勇ましきかな
玄関を入って直ぐ右にある六畳間は、もうすぐ九十歳になろうとしている祖母の部屋である。必要最小限の物しか置かれていない整然とした畳の部屋は、厳格な人となりをそのまま表していた。北側に小さな窓がある。その下に黒塗りのタンスが二竿置かれていて、その横にある卵形に縁取りされた小さな鏡台には茶色い風呂敷がかけられている。これもきれい好きな祖母のこだわりなのだろう。東側には一間幅の腰窓がある。その窓を背にして黒い引き戸の押入の方を向いて崇志が膝を抱えて座っている。崇志の前には布団が敷かれてある。しかし、それは祖母のものではない。そこに仰向けになって寝ているのは崇志の父、宙三である。薄掛け布団の隆起から胸の上で手を組んでいるのが分かる。白い布が掛けられた横顔に、
「父さん」
と声を掛けると、
「んーん」
と返事が返ってくる。仏間と客間が片付くまでの間宙三の側に居るように母親の佐江に言われてから暫く二人きりでここに居る。時折居間の方から親戚や近所のお手伝いの人たちの話し声や忙しそうに駆け回る足音が聞こえてくる。夜を徹して進んできた出来事が終わり、家に宙三が戻ってきたことへの安堵。これから何がどう展開していくのかという不安。何をどう考えたらよいのかさえ分からない。今は大人の言うことを聞いて動くしかない。
「なあ父さん、んだよな」
やはり宙三は、
「んーん」
と応えた。
◇ ◇ ◇
崇志は、電車で隣町にある学校に通う高校二年生である。その日は吹奏楽部の練習もなかったので、駅から真っ直ぐに宙三が入院している病院に向かった。病院は駅から自転車で五分もかからない所にあった。百六十年の歴史を持つ白亜の洋館をプラタナスの木が囲い、さらにその周囲に赤茶色の板塀が回されている。
崇志は、入院患者の家族専用出入り口から入った。靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて板敷きの廊下を進む。つるつるに磨き上げられた手摺りのある階段を上ると直ぐ宙三の病室がある。ドアをノックして、「父さん」と声をかけながら開ける。宙三の返事はない。宙三はベットに仰向けになり、小さく寝息をたてて眠っていた。格子柄の浴衣を着て白いカバーの毛布を襟元から爪先まで掛けている。
崇志は、ベットの枕側に置かれている一人用のソファに腰掛けた。ちょうど宙三の頭の方からその横顔を見る形になる。ロマンスグレーの髪に綺麗に櫛が入っている。
腕の良い大工として建設会社に勤めた後、自ら工務店を立ち上げた宙三は、酒たばこを嗜み、マージャンなど仕事仲間との交際も大事にしていた。「中年太り」という言葉がぴったり当てはまる体型。無精ひげにごま塩頭。外見になど構うことなどなかった。ところが、病気をしてから、宙三は鏡の前に立って髪を整えたり、これまで着ることがなかったブレザーを着てみたりするようになった。それは、胃の手術をしたことによって、人相が変わるほど痩せてしまったからだった。人に病気でやつれた姿を見せたくない。元気な自分でいたい。そんな気持ちが宙三をそうさせたのである。
ベットの右側に窓がある。北東を向いた窓からは、午前中に少し陽が入る程度で、夏場はひんやりとしていて過ごしやすかった。病室の広さは十二畳ほど。ドアを開けると直ぐ左側に三畳ほどのスペースがあり、普段は、付き添いの佐江が体を休める場所になっていた。洗面所と手洗いは階段を下りた一階にあった。
崇志は、何もない広い病室を見回した。宙三は、相変わらず眠ったままだ。よほど疲れているのだな、と思った。ベットの横のサイドボードに新聞と数冊の週刊誌が重ねられていた。崇志は、その中の一冊を手に取りページをめくった。プラタナスの葉が夕暮れの風に揺れている。崇志が次のページをめくろうとしたとき、宙三の鼾が「グー」と一つ鳴った。その横顔は穏やかである。小さな寝息が聞こえてくる。
それから間もなくして、病室のドアが静かに開いた。入ってきたのは佐江だった。ベージュのスラックスに浅緑のブラウスを着て、その上に茶色のエプロンを着けている。
「ああ、崇志、来てだなが。」
崇志は、頬を緩めて頷いた。母が来たことで、何もない病室が家族団欒の場になった。と、佐江は、宙三の様子を見ながら、
「父さん、起ぎねがったが」
と崇志に訊ねた。
「うん、俺が来てがらずっと眠だままだ」
「んだあ。父さん、三時にお茶っこ飲んでがらトイレさ行って、少し休むって言って、それがらずっと眠でるなしゃ」
佐江は、宙三の様子を窺いながら、家から持ってきた着替えの整理をしている。崇志は、鞄から「でる単」を取り出して英単語の暗記を始めた。
病室の時計の針が午後五時を示したとき、佐江が枕元で宙三に声を掛けた。
「父さん、夕食の時間だんしど。起ぎでたんしぇ」
宙三は、寝息をかいたままだ。
「父さん。父さん」
今度は肩の辺りに手をあてて少し体を揺すってみた。すると、佐江の表情が見る見るうちに変わっていった。
「父さん、父さん、起ぎれ。なあ起ぎれって」
宙三は、寝息をたてて眠ったまま応答しない。崇志は、佐江がこれまでにない表情を見せていることに驚いているだけで、何もすることも、何を言うこともできないでいた。
「崇志、父さんどご見ででけれな。母さん、看護婦さん呼んでくるがら」
と、佐江は階段を駆け下りて行った。崇志は、宙三がどうして目を覚まさないのか不思議に思った。寝顔を覗いてみても、昨日までの宙三と変わりはない。
◇ ◇ ◇
昨日は日曜日だったので、崇志は日中に病室を訪れていた。宙三はベットの上に胡座をかいて佐江が家で絞ってきた桃のジュースを口にしていた。佐江は、宙三の食が少しでも進むようにと一生懸命で、おしぼりを差し出したり甲斐甲斐しく動き回っていた。
宙三は、病室に入ってきた崇志を「よおっ」と軽く手を挙げ笑顔で迎えた。宙三は元々口数が少なく、子供に対してあれやこれやと訊いたり、ああしろこうしろと言う父親ではなかった。仕事が忙しくて、子供のことは、母親に任せていたのかもしれない。それは、宙三が入院してからも変わらなかった。しかし、昨日はいつもと少し違っていた。
宙三の枕元に「湯沢南小学校百年史」という本が置かれていた。学校の写真で装丁されている。表紙を開くと、始めのページに校歌が載っており、次に、何人かの挨拶文、各年代の代表者による思い出作文等が続いていた。それらの中で崇志が注目したのは、応援歌に関する記述だった。「湯沢南小学校では創立百年を期して校歌を時代にあったものに変えたが、応援歌は昔のものをそのまま歌っている」という内容で、その応援歌の歌詞が載っていた。
「父さん。南小学校の応援歌、覚でるが」
「覚でるよ。『勇ましきかな、我らが選手』だべ」
宙三の少しハスキーな声が歌のさわりを口ずさんだ。それを聴いて、崇志も後に続いて口ずさむ。
「力は張れり 意気は満ちたり
湯沢健児の 名をば担いて
晴れの門出ぞ いざやいざいざ」
父と子で歌を歌ったのは、後にも先にもこの時だけだった。佐江は、目を細めて二人の歌を聴いた。
「ええなや、親子そろって南小卒業だおな」
「父さん、俺、小学校のとぎ応援団だったんだぞ」
応援団は毎年六年生の各クラスから二名ずつ選出されてチームを作る。主な活動は、各種大会の壮行会とその応援である。崇志は低学年の頃から応援団の旗振りに憧れていた。団長が、
「応援歌、『勇ましきかな』」
と声を張り上げると、団員が、
「おー」
と、旗を振り上げる。続いて、団長の
「イサマーーシーキーカーーナ、ワレラーガーセーンーシューーー。ソレ」
の合図で歌が始まる。同時に大太鼓が「ドン、ドン」と調子を取る。そして崇志は、自分の身の丈ほどもある校章入りの青い旗を大太鼓に合わせて振る。左上から右下へ、右上から左下へ、ちょうど八の字を書くように旗を振る。すると旗は、空を切ってビューン、ビューンと音をたてる。
「ああ、校章の入った青い旗、振ってだな」
「父さん、覚でだなが」
宙三は、佐江から崇志が応援団に入ったと聞いて、地区陸上競技大会の応援をこっそり見に行っていたのだった。
「まんちなあ(まあな)」
宙三は、少し照れ臭そうにしたが、息子に自分の気持ちを伝えることができた喜びでいっぱいだった。また、久し振りに息子と交流できたことで晴れ晴れとした気分になり、背中の痛みも和らいだように思えた。
崇志は、小さい頃に、よく宙三に遊んでもらったことを思い出した。
居間の畳で相撲をとった。思いっきりぶつかっていっても宙三にはかなわなかった。台所から、「父さん、たまには負げでけれなあ」などという佐江の声が聞こえてくる。近くの公園でキャッチボールもやった。宙三は、捕球しやすいように緩いボールを崇志の胸元に放ってくれた。でも、崇志はそれを後ろに逸らしてしまって、フェンスぎわの草むらまで走って取りに行かなければならなかった。ボールを逃す度に何度も走った。宙三は、そんな崇志に一言の文句も言わずに気長にキャッチボールの相手をしてくれた。
宙三が千葉に出稼ぎに行ったとき、キャッチャーミットとマスクを買ってきてくれたことがあった。二人の姉には人形か何かを買ってきていたようだったが、詳しいことは思い出せない。ただ、崇志は、抱きしめて放したくなくなるほどそのお土産が嬉しかった。ミットに着いてきたグラブオイルの缶を開けてみた。オイルの何とも言えぬ甘い香りが、その喜びを一層増大させた。
キャッチャーミットを手にしてから、崇志は俄然キャッチャーというポジションが好きになった。今思うと、それは「息子をやがては野球選手に……」という宙三の目論見だったのかもしれない。でも宙三は、「キャッチャーをやればいい」などと言ったことは一度もなかった。親だもの、口にはしないが、息子への期待は少なからずあったはずだ。そんな所に宙三の性格を感ずる。思いはあっても面と向かって話すような質ではない。
もっとも、崇志が野球に興じたのは、小学生までで、中学校に行ってからは、音楽に目覚め、高校生になった今も吹奏楽に夢中になっているのだから、宙三の期待通りにはいかなかったことになる。しかし、吹奏楽コンクールや各種演奏会の際、楽器の運搬に店のトラックを提供して協力したところなどを見ると、崇志の部活動へも十分な理解を示していたことが分かる。
それでは、自分の仕事の後継者について、宙三はどう考えていたのだろうか。後に佐江から聴いた話だが、宙三は、佐江にこんなふうにもらしている。
「崇志に、俺の仕事を継がせるつもりはねえ。誠心誠意、お客さんに喜んでもらえる家造りに努めできたし、やり甲斐もある。んだども、金払いの悪いお客さんに当だったとぎの苦労は少しばかりでねがった。崇志に同じような苦労はさせでぐねえ」
そういえば、宙三の使いで集金に行く佐江の姿を見たことがある。先方と面識のない佐江を使うことは、頭領である宙三が何度足を運んでも支払いを渋るお客さんへの苦肉の策だったようである。
◇ ◇ ◇
「小林さん、どうしましたか」
落ち着いた口調で婦長が宙三をのぞき込んだ。小柄だが、白衣がよく似合う。
「さっきからずっと眠ったきりで、声掛げでも起ぎないんですよ」
婦長は佐江の言葉を静かに受け止めた。そして、いつもするように宙三の腕にカフを巻き、聴診器を当てて送気球で圧を掛けた。崇志と佐江はその所作をじっと見つめた。やがて婦長は血圧計の水銀から何かを読み取ると、足早に病室を後にした。
数分後、階段を駆け上がる音がすると、ドアが勢いよく開き、主治医が婦長を従えて入ってきた。そして、直ぐに聴診器を当て、脈をとった。佐江は、主治医の表情を凝視した。天然パーマの黒い髪をかき上げてから、
「小林さん、ちょっと」
と主治医の目が佐江に告げた。佐江は、主治医と婦長の後に続いて病室から出て行った。崇志は、ベットの横にしゃがんで宙三の横顔を見た。オールバックのロマンスグレー。ちょっと鷲鼻の高い鼻。その下に白髪交じりの髭がうっすらと伸びている。口を閉じて鼻でスースーと呼吸している。
「父さん、起ぎれ」
崇志の口から思わず声が出た。しかし、聞こえてくるのは、やはりスースーという寝息だけだった。
病室のドアが静かに開いた。
「崇志……」
佐江が半分開けたドアから顔を覗かせて手招きをした。電球の黄色い灯りが薄暗い廊下を照らす。佐江は崇志に真っ直ぐに体を向けて立った。
「崇志。お前はまだ子供だがら話していねがったども、父さん、本当は癌だったなしゃ……。さっき先生に言われだ……。もう時間の問題だがら身内さ知らせでおいだ方がええって……」
そこまで言うと、佐江はもう何も言えなくなった。しかし、エプロンから出したハンカチで涙を拭うと、毅然とした表情になり踵を返して宙三のいる病室へ入っていった。
崇志は、佐江が告げた言葉を受け取ったままその場に立ちすくんだ。佐江が置いていった言葉の箱を掌に載せて眺めてみるが、その箱の中にどんな物が入っているのか見えてこない。「癌」という言葉が何を意味しているかは分かる。だが、その実像というものが見えてこないのだ。
家には、祖母が一人で居る。足腰もしっかりしていて健康だが、少し呆けが入ってきているので一人切りにしておくことはできない。佐江は親しくしている隣人に電話をして祖母の事や家の様々な事を頼んだ。また、身内への連絡は、近くに住む従姉に頼んだ。
病室には、宙三の姉妹や佐江の兄妹たちが集まってきて心配そうに宙三を見守っている。その中に、いつ入って来たのか崇志の大好きな母方の祖父がいた。祖父は、三畳ほどの畳の上で胡座をかいて座っていた。グレーの背広の中に白い開襟シャツ。丸い禿頭を動かすこともなく、さっきから、ただ黙って座っていて一言も発していない。たまに佐江や崇志と目が合うが、二人に掛ける言葉を持たない。だが、二人にとっては、祖父がそこに居てくれるだけでどれだけ心強かったか知れない。崇志は祖父の隣に座った。禿頭の下の優しい瞳は何も語らず、柔らかい掌が崇志の背中を撫でた。
と、そこへ、一人の見舞客が訪れた。恰幅の良い、働き盛りの男性である。紺色のスラックスに白いポロシャツを着ている。
「宙三さん、宙三さん。何やってるんだ。早く良ぐなって仕事しねばだめだべ。なあ、何とか言ってけれ。俺、あんだの世話になりっぱなしで、まだ恩返ししていねえんだ。頼むがら良くなってけれ」
大きな声が甲高く病室に響いた。男性は宙三の手を握りむせび泣いた。
「父さん、ほら、みんな来てけでるよ。父さんてば……」
佐江の声に、堰を切ったように大人たちがすすり泣いた。
そのとき、急に崇志の体に震えが来た。両腕で自分の体を押さえ付けても震えが止まらない。歯がガチガチと音をたてる。今、目の前で自分の父親が死を迎えようとしている。男性の父への暇乞いの声が、母の父を呼ぶ声が、大人たちのすすり泣きく声が、父の死を現実のこととして実感させたのだ。昨日まで一人で立ち歩き、母や自分と話しをしていた父が、今、ベットに横になり死を迎えようとしている。この信じがたい事実に崇志の体が反応したのだ。崇志が人の死に目に会うのは生まれて初めてのことだったのだ。
病室に再び静寂が訪れた。時刻は午後八時を過ぎている。家の事をお願いしていた隣人からお握りの差し入れがあった。見舞客がぽつりぽつりと訪れて、また去っていく。病室では、佐江と崇志と近親者たちが静かに宙三を見守っている。そこへ、北海道に嫁いでいた長姉の早樹子が到着した。チェックのロングスカートとブラウス。そしてブルーのカーディガンを羽織っている。彼女は、宙三危篤の知らせを受ける前に函館を出発していた。予定していたこととはいえ、虫の知らせとは、このことを言うのだろう。早樹子は病室に入るやいなや宙三の枕元に進み声を掛けた。
「父さん……。父さん……」
二度、三度と繰り返して宙三を呼んだ。すると、これまでぴくりともしなかった宙三の両腕が動いた。宙三は、その腕を自分の顔の上に持っていき、掌を宙で動かした。
「父さん、どうしたの」
早樹子が声を掛ける。それは明らかに何らかの意味を持った動きに見えた。
「父さんなば、大工仕事をしてるなだな」
と佐江。確かに、左手で釘を押さえて右手で金槌を振るっているようにも見えるし、左手で材木を押さえて右手で鋸を挽いているようにも見える。崇志はその仕草を見て、宙三が眠りから覚め、昨日までの姿に戻っていくのではないか、と思った。そして、次に見せる動きを待った。しかし、いくら待っても宙三の腕は動かない。
◇ ◇ ◇
小学生の頃、崇志は、宙三の建築現場へよく遊びに出かけた。その現場は家から自転車で数分の所にあった。
現場の北側には畑が広がり、その先に鉦打沢川という小川がある。高学年の子供たちがヤスと水中めがねで川底のカジカを狙っている。崇志は、近所の子供たちと友達になり、野山を駆けめぐって遊んだ。喉が渇いたら宙三の居る現場に行けばよい。引いたばかりの水道があったし、たまには冷えたサイダーにありつけることもあった。
基礎工事が終わった現場に棟上げを待つ角材が下ろされた。数日前まで、宙三と職人たちが自宅の作業小屋で墨付けをして刻んだ角材だ。墨差し、墨坪、差し金などを使って墨を入れていく仕事に宙三の知性を感じる。彼が付けた墨に従って職人たちが角材を刻んでいく。長方形に描かれた印の中に、電動ドリルで穴を三つ空ける。波状の不必要な部分が残る。それをノミで丁寧に削り取っていく。すると最後にきれいな長方形の穴ができる。対して凸の部分が鋸で作られノミで微調整される。こうした作業が夜を徹して行われた。だからこそ棟上げは職人たちにとって格別の時となるのだ。
現場は朝からきれいに晴れ上がり、絶好の棟上げ日和となった。アブラゼミの声が気温の上昇を予感させる。宙三は、地下足袋、作業ズボン、白い半袖肌着、手ぬぐいの恥巻きといった出で立ちで、早々に棟上げに着手していた。
職人たちが、柱となる角材を肩に担いで運び、それを土台の上に次々に立てていく。太い梁は四人がかりで持ち上げ、柱と柱の間に渡す。全てが息のあった連携作業である。一階部分の組み立てが終わると、梯子で梁に上り二階部分の組み立てに入る。今度は、下から押し上げられてくるロープのかかった柱や梁を引き上げ、また同じように組み立てていく。わずか十二センチメートルほどの梁の上を地下足袋の職人たちが躊躇することなく当たり前のように移動する。小屋束と母屋が組まれ、最後に垂木を組むと棟上げは終了である。
現場の周りには、知らないうちに近所の人々が大勢集まっていた。陽は大きく西に傾き、アブラゼミに代わってヒグラシが鳴き始めている。
崇志は近所の友達と共に観衆の中におり、その人垣の隙間から宙三の姿を探した。宙三は二階に上がり、仮に敷かれたコンパネの床に膝を突いて座っていた。そのそばには、ネクタイをした家主さんの姿も見える。
今まさに建前の儀式が始まるところだった。宙三は四隅の柱に、塩と米と御神酒を供えてから、木槌を高々と掲げ柱の上の方を数回叩いた。カーン、カーンと乾いた木の音が響く。続いて、ニ礼二拍手一礼で工事の安全を祈願すると、それに続いて家主も深々と礼をして柏手を打った。
崇志は、宙三の振るまいを誇らしげに見ていた。
「あれ、俺の父さんしゃ」
と、友達に自慢げに教えたものの、彼等の耳には、崇志の言ったことなど入ってはいない。ただひたすら建前を祝う「餅蒔き」の時を待っているのだ。
そのとき、何処かで一瞬ピカッと光ったかと思うと、裏山の方からゴロゴロと雷鳴が聞こえた。観衆が空を見上げる暇もない。雨粒がポツリと来たのはほんの一瞬。大粒の雨が滝のように、もの凄い音をたてて降り出した。人々は、あわてて近所の家の軒下に入り突然の夕立を見守った。崇志は、友達と共に近所にある棟続きの集合状宅の玄関先で雨宿りをしていた。「こんな時に雨が降るなんて、父さんの家が濡れてしまうよ」。崇志は、小降りになるのを見計らって宙三の所に向かって駆けだした。宙三は、一階に下りて建材や工具に雨が当たらぬように職人たちに指示を出していた。職人たちは指示通りに迅速に黙々と働いていた。
「父さん……」
「なんだ崇志。危ねがらあっちさ行ってれ」いつになく大きな声が響いた。長い建材や重い工具を移動している中を小さな子供がちょろちょろしていては、仕事にならない。第一危ない。崇志は、宙三のことを心配して声を掛けたのだが、彼に出来ることは何もなかった。離れたところでじっとしているのが彼の為すべきことだったのだ。
やがて雨は止み、予定していた餅蒔きが行われた。子供たちは帽子を逆さにして、おばさんたちは前掛けを広げて、中には雨傘を広げて逆さにしている人もいる。その中に、宙三に叱られ、さっきまで少し悄げていた崇志の顔もあった。もちろんもう笑顔になっている。崇志は分かっているのだ。宙三は自分を守るために叱ってくれた。そしてそれは、宙三の仕事場を守るためでもあったのだと。
宙三と家主さんが二階から餅を蒔くと大喝采となる。観衆のあちらこちらから「こっちさ蒔け、こっちさ蒔け」と声が掛かり、建前の儀式は最高潮となった。
餅蒔きが終わり観衆たちが立ち去ると、建前を祝う酒宴が始まる。宙三はそこで頭領として挨拶をした。
「本日は、無事建前が行われましたこと、誠におめでとうございます」
決して通りがよいとは言えないハスキーな声が聞こえる。日が落ちて暗くなった空の下、今朝方まで土台しかなかった場所にしっかりと家の形が浮かび上がり、その屋根の下を裸電球が照らしている。宙三の話に家主さん家族と職人たちが車座になって耳を傾ける。
「先ほどの突然の夕立には驚かされましたが、雨の日の棟上げは、昔がら『降り込み』と言って『幸せを振り込む』どが『福を招ぎ入れる』という言い伝えがあり、大変縁起がよいと言われでいます。木材も一日ぐらい濡れだ方が引き締まるど言われでいます。ですがら、この家は、より一層強ぐ頑丈になります。本日は誠にあめでとうございました」
その頃、崇志は宙三のいない居間で、佐江や姉たちといつも通りの夕食を摂っていた。棟上げの現場で見た宙三の姿が脳裏に浮かんでくる。普段は口数が少なく、前面に出ることが少ない父だと思っていたが、仕事場では全く違っていた。崇志は、その姿を潔く清々しいとさえ思った。だが、彼はその感情を上手く表す言葉を持たない。ただただ「父さんのようになりたい」と強く思うだけだった。
◇ ◇ ◇
病室へ、身内への連絡を一手に引き受けていた従姉がやってきた。
「やっと連絡が付いだよ。有樹子ちゃん、今、金沢にいるんだど。」
有樹子とは、崇志の次姉である。有樹子は、二日前から短期大学の修学旅行に行っていたが、中学や高校の旅行とは違い、詳細な行程は親元にまでは知らされていなかった。だから、連絡が着いたという従姉の報告は朗報だった。だが、「これがら、十時発の夜行に乗るがら、着ぐのは明日の朝九時頃になるんだど」と聞くと、皆一様に顔を曇らせた。それぞれ腕時計を見たり、顔を合わせたりするなどして事態の深刻さを確認した。従姉は続けた。
「それがな、どごに泊まっているのか分がらねべ。んだがら、金沢の観光協会に電話して、事情を話して学生が泊まりそうな所を紹介してもらおうど思ったなよ。そしたら、親切なもんだ。向ごうで探してくれるって言うのよ。それで、一時間も待ったべがな、先方から電話が来て見つかったっていうなよ。それがなんと、金沢のホテル、旅館、民宿が合わせて二百八十件あるども、その二十八番目に電話したところに居だんだど……」
皆は、驚きと落胆とが入り交じったような気持ちでその話を聞いていたが、確実に次姉に連絡が取れたことには、間違いなく安堵していた。
「二百八十件中二十八番目とは何の因果なべな。明日はちょうど二十八日だ」
と誰かが言った。
そのとき、ベットの方から「ううー、ううー」という唸り声が聞こえた。皆が振り向くと、宙三が、胸を大きく上下させている。
「父さん、どうしたの」
と早樹子が声を掛けた。すると宙三は、
「痛で、痛で。起ごしてけれ、起ごしてけれ」
と、助けを求めるように両手を前につきだした。その手を佐江が握り、ベットの向こう側にいた早樹子と共に抱き起こした。宙三は佐江の腕に支えられながらベットの上で背中を丸めて暫くじっとしていた。
「宙三さん、あんまり長ぐ寝でだがら、背中が痛ぐなったんだな」
伯母の言葉に回りが頷く。
「有樹子ちゃんの話をしてだがら、宙三さんも心配になったんだな」
「宙三さん、有樹子ちゃん、もうすぐ来るがらな」
と、叔母たちが口々に励ます。宙三の背中を佐江が撫でる。宙三は、じっと目を閉じて痛みが過ぎ去るのを待った。
本当は自宅で療養して治したいと思っていた。だが、骨まで差し込むような痛みにはもう耐えることができなくなっていた。宙三は自ら入院を希望した。
崇志は、ベットの上に座っている宙三を見て、自分の父親は今回復に向かっているのだ、と思ってしまいそうになった。母に告げられた父の容態と現実の父の姿がどこかで不一致を起こしていた。
病室の柱時計が午後十時を過ぎた。宙三はその後も何度か痛みを訴え、ベットの上に抱き起こされた。
「宙三さん、あんまり起ぎるど疲れるがら寝でれ」
と、伯母が言った。それが宙三にとって良いことだったのかどうかは分からない。しかし、宙三は次第に起こしてくれと言わなくなっていた。
そこへ仙台に嫁いだ叔母が到着した。彼女は、真っ直ぐに宙三の枕元に行き話しかけた。「兄さん、私よ、善子よ。兄さん、分かる」
九人兄妹の末っ子。茶色のスカートに色柄のブラウス、その上にカーディガンを羽織っている。崇志は、畳に座ってその様子を傍観していた。いくら呼びかけても宙三は返答しない。叔母は、差し入れのお握りを手に取った。
「兄さん、さあ起きて。お握り食べて。私等、小さい頃、お腹いっぱいご飯なんて食べられなかった。兄さんは勉強ができたけど、あのころは、誰もが上の学校に行ける時代じゃなかった。高等二年で弟子入り。頑張って、頑張って、やっと工務店を持つまでになった。これからというときなのに、こんなことになってしまって……。兄さん、お握り食べてよ、ねえ兄さんたら……」
叔母が口元にお握りを持っていくが、宙三は眠ったままである。
崇志は、叔母のすすり泣きに耳を塞いでしまいたかった。畳の上で膝小僧を抱え天を仰ぐと、そこには、思った以上に高い天井があった。天井から一本の電灯線が吊り下げられ、その先にぶら下がった蛍光灯が病室を薄ぼんやりと照らす。天井の奥は闇に包まれている。黙って見ていると吸い込まれてしまいそうになる。崇志は思わず目を反らしたが、天井の下にあったのは、父の臨終という現実だった。
今は、何時なのだろう。近親者たちはそれぞれの家や宿泊先に一時戻り、病室にいるのは、佐江と崇志、そして長姉の三人となった。
◇ ◇ ◇
その朝早く、崇志は、自転車に乗って病院から五百メートルほど離れた自宅へ向かっていた。黒ズボンに白いワイシャツ。昨日の夕方、宙三の病室を訪ねたときと変わらない出で立ちである。崇志は朝の冷気に向かって自転車をこいだ。九月下旬。昨日までは、汗ばむほどの暑さが残っていたのに、これほど急激に気温が下がるとは……。
「崇志、お前は先に家さ行ってでけれ。母さんももうすぐ父さんと一緒に帰るから……」
崇志は、自転車をこぎながら、病室を出るときに佐江に掛けられた言葉を思い出した。「父さんと母さん、二人して帰ってくるのか……」考えてみると父親のいない生活が随分長く続いていた。
宙三は、叩き上げの職人だ。その腕一本で技術を磨き資格を取り工務店を営むまでになった。丁寧な仕事が信用を生み顧客を増やした。その仕事ぶりを見込んで腕の良い職人たちが集まってきた。宙三は、どのような人生の青写真を描いていたのだろうか。絵の得意な宙三は、暇があると家のデザイン画を描いていた。製図用具をいつも手の届く所に置いて、四六時中設計に明け暮れていた。自分の理想とする家造りを目指していた。目標があった。夢があった。娘息子の将来の姿を思い描くときもあっただろう。宙三が佐江に漏らした「崇志には、俺の仕事を継がせるつもりはない」という話は本心だったのだろうか。
崇志は、これから何がどう展開していくのかも分からない不安を胸に、久し振りに帰宅する宙三を迎えるために家に向かう。
「勇ましきかな 我らが選手……」
宙三と一緒に歌った応援歌が鼻腔のあたりで微かな息となって奏でられ、それはやがて崇志の唇を小さく動かし言葉となり歌となっていった。胸の中では、少し遠慮がちに拳を振り上げては降ろす動作を繰り返している。本当は父親の死なんて実感できていない。病院のベットにはまだ宙三の体温が残っていた。一昨日の歌声も昨夜の鼾もうわ言も、皆病室に残っていた。
押入の前に敷かれた白いカバーの薄掛け布団。牡丹の絵柄は来客用である。布団に寝かせるとき、佐江が宙三に話しかけた。
「父さん、やっと自分の家の布団に寝ることができたな。えがったな」
その言葉は集まった親戚やお手伝いの人たちの涙を誘った。父親の死をまだ十分に受け入れることができないでいるのに、崇志は佐江の言葉とそれに対する人々の反応に涙ぐんで
しまう。それでも、ぐっとこみ上げてくるものをこらえて宙三の枕元に座った。
白い布からロマンスグレーが覗いている。
誰がとかしてくれたのかきれいに櫛が通っている。昨日の朝付けたのだろう、宙三が愛用していた整髪料の香りがほのかにする。佐江の手によって押入の鴨居に茶色のブレザーを着たハンガーが掛けられた。宙三が病院へ行くときに着ていたものだ。病気をしてからおしゃれを覚えた宙三お気に入りの一着である。このブレザーの内ポケットから櫛を取り出してよく髪を撫でていた。
大人たちは今後の諸準備に忙しく動いている。崇志は宙三と二人きりになった。目の前に顔も身体も小さくなってしまった宙三が寝ている。
「父さん」
「んーん」
「なあ、父さん。俺は父さんの跡を継ぐつもりでいだなだよ。父さんみでんた(みたいな)大工になろうと小さい頃からずっと思っていだなだよ」
「んーん」
「父さん、本当は俺に跡継がせでがったななべ、なあ父さん」
「んーん」
崇志は、自分の問いかけに宙三がどう応えているのかを心で感じ取ろうとした。目を閉じて心を宙三の心の方に向けてみる。それは、音にならない、言葉にならない信号だった。しかし、それは確かに崇志の心に聞こえてきた。決して明確な答えではないが、崇志の思いの全てを受け止めて包み込んでくれる広く深く温かい、そんなイメージの信号だった。「父さん」と声を掛けると「んーん」と応える。口数の少ない父親だったが、一昨日は息子と一緒に応援歌を歌い晴れ晴れとした気持ちになっていた。父と子の心の交流はまだ続いている。崇志は、この会話を失いたくないと強く思った。