Chapter1-2
2
エリーザ・ラヴロックの無罪が新聞の大見出しに載る前に、彼女についてのニュースはリベルタリア全土に広がっていた。それはシルヴァーノ・マスティーニという男の耳にも届いていた。彼はエリーザと肩を並べる国内四大組織の一つマスティーニ・ファミリーのドンであった。リベルタリアで一二を争うほど殺しが多いディオニューソス・シティに拠を構え、彼らの生業もまた殺しが主だった。
ドン・マスティーニは背の高い白髪の男で痩せた頬は皮膚が弛み痴呆を患う老人の様にもみえるが、ブラウンの瞳と高い鷲鼻のお蔭で一〇〇年を経た賢者のようにもみえるのだった。彼はつねに午後十一時には自宅の書斎に籠るようにしていた。そこで彼はエドガー・バルトと一日の出来事を整理し、危険の芽を見つけ出すことをここ数十年ばかり心掛けてきた。エドガーはドイツ系移民の二世で、ドン・マスティーニがいまから三〇年ほど前に教師をしていたときの教え子だった。ドン・マスティーニは教師時代、ひどくエドガーに悩まされた。悪戯好きで、教室の中で爆竹を炸裂させたときには、ドン・マスティーニはそれ以上に憤怒を炸裂させ怒号が学校中に響いた。しかしいまではドイツ人にしてファミリーのコンシリエーレつまり顧問役を任され、ドン・マスティーニの右腕になっていた。
「やはりあの娘は骨があるようだな。エドお前はあの娘が断頭台送りにされるのにいくら賭けていたかな?」口元でワイングラスを傾け、ドン・マスティーニが言った。応えるようにエドガーは表情を綻ばす。
空になったグラスにエドガーは並々紫の液体を注いだ。「わしを糖尿病で殺す気か?」ドン・マスティーニはグラスをエドガーに手渡し、飲むようにと急かした。
「それでは頂きます」エドガーは紫の液体を一気に口に流し込んだ。想像以上に葡萄ジュースは甘かった。
「久しぶりにワインを開けよう。葡萄ジュースは飽きてきたよ。今日一日くらい、酒を飲んだって罰は当たらんだろう」エドガーはドン・マスティーニの言葉を聞くと、待っていましたと立ち上がり書斎の冷蔵庫から白ワインのボトルを取り出し栓抜きと共にドンの前に並べた。
ドン・マスティーニはいつでも気を抜かない人物だった。夜どんなときでも自分が指揮を執れるようにと、ファミリーを組織してから酒を口にしたのは社交辞令としての場面と自分や身内の誕生日などだけだった。夜中に銃撃戦が起きる可能性を考えという訳ではないが、ドンは慎重に、そして確実に自分を死から遠ざけてきた。そんなドンが酒を自ら欲するとはエドガーは驚き、また嬉しかった。酒が入るとドンはすぐに酔いつぶれる訳でもなく至って素面で、酒には強い。しかしながら酒を飲むといつも以上に上機嫌となるのだ。上機嫌なドン・マスティーニの姿を見ることができる人物はファミリーの中でもそう多くない。それはドンがファミリー全員を信頼していない証拠であり、自分の前で酔うのは信頼されている証拠であった。
「新しいグラスを用意しよう。味が混ざってはせっかくエドが用意してくれたワインが台無しになってしまう」ドン・マスティーニが立ち上がろうとするのをエドガーが制止する。「私が取ってきましょう」エドガーはすぐに立ち上がり、書斎の扉に歩いて行った。
「おいおい、わしに栓抜きをやらせる気か? この頃は身体のありとあらゆる筋肉が贅肉になっているわしはこんなことできんよ。それに家内は食器にうるさくてな。ワイングラス一つでもわし用やらなんやら沢山ある。もし間違えでもしたら、ひどく叱られるのでな」
ドン・マスティーニが書斎を離れ、エドガーは独りになった。彼はテーブルの上に広げられているエリーザ・ラヴロックについてのバインダーを開いた。ドンは情報を握る者が勝者に一番近いことを信じ、ファミリーを動かしてきた。エリーザはもちろん、東や南の有名な“筋金入り”たちのデータも本棚一段を埋め尽くしていた。バインダーの一ページにはエリーザの概略が書かれていた。家族構成、年齢、堅気の頃の職、交友関係にある役人ありとあらゆる彼女の持ちうるカードが羅列され、ドンの直筆でタイプライターで打った文章の上から訂正や追加がされている。しかし奇妙なことにエリーザの家族構成の夫や息子の部分は何度も訂正が加えられ、挙句塗りつぶされている。
「ポーカーでも敵のカードを知ってしまえば事前に降りることができる。負け戦を好む者などこの世にはいない。おやエド、まだ栓を抜いておらんかったのか」
エドガーが振り返るとワイングラスを両手に二脚握り不器用にドン・マスティーニが扉を閉める最中だった。「なぜグラスを二つ?」エドガーが訝し気に尋ねた。
「君にだよ。なんだね、上等なワインを最高の友人であり部下である君と飲んでいけない道理がどこにある? わしがエドガー・バルトと飲みたいのだ、老いぼれの頼みくらい聴いてはくれないか」
「ボスの頼みならば断わることはできません」ドン・マスティーニがグラスを机に置き、自身のお気に行きのリラクゼーション・チェアに腰かけると落ち着いた口調で言った。「ボスの頼みではない。人生の半分以上を共にしてきた友としての頼みだ」
エドガーは白ワインの栓を抜き、慣れた手つきでグラスを満たし、自身の人生の師であり、最大の友人に手渡した。二人はしばらく口を利かず、酒を楽しむとドン・マスティーニはやがていつも通り上機嫌になった。
「今日は西のラヴロックへの容疑が取り払われたこと以外に目立ったことはあったか?」今度は友人としてではなく、ドンとしてシルヴァーノ・マスティーニがエドガーに
問いた。「一つあります。実は南の連中のほとんどがフェルナンド・ベリオについたそうです。あの血化粧のヴァレリナ・ヴェルトットもフェルナンドの下についたとか。これで次期に南を牛耳るのはベリオ・ファミリーとなるでしょう。ヴァレリナも傘下にいるとなれば、南にいる諜報部の連中を明日にでも引き戻さないと危ないかもしれません。なんてったって相手は一度キレると頭が冷えるまで何年もかかるヴァレリナです。あいつらのシマでうちの諜報員が見つかれば、蜂の巣になった挙句に体のパーツが一週間ごとに郵送着払いでここに届くことになるでしょう」
エドガーの報告でドン・マスティーニの顔面は蒼白になった。上機嫌に顔色が赤いドンはそこにはいなかった。
「顔の割れていない何名かの諜報員と戦闘員を集めてフェルナンドを探らせろ。わかってるだろうがやつはラヴロックファミリーの先代ドンの腹心だ。裏切りが追放程度で済んでいま生きてるとなると、未だにファミリーと繋がりがあってラヴロックのシマを拡大しようとしているとも考えられる。協定が破られるかもしれない……」
俗に言う四大ファミリー――西のラヴロック・ファミリー、北のマスティーニ・ファミリー、東のパチーノ・ファミリー、そして新たにその座に腰を下ろすことになる南のベリオ・ファミリー――ではとある協定が結ばれていた。東西南北で国を分担して独占的な商売をするシマを保障するというものだ。実質それが犯罪組織間の国境であり、無駄な抗争を発生させない為に、パチーノ・ファミリーのドンであるマイケル・パチーノが考案した平和協定であった。これに先代の南のファミリーは加わっていたが、国王殺害の内乱に加担し王都にて半数が戦死、組織は解体となってしまっていた。空白となった南のシマだが、ドン・パチーノの提案で誰も手を出さず、新たな“顔役”が現れるのを待つということだった。だがラヴロック・ファミリーがフェルナンドを使い、秘密裏にシマを増やしたともなればドン・マスティーニやドン・パチーノは心穏やかではなくなり戦争が始まる可能性がある。
シルヴァーノ・マスティーニは平和協定が破綻し戦争に突入する未来のヴィジョンを澄んだブラウンの瞳の奥に映していた。すぐさまマットレス――戦闘準備のことであり、戦争用の住居に戦闘員を配置すること。住居に新たなマットレスを運び入れることからこの呼び名がついた――にとりかかるべきではないが、駒は揃えておくべきだと判断した。
「ニューヨークで休暇を取っているトムを呼び戻しておいてくれ。彼には申し訳ないが、しばらくの間こちらで待機していて欲しいと伝えてくれ」