チキ・チキ・絶対に見つかってはいけない温泉旅行Ⅳ
俺はごとごと揺れる電車の中で目を覚ました。無意識の習慣で時刻を確認する。午後二時。
ぼんやりとした頭で、ここはどこだろうと考える。窓外の景色はもうすっかり田舎だ。俺たちが知っている田舎より数倍くらいの田舎だった。全く知らない世界が広がっていた。写真でも見たことないような、そもそも写真に撮られて世に広まることもないような、世俗から切り離された異界。決して目的地にはならない地味な景色。そんな場所を俺たちはいつも通り過ぎて、留まることはない。
ふと、コーヒーが飲みたくなった。喉は渇いていなくても起きたらコーヒーが飲みたくなる性分なのだ。次に電車が停まったら、その駅のホームの自販機で買おうと思った。それまでは持ってきたマンガでも読んでおこう。
と、五分も経っていないのに、
「あ~首が痛くなってきたな~」
俺は手で首の筋肉をもみほぐしながら、横目でレイナをうかがった。
ごとごととやかましい電車の走行音は、レイナの寝息の音をかき消している。まるでレイナが呼吸をしていないんじゃないかという錯覚が頭をもたげてきた。俺はよく耳をそばだてて、レイナの寝息の音を探ってみた。レイナはすやすやと規則正しくスムーズに呼吸をしていた。それは確かめるまでもなく当然のことだった。俺は何を余計なことをしているんだろうと思った。寝ぼけているのだろうか。早くコーヒーを飲みたいと思った。そうすれば俺にまともな思考が戻ってくるはずだ。
午後二時十分。名も知らぬ駅に電車が停まった。レイナを一人残して、俺はホームに降りた。素早く視線を巡らして自販機を探した。ホームのベンチには制服姿の女子小学生がぽつねんと座っていて、なにやら暇そうにぽかーんとしていた。膝の上に大きなランドセルを載せていて、サイズ感的にそのランドセルはひどく重そうだった。
「ねえ君、自動販売機ってどこにあるか分かる?」
「あっち」
と少女は左の方を指差した。見ると、たしかにそこに、柱の影に隠れるように自販機が鎮座していた。俺は少女に礼を言って、自販機へと歩を進める。歩いていると、ひんやりとした空気の薄い膜のようなものを感じる。ここらの冬は寒そうだと思った。俺は自販機の前で少し迷って、結局コーヒーを一本だけ買った。当たり前の事だが、二百円を入れたら八十円のおつりが返ってきた。俺はなぜかそのことに感心してしまった。田舎の自販機が正常に動くとは思わなかったからだ。俺は自販機はどこにあっても正常に動くのだと学んだ。サービスのつもりで、新たに百五十円を入れてミネラルウォーターを買った。これはレイナが起きた時に渡す用に。
電車に戻る前に、俺は重ねて少女に礼を言った。少女は力なくうなずいて、
「お兄ちゃん、一人?」
と訊いてきた。特に興味は無さそうな言い方だったが、おそらく退屈しているのだろう。まだ電車は出発する気配がないみたいだし、俺は少女の隣にすっと座って、
「いいや、今旅行中」
「学校は?」
「今日は開校記念日なんだ。君はもう学校は終わったの?」
「うん。帰るとこ。私だけなんだ。電車通学」
と少女は静かに言った。どこか都会的な趣のある顔をしている。喋る時に、少ししか口を開かないで喋る癖があった。
「電車は好き?」
と俺は意味のない馬鹿な質問をした。子供と話していると、なぜか自分の知能が下がってしまう。子供の方はそこまで馬鹿ではないというのに。
「……電車なんて嫌い」
と少女は絞り出すような声で言った。こういう少女相手に、俺は何と言えばいいのか分からなかった。
「ちょっと待ってて」
と言って俺は電車の中に戻った。そして、さっきまで読んでいたマンガを持って少女の元へ引き返した。俺はぐっと親指を立てて、
「これからは、マンガが君の友達だよ!」
「マンガ? マンガなんてつまんない」
「大丈夫、これは少しだけエッチで小学生には刺激的なマンガだから」
「え、えっち?」
少女は興味も持ったように、マンガを手に取った。それから表紙の女の子をじーっと眺める。
「こんなマンガあるの?」
「君が知らないだけで、世の中には色んなマンガがあるんだよ。もっとエッチなマンガだってあるし、もっと残酷なマンガだってある」
「へえ~、中見てもいい?」
と少女は目を輝かせて俺を見上げた。俺はその目を見据えながら、ゆっくりとうなずいた。
「うわ~すごー!」
少女は子供みたいに興奮して叫んだ。予想以上に良いリアクションで、俺は無意識のまま頬の筋肉を緩ませていた。俺はつと立ち上がって、
「じゃあな。親には見つかっちゃだめだぞ」
「うん! ありがとう!」
その瞬間、発車ベルが鳴り響いた。俺は小走りで電車に乗った。振り返ると、閉まるドアの隙間から少女の姿が見えた。少女は俺を見送ることよりも、マンガの方に夢中になっていた。もしかしたら少女は後にこの事を思い出して俺のことをマンガの妖精か何かだと思うようになるかもしれない。
流れていく窓外の景色を眺めながら、俺は缶コーヒーをちびちび飲んだ。一人で飲んでいると、缶コーヒーはあっという間に空になった。缶コーヒーというものはこんなに量が少ないものなのかと思った。飲料メーカーに抗議してやりたくなったが、そんなことが俺にできるわけはなく、代わりに缶を握り潰してやろうとした。固い缶はびくともしなかった。
三時半。窓外の景色からは次第に緑が減っていき、建物が目立ってきた。しばらくすると景色の内の緑が占有する割合と建物が占有する割合が完全に逆転した。それは地方の発展する過程を撮ったフィルムのようだった。
大きな駅に着くと、どっと乗客が雪崩れ込んできた。そのざわめきに、レイナが目を覚ました。俺はレイナにミネラルウォーターを渡した。レイナは半分まぶたを閉じたまま喉を潤す。
「あ~すごい喉渇いてたみたい」
とレイナは言った。そして、とても美味しそうにまた一口飲んだ。
「もうすぐ四時だぞ」
「もうそんな時間なんだ。私が寝てる間に姫ちゃんたちに見つかったりしなかった?」
「それは大丈夫だ。暇だったから、マンガを一冊小学生にあげた」
「寝なかったの?」
「少しだけ」
「飲みすぎなんじゃない? コーヒー」
「そうかもしれない」
と俺は小さくうなずいた。二人とも寝てたら危ないからな、仕方ないことだ。
午後五時。大きな街のある駅を過ぎて、またいくつかの小さな駅も過ぎて、俺たちはついに辿り着いた。そこは大きくも小さくもない、温泉が名物の中くらいの観光地だった。比較的年齢層高めの観光客たちが駅周辺でがやがやと立ち話などをしていた。夕飯の店の相談でもしているのだろうか。飲食店とおぼしき店が沢山ある。俺は、レイナとここに来れてよかったと思った。こういう感想は最後の最後にとっておくべきなんだろうけど、ふと胸に浮かんでしまったのだから致し方ない。
「いいところだね」
とレイナは感動的に言った。十一月の午後五時ともなれば、俺たちの地元の感覚ではもうすっかり辺りは闇に包まれている時間だ。しかし遠く離れたこの場所でも、あまり差異はないらしく、空は紺色に塗りこめられていた。ほのかにオレンジ色の残っているように見えたが、それは見間違いがったのか、すぐに消えてしまった。
「さそり、こっちだよ」
とレイナが俺の腕を掴んで引いた。反対の方の手にスマホを持っていた。スマホには地図が表示されていて、レイナはそれを参照しながら俺の先に立って歩いた。ちなみにレイナの荷物は全部俺が引き受けている。俺の全身は鉛のように重い。
「あと五分くらいで着くはず、結構駅から近いね」
とレイナはスマホを操作しながら言った。こちらを振り返りもせずに。
俺は一メートルくらい後ろから、レイナの細い背中と揺れる黒髪をぼーっと見つめていた。良い光景だと思った。
曲がりくねった坂道の先に、オレンジ色の灯が見えてきた。実はそれは沈む夕陽の光でした……なんてことはなく、それは俺たちの泊まる宿である。古き良き和風の宿。
力を振り絞れ! ラストスパートだ! この坂を上り切れば、思いっっ切り休めるんだ!
しかし意識は朦朧としてきた。鉛のような疲労の重みが、俺から意識を奪おうとするのだ。もうだめなんじゃあないかと諦めかけたその時、俺の頭の中には懐かしい音楽が流れ始めた。その音楽が俺を応援してくれている。そっと背中を押してくれている。昔のジ〇リ映画の主題歌だったあの曲だ。コンクリートロードではないあの曲だ。英語版ではなく日本語版だ。不思議な力が湧いてきて、体が軽くなったような気がした。よし、これならいける! あの宿まであと少しだ!
と、宿の方を見上げたのだが、俺の前を歩いていたはずのレイナの姿が消えていた。
「あれ? レイナ?」
「こっち」
「え?」
「うしろ!」
事実、その声は俺の背中から聞こえた。肩越しにちらっと見ると、レイナが俺の背中を押していた。俺は少し微笑んで、
「背中押すくるらいなら荷物持ってくれよ」
「いいの。こういうのがお決まりなんだから」
とレイナは頼もしい調子で言った。でも少し息を切らしていた。
「さあ、頑張って!」
レイナは力を強めて、ぐっと背中を押し直した。




