青木行徳③
遠征から瀕死状態で戻ってきた沙依の意識が戻ったのを確認して、行徳は心の中でため息をついた。ふと視線を向けた先に幼い妹の幻が見えて、行徳は本当にお前はしつこいなと呟いた。
『ようやくここまできた。兄様がどれだけわたしを抑え付けても、もう沙依を止められない。沙依が神の領域にたどり着くのも時間の問題。兄様、そろそろ諦めようよ。』
「そうだな。よりよい未来はあの戦争を乗り越えることで得られる物だったが、それは諦めることにしよう。」
行徳のその言葉を聞いて末姫の幻はなんとも言えない顔をした。
「お前こそいいかげんに諦めろ。何度やったって俺の意思は変わらない。」
『変えてみせるよ、今度こそ。ようやくここまで来た。沙依の想いはいずれわたしと同じ所に到達する。そうすればわたしはより強く干渉でき、運命が兄様の邪魔をする。今度こそ兄様が普通に生きられる未来にわたしは運命を導いてみせるから。』
そう言い残して消えた幻に想いを馳せて行徳はお前は何も解っていないと呟いた。そう何も解っていない。末姫に情報を渡さないために誰に対しても本音を語ったことなどない。いくら神であっても自分と違って人の思考を読みとる事ができない末姫に自分の想いなどわかるはずがない。行徳はそう考えて、それでも神相手に諍いを続けるのは分が悪いなと思って苦笑した。時間の概念に縛られない末姫は何度でもやり直しがきく。繰り返してどんどん力を増していく末姫に対し、自分は一回きりの今を切り抜けなくてはいけない。自分の力ではもう縛れなくなった沙依の想いを感じて、今まではいくら末姫が妨害してきても沙依が自分の手の内にいてくれたが、これだけ沙依自身が末姫に近くなってしまうと今回は本当に厳しいなと行徳は思って小さく笑った。
「兄貴、いったいどういうことなのか教えてくれないか?」
執務室を訪ねてきた高英にそう言われて行徳は、どうもこうもお前の視た通りだと答えた。
「それでお前はどうしたいんだ?」
自分の問いに答えない高英に目を向けて行徳は軽く微笑んだ。
「心配しなくても沙依が視た未来は来ない。今の沙依じゃあれだけの拷問に耐えられないのにその未来を招く意味はない。俺は別に沙依を無駄に苦しめたい訳じゃないんだ。」
「なら兄貴の目的は何なんだ?」
「お前が知る必要はない。俺の邪魔をする気がないなら傍観してろ。どうせお前には俺を止められないが、邪魔をされると流石にきつい。」
そう高英では止められない。この双子の弟は自分によく似て独りよがりの意地っ張りで、とても臆病だ。ここじゃないどこかの時間軸で、同じように沙依を通して未来の可能性の一つを視た高英が、沙依が拷問陵辱されることとなる未来を回避するために自分にたてついたことがあった。でもそれは沙依が今の状態じゃなかったら、高英は彼女から視た未来の記憶を奪って、弱みにつけ込んで彼女を自分の物にできたから、一時でも彼女を自分の物にすることができたから彼女のために命を賭けることができた。だから刃向かえた。
「俺の目的が何であれ、沙依が俺と敵対するとして、お前は本気で俺とやり合うことはできないよ。解ってるだろ?あの子の気持ちはお前には傾かない。それにあの子の身にあれが降りかからないというのに、どれだけあの子に好意を抱いていても自分の物にならない女のために命は賭けられないだろ。」
そう言うと行徳はまた傍観してろと言った。
「結局、傍観する以外お前には何もできない。お前じゃ俺の考えていることは読めないし、今の沙依の記憶や思考を操作することもできやしない。全く、本当にあの子には手を焼かされる。迷惑でしかたがないよ。」
満更でもないような顔でそう言う行徳に、高英は怪訝な顔をした。
「高英。いつまでもあの子に依存してないで、そろそろお前もまともな人との関わり方を覚えろよ。もう今までみたいにお前の能力であの子を縛ることはできないから、そのうちおいて行かれるぞ。あの子もいつまでも自分の手の中で収まっていてくれる子供じゃない。子離れなのか、失恋なのかは解らないが、心の整理は必要だ。」
そう言って行徳は用がないなら帰るように高英を促した。
高英が去った執務室で行徳は一人物思いに更けた。同じ事を繰り返しても全く同じになることはない。それもこれも全てお前の仕業か。お前が繰り返す度に感情を豊かにし、想いを強く違う未来を望み続けた結果がきっとこうなんだな。高英もその影響を受けて変化している。感情が乏しかった頃の沙依との関わりでは高英があの子にあんな感情を抱くことなんてなかったのに。でもきっとどんなに歪な感情でも、人に想いを寄せて何かを望めるようになったと言うことは良いことなんだろう。その歪な感情をどこかで修正して他の奴ともまともに関われるようになれれば言うことがないんだがな。そんなことを考えて行徳は遠い昔に想いを馳せた。
それは行徳が最初の兄妹の長男である太郎だった頃のこと。末妹がこの世に生を受けた時から始まった。生まれたばかりの末妹を通して行徳は数多の未来の可能性を視た。そしてそれに倣って能力で末妹の記憶と能力を縛った。数多の未来を視た瞬間、行徳は自分が何を目指し、何をすべきか解った。だからそれに従った。
今でもよく自分に話しかけてきて度々自分の邪魔をする末姫は、末妹が生まれた時には存在していた。そして自分が太郎だった時から度々妹の身体を通して自分に働きかけてきた。なんとか自分を止めようと働きかけてくる彼女の言葉に耳を傾けながら、行徳はいつも彼女の成長を感じて胸が温かくなった。
末姫は何も解ってはいない。本当に俺が何を求めてるのか。俺が何を成そうとしているのか。末姫はきっと俺の目的があの子の代わりに父親の贄になることだと思っている。それも間違いじゃない。でも自分の願いは末姫を父の贄にさせない事だけじゃない。そんなことを考えて、苦悩する沙依の感情を感じて、行徳は末姫に想いを馳せた。長かったな末姫。よくここまで頑張った。俺は最初にそれを願った俺ではないけれど、それでも念願が叶いそうな予感を嬉しく思うよ。
自分が実感できる時間はほんの一部ではあるが、ここに至るまで本当に長かったと行徳は思う。どの時間軸でも行徳は、明確な目的を定めることで末姫も沙依もそこに向かうようにずっと仕向けていた。自分が頑なになることで末姫が自分を助けようと必死になるように仕向けていた。途中で他の邪魔が入らないように一番家族想いで意志の強かった次郎に自分への憎しみを植え付けて、彼の目を欺き、また他への目眩ましに利用した。次郎の思春期に芽生えた性的好奇心と妹への想いを繋げて、自分のその感情に対する背徳感や罪悪感、葛藤から彼が冷静な判断ができなくなるように、後ろめたさから兄弟から距離を置くように仕向けた。そして沙依が最も多くの経験を積むことができる未来にいつでも誘導した。そんなことを繰り返してようやくここまでたどり着いた。本当に長かった。そう思って行徳は感慨深い思いがした。父が父の願いだけで作り出し、父親を想う以外何の感情も自我さえも持っていなかった妹を人にすること。それが長兄の願いだった。今、末姫も沙依もかつてないほどに感情を有し自分の前に立ちはだかろうとしている。自分の身代わりになろうと頑なになっている兄をあの子達はどうやって説得しに来るのだろうか。沢山苦悩し、沢山考え、多くのことを想って、どんな答えを導き出すのだろうか。彼女たちが自分でその答えを導き出せたとき、それは彼女たちがより人に近い存在になった時。つまりそれが自分の願いが叶うとき。行徳はそれが楽しみでしかたがなかった。
最初から末妹を人にすることを目的にしていたわけではない。多分一番最初。何も知らなかった太郎は、母が魂を壊された傀儡であることや母の中にいる異様な存在に怯え、最後に生まれた人ではない末妹の存在に戸惑い、怯えながら訳のわからないままただ時を過ごしているうちに、父が狂わされ、自分を含めた兄弟達は母の中にいた何者かの手に落ちた。その未来を視たであろう自分は、それを回避するために奮闘した。沢山の失敗を重ね。ようやくたどり着いた家族をアレに奪われずにすんだ未来では、末妹を除いた兄弟達が実家を出てそれぞれの家庭を築いて落ち着いた頃、父は末妹を拐かし姿を消した。アレに狂わされて末姫を拐かした時とは違い、冷静な父は自分達には決して手が出すことのできない領域に末妹を連れ去った。そして太郎は今度は父の手から末妹を助けようと奮闘するようになり、そして最終的に妹を人にすることを目的に行動するようになった。
未来の可能性を覗いただけでは自分が実際に能力を使って何をしたのかは解らない。でも、その行動を見れば何を考えていたのか行徳には解った。何故ならその未来を過ごしていたのは紛れもなく自分自身で、そしてその未来を視て自分の中に芽生えた感情も、意思も、まぎれもなく自分の物だったから。
多分きっと最初は能力で末姫に感情を植え付けた。でも自分の時には能力で何かする必要もなく末姫は感情を持っていた。それでも止まらなかったのはそれだけでは足りなかったから。結局自分も全てが上手くいく未来を望んでいるんだろうなと思って行徳は苦笑した。兄弟達がアレの手に落ちないこと。父の手から末妹を解放すること。末妹を人にすること。それら全てを自分は諦め切れない。だからこんなことを続けている。どの時間軸でも自分はずっとこんなことをしている。だから末姫、ただ自分の身代わりにしないように俺を止めようとしても無駄だぞ。それだけじゃ足りない。俺はお前と同じで貪欲なんだ。そしてお前と違って今しかない自分は、全てが手に入らないならより良いと思う選択をする。俺の第二希望はこの時間軸にいる沙依が視たあの未来で、それが適わないならそれにより近づけるようにするだけ。遠い未来の可能性の中で俺はいつだって言ってるだろ。俺はお前達が平穏に過ごしている姿が見れるならそれで充分なんだ。それが適うなら俺は満足なんだ。それ以上を何も求めていないのに、そんな俺をどうにかしようなんて、全く馬鹿な話しだぞ。そう思って行徳は小さく笑った。
○ ○
『兄様。沙依がついにわたしの所に追いついたよ。兄様がこの世界から失われる前に沙依をわたしと同じ領域に来させられた。これでもう兄様は絶対に沙依を縛れない。これでここにいるもう一人のわたしは兄様と対等に渡り合える。だからさ、そろそろ諦めない?兄様。わたしは兄様が普通に生きていられる未来を見てみたい。』
末姫の幻にそう言われて、行徳は薄く笑った。
「お前が何と言っても俺の意思は変わらない。沙依に俺の能力が効かなくなったところで問題はない。」
『今の兄様はわたしを通して視た未来に縛られて、太郎だった時からずっと自分の人生をちゃんと生きてない。使命感に囚われて、最後には自分が終わることを目指して、ちゃんと自分が幸せに生きることを考えた事もないじゃない。』
「そんなことはない。俺自身がやったことではないが、様々な時間軸の俺が色々と考え行動し、最後にたどり着いた結論がこれだった。俺自身の幸せも考えた結果がこれだと思ったからこうしている。自分に我慢を強いるだけなら、とっくの昔にお前に懐柔されている。これは俺自身が心から願ってやっていることだ。」
そう言うと行徳は妹の頭をそっと撫でた。幻だと解っているのに、そこに実際に幼い妹がいるように感じることが不思議だった。太郎だったころは実際の末姫を通してしか接触してこなかったこの存在は、いつからこうやって本体を通さずに自分に働きかけるようになったのだっただろう。そんなことを考えて行徳は、そうか自分が末姫と自分の精神を繋げたのだったなと思った。より人に近づいた末姫は天上の者に狂わされた父の狂気に耐えることができなかった。父に拐かされ無自覚に父を夢に封印し、孤独と恐怖の中で気を病んでしまった妹を支えるために自分が彼女と自分を繋げた結果、この存在はこうやって直接自分に働きかけられるようになったのだ。
『兄様は自分が知っている以外の未来が怖いだけだよ。兄様が普通に生きている世界にも皆が幸せになれる可能性があるはずなのに、兄様はその可能性を勝手に諦めちゃっただけでしょ。兄様の弱虫。』
俯きながらそう言って末姫の幻は消えた。
弱虫か。そうかもしれないな。指摘された通り自分はそれ以外の未来が怖い。しかし、自分が知っている中で一番良いものを選んでそれに近づけようとすることの何がいけないというのだ。一番堅実な選択をすることは悪いことじゃないだろ。そんなことを考えて行徳は今の沙依に想いを馳せた。そして、自分に働きかけていた末姫は陽動かと思って心の中でため息をついた。行徳は末姫の幻とはただ会話をしていたわけではない。いつだってあの存在は行徳の心の隙に入り込んで彼の意思をくじけさせようと働きかけていた。人の意識に働きかけてその行動を縛る。本来あの存在はそういうものなのだ。あの存在は天啓とも悪魔の囁きとも称されるそういう概念なのだ。その言葉に耳を傾けて少しでも心がそれに向けばたちまち行動は支配されてしまう。そういう存在と対峙することは骨が折れる事だった。
沙依は自分の支配を逃れ、次郎まで記憶を戻し、自分とほぼ変わらない能力を持った高英はどっちつかずとはいえ自分に不信感を持っている。これは流石に分が悪い。それにまさかそんな大それたことを考えてくるとはな。沙依の思考と現在の状況を把握した行徳はそんなことを考えて思考を巡らせた。末姫の言葉に耳を傾ける気はない。しかし、沙依の話しなら少し聞いてやっても良いかもしれない。もしかしたら俺も末姫も納得できるような、今までとは違う道が拓ける可能性が本当にあるかもしれないな。そんなことを考えながら行徳は沙依が自分を訊ねてくるのを待った。
長かったな末姫。ここに至るまでにお前はいったいどれだけの経験をしてどれだけのことを考えて、どれだけやり直しをして繰り返してきたんだ。俺をここまで追い詰めて、今お前はどんな気分だ。これでお前の望む通りの結末がやってきたら、お前はいったいどんな想いを抱くんだろうな。
執務室の扉をノックする音が聞こえ、行徳は入るように促した。
「兄様、はぐらかさないで真剣にわたしの話しを聞いてくれる?」
神妙な面持ちでそう言う沙依に、行徳は優しく笑いかけた。
「そうだな。聞かせてもらおうか。お前がどうしてその結論にたどり着いたのか、お前の想いや考えを。」
そう言って行徳は沙依の言葉に耳傾けた。真剣な眼差しを向けて自分の想いをぶつけてくる沙依の心を感じながら、行徳はこの子は結局人にはなれなかったなと思った。今のこの子は、かつて自分達の父親だった存在と同じ人の領域に堕とされた神だ。そして末姫は、神の領域に囚われた人になった。これが俺が望んだことの結果か。そう考えると行徳の胸になんとも表現しがたいもやもやが広がった。
「沙依。神になった気分はどうだ?」
そう訊ねた行徳に、沙依はわたしは人だよと答えた。
「確かに今のわたしは意識をずらせば神の領域にも行ける。でも、神であるわたしとここにいるわたしは別の存在なんだ。もっと言うと、他の時間軸のわたしもみんな別の存在。皆同じ意識をもった同じ存在だけど、違う意思をもった別の存在なんだよ。」
そう言って沙依は困ったように笑った。
「兄様、人の概念で神を計ることは不可能だよ。わたしはここにこうして存在している。だからわたしは人である。認識としてはそれだけでいいと思うんだ。わたしは少しだけ他の人より想像力が豊かで、もしもの世界をより現実的に想像できてしまうだけのただの人。それじゃだめかな?」
そう言われて行徳の中に何かがすとんと入り込んだ。そうか、想像力が豊かなだけのただの人か。そう言われてしまうともう何も言えないな。そう思うと行徳の胸に広がったもやは綺麗に無くなって、気の抜けた感じだけがそこに残った。
「全く、本当にお前には適わないな。俺の負けだ。」
そう言って頭を撫でると驚いた顔で沙依が見上げてきて、行徳は少しだけ困ったような顔で笑った。
「兄様がこんなにあっさり折れるなんて思ってもみなかった。」
きょとんとしながらそう言いつつ、実感を伴うにつれて沙依の顔に笑顔が広がった。
「兄様大好き。これからは兄様も一緒だね。」
そう言って飛びついてくる沙依に、まだ何も終わっていないんだから喜ぶのは早いぞと言いつつ、行徳は生まれて初めて心から笑った。自分がちゃんと生きようとすることを選ぶだけで、こいつはこんなにも喜ぶんだな。長兄が自分の人生を諦める選択を止めたことを心の底から喜ぶ沙依の想いを感じて、胸に暖かいものが溢れて行徳は自分の心が満たされるのを感じた。




