はるのそら
―――ごぼ。
ごぼ。ごぼ。ごぼ。
暗く、静かな空間に、水音だけが響いている。
音源は、研究室の片隅にある巨大な水槽。
いくつもの泡が、立ち上っては消えて行く。
水槽の中には、少女が一人。膝を抱えたまま浮かんでいる。
彼女は、今年の初め、まだ雪の残る二月の明け方に発生した。
その肌は、透き通るほど白く。
幼さを残した顔立ちは、汚れを知らない水晶のよう。
けれどもその頭の中には、この世の全てを網羅した知識を宿している、と言われている。
―――人工生命体―――
かつて、何人もの錬金術師達が夢見み潰えていった、その研究成果の結晶が、ここに在る。
やがて、少女は目を開いた。
ぼんやりと濁った世界。
それらがもたらす情報は、なんの意味を与えない。
ただ、細長く伸びた影がゆらゆらと、ゆらゆらと。
粘度の高い液体を通して、少女の視界に飛び込んでくるだけだ。
暫くして、一つの影が目の前に立ち止まった。
視覚をコントロールするように、意識に力を込める。
それは、ゆっくりと明瞭な形を結び始めて、意味のある形となった。
一人の青年がいる。
硝子と、それを満たす液体と、少女の網膜と。
いくつもの屈折率の異なった距離を越えて、少女は青年と相対した。
ごぼり。ごぼり。
少女はゆっくりと口を開く。
何かを、伝えようとしている。
声は出ない。
泡となって消えていくだけだ。
ごぼり。ごぼり。
青年は頷き、傍らの何かを動かしている。
ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。
水槽から、泡が急速に立ち上り、水位が下がっていった。
ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。
再び視界が濁ってゆく。
もう視覚は意味を成さない。
だから、少女は目を閉じた。
ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。ごぼ。
こうして、私は一人の青年と出会ったのだ。
「もう、春ですね」
「・・・ん?」
「良い天気です。きっと、外は」
私は彼を見つめる。
「まだ散歩に出かけられるほど、君の身体は強くない」
彼は、コンピュータに向かったまま私に話しかける。
「外に出なくても判ります。春は暖かくて、光がいっぱいで」
「・・・そんでもって、花が咲いたり緑が芽吹いたりして、幸せな気分になるのです」
椅子に座って、窓を眺める。
窓から風を通して入ってくる、空気の匂い。
カーテンを通した光の帯が、春の到来を私に伝えてくれる。
私は、「そら」と言う名前になった。
そして、青年の名は、アキラだと言うことが判った。
私の身体の奥深くには、小さな核がある。
世界の全ての知識を司る、叡智の結晶。
アカシックレコードと呼ばれる、小さな石を身体に埋め込まれて生まれた私は、生まれながらに世界の全ての知識を持っている、はずだった。
私は知識どころか、言葉も、感情も、身体の動かし方さえも知らないまま生まれてきてしまったのだった。
初めは言葉さえもわからなかった私を、アキラは根気よく教えてくれた。
ひと月が経ち、一通りの言葉を教わった私は、文字を覚えるようになった。
そしてまたひと月。
この家の全ての本を読み尽くしてしまった私は、コンピュータを使って、世界中から知識を吸収していった。
インターネットは、様々な知識で溢れている。
正しいこと、正しくないこと。
おもしろいこと、楽しいこと。
怖いこと、悲しいこと。
私はそこで、感情を覚えていった。
その代わりと言ってはなんだけれど、言葉遣いが多少悪くなったかも知れない。
以前、覚えたての汚い言葉を使って、アキラを悲しませてしまったことがあった。
あんな顔をしたアキラを見たのは初めてだった。
そのときから私は、なるべく丁寧な言葉を使うように心がけるようにした。
「そら」
アキラが、私に話しかける。
優しい、慈しみのある声だ。
手には注射針を持っている。
朱く透き通った液体が、中を満たしている。
「はい」
私は素直に右腕を差し出す。
アキラは私の右手を取って、暫く脈を測った。
とくん、とくん。
小さな音が、私の身体を駆けめぐっている。
アキラは耳を澄ませて、血液の流れを聞き取っている。
私はこのままでは、長くは生きられない。
身体に欠陥があるそうで、定期的に血漿を追加しなければならないのだ。
血漿の供給元は、もちろんアキラだ。
私はアキラの身体の構成物を使って作られたため、一番効率が良いのだそうだ。
アキラは自分の身体を削って、私に命を与えてくれる。
だからアキラとは、兄妹とも言えるかも知れない。
父であり、母であり、そして、兄。
けれど、そもそも人ではない私は、肉親にはなれない。
・・・なんだか変な関係だ。
「ぼぅっとしてる。なにか、考え事?」
言いながらアキラは私の腕を取る。
右腕に走る鋭い痛み。
突き立てられた針を通して、朱い液体が少しずつ私の身体へ吸い込まれて行く。
「痛いのは嫌だな、って思いました」
自然と、顔をしかめてしまう。
「もうしばらくの辛抱だよ。研究が完成すればきっと――」
今アキラが一生懸命研究しているものは、私の欠損した機能を補完してくれる、新しい薬。
それが在れば、もうこんなに痛い思いをしないで済む。
薬は全部、私の身体へ吸い込まれていった。
アキラはなるべく痛くないように針を抜いて、そして頭を撫でてくれた。
その心地よさに、私はいつも目を閉じてしまう。
幸せ、なのだろう。今のこの状態が。
この感情は、何というのだろう?
よく、わからない。
「アキラ」
「ん?」
「・・・どうして、私を作ったんですか?」
今まで言い出せなかった疑問が、口をついて出た。
「・・・・・・」
頭を撫でてくれていた、大きな手のひらが、ぴたりと止まった。
私は寂しくなって目を開けてしまう。
アキラは外を眺め、考えているようだった。
「・・・アキラ?」
「そろそろ、話さなければならないと思っていたよ」
アキラは両手を私の肩に添える。
「そら。君を作った理由は――」
昔話だった。
アキラには、とても仲の良い妹が居た。
妹の名前は、サクラと言った。
サクラは小さいときから病気がちで、学校にも行けずいつも伏せっていた。
病床の窓から外を眺めては、アキラに学校であった話をせがんだ。
毎日毎日、アキラは学校から帰ると、サクラの待つ病室へ直行し、一日の出来事を語った。
サクラはその話を聞いて、兄と共に喜び、笑った。
思い出を共有することによって、妹の退屈な一日を、兄は素晴らしい一日に置き換えたのだった。
そんなある日、サクラの体調が悪化した。
一日の大半を寝て過ごすようになり、会話できる時間も少なくなった。
サクラの身体に残された命の少なさを、幼い兄は誰に聞かされるともなく、実感した。
兄は妹の体中に取り付けられたチューブの束を、慎重にかき分け、妹に近づいた。
そして、細木のようになってしまった妹の手を握りしめて、兄妹は一つの約束をしたのだった。
桜の咲く頃になったら、公園に連れてってあげるよ。
いつか、元気になったサクラと一緒に、桜並木を共に歩こう。
だから、早く元気になって。
いつかきっと、君を連れて行くから。
だから、元気になって。
桜の花の咲く頃に。
いつか、いつか、いつか・・・
でも、そのいつかは永遠に来なくなった。
翌年の朝。
サクラは、桜の花を見ること無く、幼い命を散らした。
アキラは悲嘆し、自分の無力さを呪った。
それからアキラは研究に没頭して、実験を繰り返し。
失敗して失敗して、それでも研究を続けて。
――20年の月日が経ったのだった。
「そうして生まれたのが、私だったのですね」
「――そうだ」
アキラは、私の肩に手を置いたまま、小さく震えている。
「そら。君が生まれたのは、全くの偶然だった。
実験は失敗の連続で、成功の片鱗さえ見いだすことは出来なかった。
なぜ君が生まれたのか、今でも完全に理解できているわけではない。
はっきり言って、もう一度同じ結果を出すことは出来ないだろう。
僕は、奇跡だと思った」
そう言いながら、掛けた右手に力がこもっていった。
アキラは泣いているのかも知れない。
私には、顔を上げてアキラを見る勇気がなかった。
妹を亡くした悲しみの結果、私が生まれたのだ。
――私はアキラの妹の、代替物だ。
目の前がくらくらした。
「――でも」
「・・・ん?」
「どうして、私に妹の名前を付けなかったのですか?」
口を開いた瞬間に後悔した。
私は必死で自分の感情を押し殺す。
理性的であるように。
私の激情を、アキラに見透かされないように。
「それは・・・」
アキラが俯く。
妹がそんなに大事だったのならば。
妹の生まれ変わりとして、私を作ったのならば。
「私は「そら」ではなく「サクラ」となるべきだったのではないでしょうか」
代替品。
私の存在意義は、がらがらと崩れ去ってゆく。
作られた人間である私は、生まれた意味すら失いかけていた。
「それは違う」
アキラは、私を見据えて、はっきりと言った。
「初めは君を、利用しようとしていた。
もう一度妹とやりなおしたくて。
妹を幸せにしてあげたくて。
でも、医学の研究では不可能だと言うことも判っていた。
新しい知識が欲しかった。
生まれながらに全ての知識を持った君に、全てを頼ろうとしたんだ。
毎日が失敗続きで、奇跡なんてちっとも起こらなくて。
この20年間は、本当に死んだような生活だった。」
「君が生まれて最初は喜んだよ。これで研究が進む、ってね。
でもすぐに落胆した。君は全ての知識を失っていたから。
頼ろうとした相手に、逆に頼られてしまっていた。
仕方なしに、君を教え始めた。
君はあっという間に知識を吸収して、普通の女の子と同等レベルの知識を持つようになった。
そして君を調べていくうちに・・・君に、妹と同じ症状が現れていることを知った。
当時の医学ではどうにもならなかったかも知れないけれど、今ならば君を救うことが出来る」
「そら。君の名前は、僕とサクラが眺めたあの窓越しの空から取ったんだ。
僕たちにとって、春の空はとても碧く、広く感じられた。
いつか二人で、あの空の下へ飛び出していけるんだって、意味もなく信じていた」
「君が生まれた経緯は、確かに奇跡だったけれど。
その奇跡は、神様が妹の代わりとして与えてくれたものじゃなくて。
妹が『きちんと前を向いて生きていきなさい』と伝える為に、
僕の元へ送り出してくれたんじゃないのかな、と思うようになったんだ。
君は、君だ。
誰にも代えることの出来ない、たった一人の「そら」なんだ」
どれだけ時が過ぎたのだろう。
初めて会ったあの時のように。
ぼやけた視界の中で、アキラと私は、いつまでも見つめ合っていた。
春の陽射しは暖かく、私に勇気と希望を与えてくれそうな気がした。
私の心は、作られたモノなのかも知れないけれど。
心の中で芽生えた始めた感情の正体を。
私は今。
ようやく、悟ったのだ。
この湧き上がる気持ちを、押し寄せるような情動を。
―――人はきっと、「恋」と呼ぶのだ。
私は覚悟を決めた。
目を閉じて。
大きく深呼吸して。
そして、勢いを付けてアキラの身体に飛び込んだ。
赤面しているのが自分でも判るので、あえて目はつぶってしまう。
アキラは、私にそらという名前をくれた。
私はアキラに、何をしてあげられるのだろう?
・・・私が出来ることは、そんなに多くない。
アキラを幸せにしてあげること。
外に出たら、アキラと一緒に桜を見に行くこと。
そして、アキラとずっと、ずぅぅっと、一緒に居てあげること。
恋でも愛でも、本物でも偽物でも、なんでもいい。
私は―――
「あなたが、好きです」
了
昔書いた小説を一部焼き直して投稿。
一部こっぱずかしい表現があるが、当時の感性を信じることにする。