魔法少女おばあちゃん
学校から帰って早々、宿題の漢字ドリルの書き写しをやっていた時だった。
むっ、これは――!
田んぼの泥を全身に塗りたくられたような、ドロッとした気配を感じた私は、すぐに宿題の手を止めた。
間違いない。この近くの誰かが困っている。
私はノートを開きっぱなしにしたまま部屋を飛び出し、その勢いのまま家からも飛び出した。
十歳の誕生日を迎えた、四月のある夜のことだった。フリフリがいっぱい付いたドレスを着た、女王様風の人が私の枕元に現れたのは――。
レモン色の綺麗なドレスと、頭の上で輝く銀色のティアラに見とれている私に向かって、女王様みたいな人は穏やかな声でこう言った。
「あなたが十歳になるのを待っておりました。あなたはこれから魔法少女として、現世で困っている方たちを救っていくのです」
そして女王様っぽい人は私の頭に手を置き、『特別な力』を授けてくれたのだった。
正直、やけに鮮明な夢だなあ……としか思っていなかった。四年生にもなって魔法少女になりたい願望が自分にあったのかと、目覚めてからちょっと恥ずかしくなってしまったほどだ。
でも、それは夢なんかではなかったのだ。
ほんの出来心で『変身♪』と軽く言ってみたところ、なんと私は本当に変身してしまったのである。その時の驚きと絶望は、ちょっとここでは語りきることができない。
その女王様は、こことは違う世界の神様だと言った。神様が言うには、私の前世はこことは別の世界に住む、魔法少女だった……らしい。
前世の私は、人々のために力を使って悪と戦っていたそうだ。そして『少女』と呼べる年齢ではなくなってしまった頃に、次の魔法少女候補にバトンタッチ。
そのまま平和に隠居生活を送っていたものの、晩年になって邪悪な行動をするようになってしまったらしい。いわゆる、闇堕ちというやつだ。
なんやかんやと色々あった末(そこらへんはあまり詳しく聞いていない)前世の私は死ぬ間際になって改心。それまでの悪行を深く悔いたのだが、残念ながら寿命が尽きかける寸前だった。
そこで神様は「来世で善行を積み重ねなさい」と言い渡し、そして転生したのが今の私、『深谷まるえ』だそうである。
あ、名前にツッコむのは禁止。お婆ちゃんぽい名前なのは自覚しているので。
らしいらしいばかりで申し訳ないが、私は前世のことをまったく覚えていないのだから仕方がない。
どうせなら記憶を引き継いだまま転生して欲しかった。自分の前世とはいえ、私にとっては知らない他人も同然である。なぜただの小学生である私が、他人の尻拭いをしなければならないのか。
しかしまぁ、そうなってしまったのだから仕方がない。駄々をこねても宿命からは逃れられないのだ。
私はその日から、魔法少女として生きていくことになったのである。
ちなみに、名称はまだ決めていない。
本当は私も『プリティ♡キャンディ』のような、小さな女の子に人気が出そうな可愛らしい名称を使ってみたかった。
だが、私が変身できる姿に非常に問題があり、断念したのだ。その問題とは――。
私が変身した後の姿は『お婆ちゃん』なのである……。
これは冗談でもなんでもない。本気と書いて『マジ』と読むほど大マジなのである。幼気な小学生の女の子に対して、酷すぎる仕打ちだ。神なんていなかった。
なぜこんな姿なのかと聞いたところ、神様は「予算の都合です」とわけのわからない答えをよこしてくださった。あの綺麗な神様が、私の中で悪の化身に変わった瞬間である。
「プリティ♡キャンディ登場!」と言って出てきたのが、プリティとはほど遠い、しわしわでカラカラなお婆ちゃんだったら、全国の女の子たちの失望は計り知れないろう。泣かせてしまうかもしれない。
いや、別に私の行動は全国放送されているわけではないのだが。むしろひっそりこっそりとやっています、はい。
ちなみに『ひっそりこっそり』というのは大げさでも何でもなく、私が現在住んでいるこの村は、人口の六割がお年寄りという、非常に高齢化の進んだ村なのである。
大事なことなのでもう一度言う。
村なのである。
私が生まれる前後に行われたという、平成の大合併の時にも消滅しなかった、自然溢れる村なのである。たぬきや鹿はそこら中にいるし、たまに熊も出る。
「まるえちゃんはとても大人っぽいよねぇ」としょっちゅう言われるが、周囲はお年寄りばかりなのに加え、私自身も魔法で何度もお婆ちゃんに変身しているのだから、そりゃ色々と悟ってしまうというものだ。仕方がない。
なんてことを見えない誰かに説明している間に、私は現場に到着した。
道沿いに大きな木があるのだが、その周囲に大勢の人が集まっている。その『大勢の人』は、もれなくお年寄りだ。
お年寄りたちは皆、ある一点に視線を集中させていた。
木の上だ。
つられて私もそちらを見ると、一匹の猫が枝の上でおろおろとしていた。
ああ、下りられなくなったのか。
白と黒のぶち模様のあの猫は、もしや山城さんちの『アザラシちゃん』ではなかろうか。
とか思った瞬間、皆が口々に「アザラシちゃん」と呼び始めた。どうやら間違っていなかったようである。
しかし木の上に向って「アザラシ」と連呼する大人たちの図は、なかなかにシュールだ。
アザラシちゃんがいる場所は、二階建ての建物の高さを悠に超えている。近くに住む誰かが長めの脚立を持ってきていたが、残念ながら届いていない。
「困ったなあ。どうするべか」
「タタターと下りてきてくれたらいいんだがのう」
「それができんから困っとるんじゃろうが」
「そういや、肝心の山城さんはどうしたんだ?」
「呼びにいったけど留守だぁ」
なんて会話が聞こえてきた。
なるほど。山城さんは今この場にいないのか。ならば今回は山城さんの姿を借りることにしよう。
私は群集から離れ、農作業小屋の陰に隠れた。
私の変身できる姿は一つではない。自分が頭の中で思い描いたお婆ちゃんになれるのである。この点だけは神様にちょっと感謝している。本当にちょっとだけ。
自分の姿そのままでお婆ちゃんに変身したくはない。将来の姿を見て絶望はしたくないのだ。
私はまだ小学四年生なのだ。皺とは無縁なのだ。
ちなみに初日に変身したあの姿は、特定の誰かの姿ではないと信じている。
私は身に付けていたペンダントを手繰り寄せた。中央には小さなペンライトがぶら下がっている。これが私の変身道具だ。
正直、これがなくても変身はできるのだが「あった方が色々と都合が良いから」と神様に言いくるめられてしまった。大人の事情があるそうだ。面倒臭いな大人って。
ペンライトを強く握ると、七色に輝き始めた。
そして次の瞬間――。
光の世界に私は浮いていた。
ここは、現実と切り離された世界。
光の粒子が私の全身にまとわりつき、服という服を私から奪っていく。
しかし私の全身を隠すように光は覆っているので、見えることはない。児童ポルノ法などお呼びではないのだ。
私の姿は今、光の中で作り換えられている。
自分の全身の細胞が大移動しているのがわかるのだ。ヘビが脱皮をする時の感覚に近いかもしれない。わかんないけど。
魔法少女になるまでは当然このような感覚は体験したことなどなかったが、正直これは嫌いではない。元の体に戻った時に、肌がちょっぴりツヤすべになっている気がするからだ。
てなことを考えている間に私の体の『書き換え』が完了し、やがて光は霧のように散る。
鏡がないので自分の目で確認はできないが、私の今の姿は山城さんになっているはずである。
手を見ると明らかに自分の手ではない――しわしわで水分のない手なので、間違いないだろう。
私は小さく深呼吸をして、農作業小屋を後にした。
先ほどの現場に戻るが、状況は変わっていなかった。
あいかわらずアザラシちゃんは下りられずにオタオタとしている。時おり聞こえる「にゃあ……」という小さな声が、下で見守る人々の悲壮感を煽っていた。
勇敢にも脚立をハシゴ状に伸ばしてその上に登るお爺ちゃんの姿もあったが、あまり頑張られると二次被害になりかねない。転んだだけで骨折してしまう可能性があるだけに、お年寄りにはあまり無理はさせられない。
今こそ、私の出番である。
群衆をかき分け、私は一歩前に出る。
「おお、山城さん!」
上を見ていたお年寄りたちが、誰かの声で一斉に私の方へと振り返る。瞬く間に群集は真っ二つに割れ、私専用の特別ロードができあがった。その中を歩き、私は木の根元へ。
飼い主の姿を見て安心したのか、大きな声で鳴き始めるアザラシちゃん。猫をも騙す私の変身能力、やはり最強である。
……うん。たまにこうして自画自賛しないと私もやっていけないから、今だけは許してほしい。
待っててね。すぐに助けてあげるから。
私は木の幹に手を当て、精神を集中させるために静かに目を閉じた。私の行動に、おそらく周囲は疑問符を頭の上に浮かべているのだろう。何となく、空気がもぞもぞとしている。
私の正体がばれなければ『見られても』構わないとの神様のお達しがあるので、遠慮はしない。
手のひらが熱を帯びてきた。
まだ。もう少し、もう少し――。
群集が先ほどよりざわつき始める。
今、私の手のひらから弱い光が洩れているからだろう。
そして、力は集まった。
私は目を開け、同時に手にグッと力を入れる。
ドーナツのような大きなリング状の光が、私の手のひらを中心にぶわっと広がった。
「おおおお!?」
皆の驚く声を背負ったまま、私はさらに手に力を込める。そしてその光を木に押し込んだ。
変化は、すぐに表れた。
あれほど高かった木が、みるみる内に縮んでいく。動画を逆再生させているかのように。最終的に木は、百五十センチほどの高さにまで縮んだ。
私は手を伸ばし、悠々とアザラシちゃんを胸に抱く。アザラシちゃんはさっきよりも高い声で「にゃにゃーん」と甘えるように鳴いた。
うちでは犬を飼っているのだが、猫も可愛いな……。
しかし、今はアザラシちゃんと触れ合っている場合ではない。
皆の驚愕の視線が、私だけに注がれている。
山城さんの姿をした、不思議な力を使った私に――。
私はニコリと笑顔を作り――全力でダッシュした。
本当は魔法で颯爽と消え去りたいところだか、残念ながら『自分に対して』使える魔法は変身能力だけなのである。なぜこんな制限を設けたのかは疑問だ。しかしあの神様のことなので、どうせ大した理由はないのだろう。というか、今はそんなことを気にしている場合ではない。
アザラシちゃんを抱えたまま、私は後ろを振り返ることなく走り続ける。
幸い、誰も追ってくる気配はない。まぁお年寄りだけだったし、小学生の脚力には追いつけないであろう。
民家と民家の間の細い道に入ったところで、アザラシちゃんをそっと下ろす。さて、変身を解かないと。
変身する時と違い、戻る時は非常に簡素だ。必要なのは私の意思だけ。光もない。しゅんっ、で終わりなのである。あっさりしすぎて少し寂しい。
私の姿が元に戻ると、アザラシちゃんは「え、こいつ誰!?」と言わんばかりに、脱兎のごとく駆けて行ってしまった。もう高い木の上には登らないで欲しいものである。
ちなみに、あの木は時間が経てば元に戻るはずなので心配は無用だ。我ながら気の利く魔法少女だと思う。
次の日、学校に行くと教室の中がざわついていた。おそらく、昨日のことを目撃していたお爺ちゃんやお婆ちゃんに話を聞いたのだろう。
私が魔法少女になってから、『この村の誰かの姿をした不思議な力を使う者』の話題が頻繁にあがるようになった。お年寄りたちは「狐じゃ狸じゃ。化けとるんじゃ」と言ってきかない。狸と同等に見られているのは、こちらとしては複雑な気分だ。
私は何も知らない振りをして、あるグループの会話にそっと耳を傾ける。
(余談だが、うちの学校は全校生徒が二十三人である。過疎化つらい)
「なあ、聞いた? 昨日出たんだって!」
私と同学年の早乙女くんが、嬉々としながら他の男子に話しかけていた。
「出たって何が? 熊?」
「違うよ。あれだよあれ。えーとあれ、魔法ババア!」
…………。
確かに私が変身できるのは、お婆ちゃんの姿だけである。今までも様々な村のお婆ちゃんの姿を借りて、人助けをしてきた。早乙女くんの言うことは間違っていない。何も間違ってはいないのだが――。
私は、はしゃぐ男子たちの側からそっと離れた。
私は深谷まるえ。小学四年生。
ちょっと気になっていた男の子に『魔法ババア』というあだ名を付けられてしまった、傷心の魔法少女である。
完