Chapter1-3
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リベルタリア西の都市ヘリオスは水と太陽に恵まれた世界有数の観光都市と呼ばれていた。透き通ったラピスブルーの海、朝は神々しく輝き夕暮れ時は茜色の太陽が水平線にのまれる姿を瞳に焼き付けることができる景観は人々の心を魅了する。まるで夢の様な時間を一泊二〇〇ドルで味わえるハネムーンで一週間滞在しても一五〇〇ドルしないほどで客足は絶えず豊かな自然が育んだ恩恵を口一杯に頬張れば料理がヨーロッパでパリと双肩を成していると評論家、改め批評家達が舌鼓を打ち絶賛した理由を理解できる。だが一昔前までは景観や食事よりも、ヌードの女を目に焼き付ける客が多かった。なぜなら近年までここヘリオスのビーチ全域がヌーディズムエリアだった。
リベルタリアは五つの東西南北中央にそれぞれを独立行政区と区切られ、ヘリオスは西部の行政地域の中心として存在していた。ある年東部に大規模貿易港建設され流通の中心となり産業地域としても発展し、人が東部に流れでるとヘリオスを含む西部は過疎化の一途を辿ることとなった。西部政府は対策を練り、リゾート地としての価値を提唱し全面的に売り出していく方針を固めた。一時的な効果はあり、多くの観光客で昼夜を問わず賑わい“大西洋のニューヨーク”としてヘリオスは大袈裟な売り文句で売り出され雑誌や新聞の記事を飾った。観光客を顧客として企業がヘリオスに進出し、傾きつつあった西部財政も転覆することを免れたようにも思えた。だが犯罪が絶えなかった。大きなスラム街がヘリオス周辺に点在し、観光客を狙った窃盗が頻発し客足はじわじわと遠のいていった。また観光客を狙った強姦事件も多発するのだった。要因は大袈裟な売り文句が良くも悪くも功を奏し一時爆発的に客足が増え多数の言語に警察や地元民が対処できなかったのである。リベルタリアは世界という羅針盤に従い常に舵を取る箱舟だった。共通言語を英語とする無理難題な政策を中央政府は強行し、西部行政は英語教養を義務教育に盛り込んだが定着しなかった。古くから多言語が飛び交う国で英語は定着せず、結果として観光客の必死の叫びも昼夜賑わうヘリオスでは羽目を外した馬鹿騒ぎと何ら変わらず犯罪件数は上昇していくばかりだった。新聞では「大西洋のニューヨーク、窃盗・強姦多発地帯」と大見出しに掲載され、煽りに尾鰭がつきピンクネオンの夜の街としてのレッテルが貼られイメージダウンは計り知れなかった。すると次は東部が発展の副産物として安定した治安を手にし一気に観光客の客足も東部に傾いた。国内外で人の流れはほぼ東部に集中し、西部は夜の街としてのレッテルにより娼婦や遊び人で溢れかえり、行政も自暴自棄になりビーチ全域をヌーディズムエリアとし世界最大規模のヌードビーチが誕生。客足は若干安定してきたがヌーディズムエリアは昼夜を問わず“遊び場”となり、公序良俗に反する性の街としてヘリオスは確かに眠らない街となった。
だがそれに立ち上がった女性がいた。エリーザ・ラヴロックとして知られているエリーザ・カスティオーニである。彼女はナイトクラブの組合のオーナーで売春宿なども傘下に置き働く若き女性達の人権と安全を守る夜の女性の希望の光だった。エリーザは性的サービスを行っていない健全な運営のナイトクラブで働く女性達を娼婦とし嘲笑っている者達を黙らせるべく、ヘリオスの印象を変えようとヌーディズムエリアの廃止を行政府に提案した。しかしながら見向きもされず自ら五賢人――王政時代も広い地域を上手く統制する為、行政区分担は行われておりそれぞれの最高権力者を国王を支える賢者として五賢人と呼ばれていた――の一人であるアリア・アルディーニに直談判を行った。アリアも父の死後後釜として国王にからの指名や他の五賢人からの推薦を経て若くして五賢人となった。アリアは父親であったミケル・アルディー二の暗殺による心の傷で半ば廃人となり長く傀儡として中央政府の言いなりとなっていた。西部の堕落の原因はここにもあるかもしれないが、エリーザが直談判を行った頃、アリアの心の傷は完治し当時は闇雲に改革を推し進めていた。周りからもいままで閉じこもりきりだった若い娘が突然五賢人として復帰したことで大きな波紋が西部行政を揺るがしたが父親から授かったカリスマ性が影響しアリアは支持を着実に集めていた。アリアはエリーザの直談判を受けヌーディズムエリアの廃止を強行し、五賢人としての地位は確固たる物になった。自傷行為で失った左目だけが唯一治らぬ外傷となったが心の傷も癒えアリアは西部の賢人として行政内外で絶大の指示を獲得。またエリーザも同じであり、ヌーディズムエリア廃止に伴い、夜の女性のイメージは少なからず向上した。ナイトクラブで踊れば「娼婦だ」と断言された時代は終わり、若い女性が働きやすい環境を整え夜の女性や西部の著名人々から称賛された。
それだけではなくエリーザはスラム街へ私産のほとんどを寄付し西部では彼女を聖母と呼ぶ人も少なくない。またスラム街へ出資したことが功を奏し、貧高層の犯罪率が低下、ヘリオスの観光都市としての評価は回復していっていまの印象を定着させることに成功していた。無論スラム街の出資は観光都市としての価値を高めることが最初から目的だった。それにより多くの人望をエリーザは獲得しつつ、エリーザのナイトクラブ組合の売り上げも右肩上がりとなるからだ。聖母としての顔を持ちつつ、エリーザは経営者、さらには暗黒街の大物としての存在を確固たる物にし、自身とファミリーをより強大にしてきた。無論表の顔は常に聖母であり、優しきナイトクラブ組合のオーナーだが。だからこそ今回の無罪は西部の人間にとっては当たり前であり、誰もがそれが至極当然の判決とした。
だがロロ・ゴミスという元警官は違った。寂れた酒場でウォッカをストレートで飲み干し新聞を読みながらグラスを木製のテーブルに叩きつけた。馬鹿げている。エリーザ・ラヴロックは犯罪組織のドンなど火を見るより明らかだ。心で叫び散らし、平静を保つため煙草に火を点ける。煙を肺に送り、一時的に安堵するが効果は煙が肺に充満している間だけ。すぐに彼は現実に引き戻され、先程以上の苛立ちが毛の先からも迸る。そこにウェイトレスを口説く黒人とラテン系の二人組を目にする。ラテン系の男が拒絶するウェイトレスの頬に淫靡に舌を這わせるのを見ると、ロロはラテン系の男に殴り掛かった。普通ならば殴り掛からなかっただろうが、迸るぶつけ様の無い憤怒がそうさせた。軽快なリズムの演奏だけが鳴り止まず、酒場が静まった。
「おいおいあんた、俺のダチに何すんだ」
「“ニガー”は黙っとれ」ロロが吐き捨てると、黒人は怒りに身を任せラムレザージャケットの内ポケットからジャックナイフを取り出し、刃をロロに向けるた。ロロはすかさずポリススペシャルと金バッジを黒人に突きつける。
「いいか警告は一度だ。さっさとここから失せろ。お前らが脳ミソをぶちまけるか牢屋に入れられたいなら別だがな」
「この国の警察は腐ってるな」
「俺が一番よく知ってる」
黒人男性はナイフを床に置くと、気絶したラテン系の男を背負って足早に酒場から出ていった。
「いくらだ?」怯えるウェイトレスにロロは言った。何を問われたかわからないウェイトレスは訝しい表情を返すばかりだった。また震えた両足で地べたに崩れ、まるでロロがウェイトレスを襲った様にも見えた。「今の二人組の勘定だ。あいつらの飲み食いした代金が知りたい。俺が立て替えておく」
それでもウェイトレスは言葉を発することはなかった。恐怖が喉元に詰まって、身体は生まれたての小鹿の様に震えるウェイトレスの前でロロは困惑したがバーテンの男に一〇〇ドル札を何枚か握らせた。
「俺と奴らの代金だ。釣りはあそこの女にチップだ」
踵を翻し酒場を後にした。外は寒く、煙草に火を点ける。迸るほどの憤怒は男を殴ったときに解消されロロは煙草の灰と同じく燃え尽きていた。引退した後に記念に授与されたポリススペシャルと金バッジが思わぬ場面で活躍し、だらだらと未練の様に携帯していたが意味を成し彼は少しばかり救済されていた。ロロは立派な警官だった。警官学校を卒業し、平巡査として銀バッジの警察証を手にしたとき悪を撲滅すると心に誓った。だが悪との戦いは警察との戦いに他ならなかった。賄賂で犯罪が帳消しになる日常がロロの前に現実として突きつけられた。一部の地域では集金係と呼ばれる裏金集金の担当も当番制で決められていた。全てに絶望し鬱陶しい程の現実との葛藤の日々が始まった。彼は火に飛び込んでいた。自分が鎮火する筈の火に囲まれのまれ一時は現実を受け止めようとしたが、正義感がそんな悪魔の囁きを一蹴し自らに鞭打ちをした。ロロは内部告発を行い、週刊誌と新聞社に情報を売り、警官でありながら警官の敵となった。すぐに最も命の危険が伴う麻薬対策課に配属され、売人の逮捕や麻薬常習犯との戦争に身を投じることとなった。就任して直ぐにロロは売人を追い詰めることに成功したが仲間からの協力を得れず単独で売人の逮捕に乗り出したことがあった。これも正義感に鞭打ちされた為だろうか。ロロは売人と対峙するが、身体に三発銃弾を受け倒れた。一発は顔に直撃しロロの命は風前の灯火となったが、奇跡的に命に別状はなく一生分の運を使い果たした。ロロが入院すると多くの警官から匿名の手紙が山ほど送られ、殆どは早く死ねと罵声を殴り書きした紙きれであった。ロロはそのような紙切れ一つで傷つく心を持っていなかったが、殴り書きした字を見ると涙が一筋頬を伝った。入院中に同情するかのように金バッジ――警官としての名誉と貢献を評価し中央政府から少数の警官に送られる金色の警察バッジ――がロロに送られた。金バッジは夢だった。金バッジは正義の礎としてその身を呈した証拠であるからだ。何よりも、誰よりもロロは望んでいたが、自ら金バッジの押し返した。だが強引に授与され、麻薬対策課から移動も決まりキャリアアップも確実なものとなり夢で見た金バッジの模範警官としての未来が切り拓けた。だが絶望は全てを拒絶し、正義の人であったロロは警官を引退したのだった。いまでは退職金と国の補助金で生活を営むただの酒飲みだった。
水溜りに自分の姿を見た。そこに夢を実現し成し遂げた理想の姿は映っていなかった。途端に苛立ちが再度こみ上げてきた。
「ロロ・ゴミスだな。引退した警官がバッジを堂々と見せるとは聞いてた通りの肝っ玉だ」
突然背後から言葉が投げかけられ振り向くとそこには白いシルクのスーツとハットの男が立っていた。夜にも関わらずサングラスをかけ、男はチンピラの様にも見えた。しかしながら直観が、ただの小物ではないと囁いている。
「ゴロツキに用はない。さっさと失せろ」
「そんなこと言うなよ。あんた職を探してるだろ。まだ四〇代だ、働き盛りだ。俺はお前を雇いたい。給料はキャッシュで手渡しだ。税務省にも手回しをしてあんたは国からの援助を受けつつ給料ももらえる。ついでに酒を買うのに領収書を切ったっていい。どうだ、これで雇われてくれないか」
「ふざけた野郎だ。俺がどんな警官だったか知っているだろ。仕事は確かに探そうかとも考えているが、お前の様な男の元では働かん絶対にな。もっとマシな仕事がそこら中にわんさか転がってる」
「警察とかな」男の言葉にロロは苛立ちを隠せなくなった。しかしながらロロは警察は最低な職だと考えていた。それをこの目の前の男は見抜いて巧みに言葉を選んでいる。軽口のチンピラの様に見えて、やはりこの男は只者ではない。
「興味があったら明日の午後一〇時にさっきの酒場に顔を出してくれ」
男はそう言い残すと夜闇に溶けて消えていった。