01話 プロローグ
「はぁっ、はぁっ、」
駆ける。
「く……ぁ、はぁっ、」
身体中、傷だらけで。
意識も、朦朧としていて。
それでも。
走らなければいけない。
逃げなければいけない。
あと、少し。
あと少しで──。
「もうあの女は虫の息だ! 追い込め! ここで捕らえる!」
追っ手の無慈悲な怒号が迫っている。
怖い。
追いかけてくるあの男たちは、私を殺す気だ。
何も、悪いことなんてしていないのに。
ただ、ひっそりと生きていただけなのに。
なんで、なんで、なんで──私を殺そうとするの。
──死にたくない。
それは、生に縋り付きたいという思いからではない。
お母さん、お父さん──私を逃がしてくれた、両親のために。
こんなところで、死ぬ訳にはいかない。
二人のために、私は生きなければならない。
──だが。
身体がそれに、付いてこなかった。
「……ぁっ」
逃げ回るうちに迷い込んだ路地裏。
バランスを保つ力さえ失われていた私は、小さな段差に足を取られ、そのままふらふらと数歩進んで──倒れた。
血を流しすぎた。すべての感覚が、遠い。
もう、立ち上がる力が残っていない。
結局、逃げ切ることはできなかった。
──悔しい、なぁ……。
おぼろげだが、追っ手の声はもうすぐそこまで迫っているように感じた。
きっともう、ここで終わりだ。
この人気のない路地裏で、私の生はひっそりと終焉を迎えるのだろう。
──ごめんなさい、お父さん、お母さん。せっかく逃がしてくれたのに……私、もう、動けないよ……。
死にたくない。
その思いだけが、空虚に胸の内を空回りする。
抗いようのない死が、背後から迫っている。
──でも。
諦めることだけは、したくない。それはきっと、命を懸けて私を救ってくれた両親を裏切ることになるから。
──だから。
私は、手を伸ばす。
どこにも届かないその手を、ひたすらに伸ばす。
意識が落ちる、その時まで。
私は、死に抗い続ける。
☆★☆
二〇一七年、五月二十三日――日本は変わってしまった。
後に『運命の日』と呼ばれるその日、日本全土を襲ったそれは「人間」と「土地」に異変をもたらした。
謎の地下エネルギー、通称『龍脈エネルギー』の噴出。
薄紫色でいかにも毒々しいガスであるそれは、人口密集地である東京や大阪を中心に、地割れとともに一気に地表に現れた。研究者たちがこぞって正体不明と答えた龍脈だったが、ガスを吸った人間には何の影響もないように思われた――
しかし、異変は後からやってきた。
『運命の日』から一カ月ほど経ったある日だった。とある病院にて、助産婦や医師たちの間でおかしな噂が流れていた。
曰く、「赤ちゃんが心霊現象を引き起こしている」と。
そんな馬鹿な、と誰もが思った。だが実際に何人もそういう証言をする者が現れ始めたのだ。困り果てた病院の医院長は、親に許可を取ってその赤ちゃんの部屋にカメラを設置した。
すると、どうだろう。赤ちゃんの夜泣きとともに周りの機材がカタカタと音を立て始めたのだ。
そんな現象が見つかって以降、日本各地で同様に怪奇現象の報告が上がった。
割合はおおよそ一万人に一人。
そのような赤子たちは『新世代』と名付けられた。
「運命の日以降に生まれた新生児は、私たち普通の人間には存在しない何かを持っている」
そう断定した国の対策チームは研究を進めた。赤子が成長するとともに新事実が次々と明らかになっていき、そして様々な検証を経て結論が出された。それは――
新世代には龍脈エネルギーを自在に扱う力がある、ということだった。
この俺――刃鉄卿介も、新世代の一人である。
運命の日から二年後――二〇一九年に生まれた俺は、生まれてすぐに研究所に放り込まれた。
新世代の子供たちを集め、極秘で龍脈エネルギーの正体を探ろうとしていたその研究所では、俺たち新世代は研究材料でしかなかった。
一日何時間も身体中にコードにつながれ、それが終われば洗脳に近い教育。味気ない食事を摂り、決まった時間に就寝する。全ての行動は研究所の管理下だった。
なぜここまでのことをするのか?
――それは、日本中が新世代の力を恐れたからである。
簡単なポルターガイスト現象程度で収まればよかった。だが、新世代の力はその程度ではなかったのだ。一部地域だけ大嵐に見舞われたり、火事を引き起こすなどということが平気で発生した。だからこその洗脳であり、管理である。
国民は新世代を「悪魔の子だ」と恐怖した。国はその暴動を抑え込むためにも、このような隔離体制を取らざるを得なくなったのだ。
新生代の子供を産んだ親も、抵抗する者も多かったが子を差し出す以外に道はなかった。
俺を含め、新世代の子供に親の愛情を受けて育った奴はいない。
日本中が正体不明の龍脈エネルギーに恐れていた。それでも大規模な被害は出ることなく、日本は一応の平穏を取り戻したかに見えた。
――それをあざ笑うかのように、さらなる事件は起きた。
最初の新世代登場から十年。俺は八歳になっていた。
依然ガスが充満しており、それを恐れた住人の多くが転居した首都圏を除き、復興は進んでいた。日常が、少しずつ戻ってきていた。
変わったのは、龍脈のエネルギーを自在に操って魔法のような能力を使うことができる『新世代』の存在だけ。とはいえ、最年長でもまだ十歳の子供。急ピッチで整えられた隔離教育体制により、人々は龍脈エネルギーなんて存在しないかのように生活していた。
そんなかりそめの日常は、唐突に崩壊した。
その日、研究員たちは龍脈エネルギーを調べるため、無人となった首都東京に来ていた。そこで、ガスマスクをつけた研究員たちは、見た。
高層ビル街の一角で――空間が割れた。
そう表現することしかできなかった。空間そのものにヒビが入り、次第に広がっていく。バリバリと剥がれ落ちていくように、ゆっくりと空間を侵食していく。
研究員たちは急いで帰還し、それを政府に報告すると、すぐさま対策チームが立てられ、調査が始まった。
調査中も、裂け目はゆっくりと広がっていく。このまま何の策も得られないまま時だけが過ぎていけば、東京が……いや、日本中が飲み込まれてしまうかもしれない。
そんな焦燥の中、それでも対策チームは、十年かけて積み上げてきた龍脈エネルギーの研究を利用して事実を明らかにしていった。すなわち――
この現象は、十年かけて溜まった龍脈エネルギーが引き起こした現象であり。
この裂け目の向こうには、地球ではないどこか別の世界が広がっており。
これを食い止めるためには、裂け目の向こうに行き、龍脈エネルギーの供給を絶つ以外にない、と。
そして――
裂け目の向こう側に行けるのは、龍脈エネルギーに対して親和性の高い新世代だけだ、と。
政府は、迷うことなく俺たち新世代を向こう側に送り込む決断をした。
八歳以上の新世代が何人か駆り出され、俺は運悪くそれに選ばれてしまった。
――いや、運ではない。あの時選ばれたメンバーは、誰もが「龍脈エネルギーの扱いが下手」な人間だった。研究材料として価値がないから、優先的に人柱にされたのだ。俺はその中でも一番扱いが下手だった。ガキだった俺にも分かり切っていた――政府は、ここで俺たちが犠牲になっても痛くも痒くもないのだ。。
扱いも知らない武器をいくつも持たされ、何が起きるかわからない世界に放り込まれる。逃げ出すことは許されない。幼かった俺たちは泣きながら裂け目に入っていった。
それから先のこと良く覚えていない。
奇怪な植物が生い茂る森のど真ん中に投げ出され、見たこともない巨大な怪物に追われ、走り回るうちに少しずつ新世代の子供が減っていく。
嫌だ。
助けて。
こっちに来るな。
死にたくない。
怨嗟を孕んだ泣き叫びが、一つ、また一つと消えていく。
泥と血で体を汚しながらも、俺はがむしゃらに走った。
目的地はない。それでも、この地獄から抜け出す方法はきっとある――そう自分に言い聞かせないと、気が狂ってしまいそうだった。
必死で逃げ回り、やがて残る新世代が片手で数えられるほどになった頃。
俺たちの目の前に、巨大な門が現れた。
それが何なのか、考える余裕は既になかった。俺たちは犠牲を出し、怪物をやり過ごしながら門へ突っ込んでいった。
その過程で――俺の知り合いだったあの子も、目の前で怪物に食われた。
「助けて、ケイスケ君」。そう叫びながら怪物の口の中に引きずりこまれていった。
ぐちゃり、ぐちゃりと、肉を潰し骨を砕く咀嚼音が響く。
俺は彼女を犠牲にして門へたどり着いた俺たちは、狂ったように足を動かした。
奥に何か、強烈なエネルギーを放つ物体が存在する。落ちこぼれの新世代であった俺たちにも分かるほど、巨大なエネルギーの塊だ。新世代である俺たちには、それが龍脈エネルギーの塊であると直感的に分かった。
うすぼんやりと光を発するこぶし大の宝石のようなそれ――巨大なエネルギーの塊を、叩き壊した。
すると周りの景色がぐん、と遠くなり、色が薄れていく。合わせて感覚がなくなり、視界が光に包まれて――
気が付くとそこは、裂け目のあった高層ビル街の一角だった。
この裂け目の調査――それが、『迷宮』探索の始まりである。