所は麗奈のものなんだから」
と俺は言った。こんなことを言ってしまったら、レイナは泣いてしまうだろうと、分かっていた。実はレイナは寝ぼけていて、朝になったら何も覚えていなかったらいいのに。俺の方も寝ぼけていて、言葉の選び方に失敗してしまったんだと、そう信じたい。
「……ふふ」とレイナは薄く笑みを浮かべた。
「嫌になっちゃうね……こんな世界……。こんなところ来たくてきたわけでもないのに。麗奈ちゃんになりたいなんて一度も願ったことないのに。そもそも願うとか思うとか、そんなことできないのに。元々私は無の存在なんだから。どういう原理で現れて、今こうして息をして悲しんでいるのか、全く不明な存在なんだから。ほんっと、私って何だろうね……」
「レイナ……」
もはや俺は、辛すぎて思考を放棄するしかない。何も言えない。
「でもね、さそり」
とレイナはその冷たい手で俺の手を握った。ひやりとした感触に、胸が苦しくなった。
「私、さそりのことが好き……」
「……なんでだよ。俺なんて、ただのクズなんだぜ。本当は麗奈に戻ってきて欲しいって、そう思ってるんだ……薄情なしだ……人の心なんて持ってないような……」
俺はまたいらないことを口走ってしまった。でもはやり、それが本心なのかもしれない。そしてさらに失言を重ねて、
「いくら取り繕っても、俺の心の中では麗奈が一番なんだ。レイナがいなくなってくれれば、大好きな麗奈に会えるって……ごめん……もう、充分だよな? 楽しい思い出、作れたか? 最後にめちゃくちゃになっちゃったかもしれないけど、おおむね合格点って感じだろ? もう、さよならだ、レイナ」
「酷いね……さそり。私の事、そんな風に思ってたんだ。いなくなっちゃう女の子に、そんな冷たいこと言うんだ。けど、そうだと思っていたよ。さそりって、たまに目が笑ってないっていうか。そういうとこ見る度に、ああ、この人は冷たい人間なのかもなあって、思ってた」
レイナの涙は止んでいた。感情を引っ込めて、淡々とした口調になっていた。
「どうせ私に優しくしてくれたのも、私の見た目がちょっと可愛かったからなんでしょ? これはこれでいいかも、しばらく堪能してみて飽きたらポイだって、そんな軽いノリで私をこの世界に引き止めたんだよね……? あの時、なんか偉そうに姫ちゃんにご高説のたまってたけど、本当は下心があったからなんでしょ? 傷つくな、そういうの。中途半端に時間を引き延ばして、結局さそりは何がしたかったの?」
とレイナは棒読みっぽく言った。しかし棒読みに聞こえるが、どこか俺を咎めている趣きも感じられた。いや、おそらく咎めている。
俺はレイナの言葉を反芻する。
「中途半端に時間を引き延ばして、か……。お前の言う通りだよ。俺は何がしたかったんだろうな」
自分の胸に、問うてみる。
セックスか? セックスはしたい。けど、そんな単純なことではない気がする。
セックス……俺はまだセックスをしたことがないけど、セックスって気持ちイイのだろうか。腰を振るのは疲れるのだろうか。精飲されると相手から承認された気分になるのだろうか。破瓜の痛みには、男としては相当気をつかわなければいけないのだろうか。ちなみに騎乗位は女の体重がどすんどすんと下腹部に衝撃をくらわしてきて苦しいって聞いたことがある。騎乗位は女にとっても上下の運動が辛いし、男も苦しい体位なのだ。じゃあ、正常位はどうだろう。これはこれで大変なのだ。女は脚を開いていればいいのだけど、正常位には男の側にそれなりの技術が求められる。
まあ、そんなことはどうでもいい。
あーあ。セックス一つで全てが解決しちゃえばいいのになあ……。
けどセックスなんて、そう簡単に上手くいくものではないんだ。AVみたいに、あんなスムーズに理想的に情熱的に淫靡にはいかないんだ。結局どこかで疲れてやめてしまうのさ……
「レイナ……セックスって、どう思う?」
と俺は素晴らしくナチュラルに訊いてみた。桜の花びらが風に吹かれて落ちていくくらいに自然な調子で。
しかし事に及ぶ前には同意を得なければいけないのだ。オムレツを作る前に必ず卵を割らなければいけないのと同じように。
レイナは無表情のまま数拍置いて、
「……いいよ、する? 処女なんて誰かにとっておくつもりないし。てゆうか私の体なんて、その存在ごとすぐに消えちゃうんだし。それに……好きな人となら……」
「え?」
と俺は疑問を発した。いまいち理解が追い付かない。
レイナは頬を朱に染めて、
「好きなの!」
「はあ。そりゃまた、どうしてだ」
「どうしてだろうね」とレイナは短くため息をついた。
「この気持ちって麗奈ちゃんのものなのかな……。私のものじゃあないのかもしれない。気づいた時には、すでに心の中にあったの。私にも、分からないな。なんでなんだろうね。でも悪くないって思うんだ。喧嘩しても、セックス一つで仲直りできるのなら、さ」
レイナはその細い指で、自分の髪をすっと梳いた。色気のある仕草だった。
こんな状況で興奮なんてできるかよ、と自分の機能に疑いを持ちながら、でも俺はこの好機を……二度と、もう今後生きていても、金輪際実現することはない、決して触れることができない、もう会えない、二度と見ることもない……その綺麗な顔を、唇を、体を、楽しかった思い出を……海馬に焼き付けるように……万感の思いを込めて、めちゃくちゃ〇〇〇した。




