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昼休み

 1


 なにかがおかしい。なにかもっと別の事態が起きている。

 俺はドラッグストアに車を停め、額に手を当てた。危うく、支えている肘がハンドルの上を滑ってクラクションを鳴らしそうになった。そんなことに冷や汗をかいている自分にもさらに苛立った。


 どういうわけだか、カラオケにも、ゲーセンにも、本校の生徒はいなかったのだ。まるで俺を嘲笑うかのように、暇を持て余す老人や無職らしい若者、休講の大学生ばかり集まって、日常を無意義に消費していた。俺の推測が外れた、ということなのだろう。しかし、そんなことを認めたくないほど、あいつらは俺を不愉快にする。

 俺の手を患わせやがって。

 あの輩はなにを企んでいるかわかったもんじゃない。ということは、とんでもない大事件を起こしている可能性もある。それは確実に、俺の職を奪う追い討ちとなるのだ。絶対起こって欲しくないと思いつつも、ほぼ確定事項であるような、そんな気持ちの悪い状況に立たされている。神経を目の粗いやすりで削られて、このどろどろした感情を湧かせるな、というのは無理な話だ。


 俺の行動理念は、首尾一貫して『復讐』にある。ある結果を生み出すため、緻密かつ残虐にプログラムされたロボットの如く、F組の生徒を見つければこの手でしばく。当然だが、物理的にだ。「なにかが起こった」時点で俺の失職への道のりは坂を転げ落ちるように加速している。それならいっそ殺ったほうがまし。そう覚悟して学校を飛び出したのだ。

 俺は決意を固めるように、両手を強く握り込めた。……よし。

 

 ふと時計を確認すると、短針がほぼ『1』に重なる時刻になっていた。今頃なら弁当を食べている時間だが、財布や車の鍵など必要最小限のもの以外学校に置いてきたままで、昼食をとることができないのだった。まさかそのために学校へ戻るわけにもいかない。どこか外で食べようと思い、ここは鳳楽商店街に近いことに気付いた。そういえば、楼閣屋はその商店街に店を構えているのではなかっただろうか。

 心が安らぎに包まれる感覚を味わった。俺は地元民ではないので、この高校に赴任してきて始めて楼閣拉麺を食べたのだが、あの味は今まで食べてきた拉麺、いや、すべての料理の記憶を一瞬で消し去るような衝撃的な味だった。もうすこしで落涙したほどなのだ。

 考えれば考えるほど胃の中は空になっていき、堪えられなくなったので急いで車を降り鍵を閉めた。

 腹が減っては戦は出来ぬ。

 俺は来るべき生徒との攻防に備え、確実な足取りで商店街へ向かった。空は腹立たしいほど澄み渡っていた。





 2


 右手にはゲームソフト。左手には漫画。一挙に手に入るなんて思わなかったから、思わず顔がにやけてしまう。レジで支払いを済ませながら、上がる口角を必死に押しとどめていた。

 最後の一枚であった英世とは涙を呑んでお別れしたが、代わりにこんな素晴らしいものが手に入るのならば、財布を軽くする引き換えとしてはふさわしい。ああ、良い買い物したなあ。

 店員は事なかれ主義なのか、制服を着たおれが入店しても咎めることはなかったので、まんまと物欲を満たして陽のあたる場所へ出た。


「あ」


 おれはそこでようやく忘れ物に気付いたのだった。さっきまで一緒に行動し、共に拉麺を食べた少し性格の悪いクラスメイトを。

「南波さん……どこ行った……?」

 記憶を辿ると、楼閣屋を出たところで彼女の行方は知れない。いや、おれが勝手に消えたんだから少し語弊がある。でもどっちにしろ彼女がいない事実に変わりはない。一応楼閣屋を横目で見てみたが、当然のように彼女の姿はなかった。一体どこへ行ったのだろう。


 もしかして、放ったらかしにしたおれを怒って帰ってしまったのだろうか。正解だったらぞっとする。あとが死ぬほど怖いのだ。購買にパシらされる、だけでは済まないかもしれない。ていうかパシリ以上の行いを強いられるって、なにやらされるんだろう。想像できないところがおれの恐怖心を増幅させる。迂闊な行動をとるんじゃなかった……。

 メールを送って返信がないと恐ろしいので、その連絡手段は最後にとっておこう。とりあえず、目の前の脅威から逃げることにした。エスケープ、エスケープ。なんか松井さんみたいだ。ミイラとりがミイラになる、をまさに体現していて客観的に面白い。

 

 そういえば、松井さんは昼ごはんどうしてるんだろう。まさか楼閣屋で暢気に麺を啜っているはずがない。そんなことをしたら見つかるに決まっているし、逃げる身としては不自然だ。そこまで馬鹿だと思ってない。きっとどこかで大人しくお腹を空かせているんだろう。





 3


「ふわあああ、美味しいいいい……!」

 麺をのどに送り込むと、そう叫ばずにはいられなかった。久し振りに食べると、感動も二割り増しなのだ。最後に食べたのはいつだったっけ。……二週間前くらい?

「怜子がアホ面」

 ケタケタと妖怪のような笑い声が耳に飛び込んできた。横目でじっと睨むと、実に楽しそうに由宇莉ちゃんが大口を開けていた。あんたもさっきはアホ面下げて拉麺食べてただろうが。


 正面には由宇莉ちゃんのお兄さんと、その彼女である澄さんが腰かけ、私と同様に拉麺を食べている。店内には私たちしかおらず、偶然にも貸切となっていた。厨房に店主の姿はない。多分奥へと引っ込んだのだろう、そのせいでまるで我が家の雰囲気だ。

 その中で私たちは自分の状況を一から説明し、互いを馬鹿にし笑い合って、現在に至る。なかなかに和やかな空気である。


「お前ねえ、学校休んで暇だからってなに阿呆なことやってんだよ。兄さん悲しいよ」

 早食いなのか、既に食べ終わった椀を揺り動かしてスープを波立たせている南波さんが、妹である由宇莉ちゃんに話しかける。由宇莉ちゃんは冷めた目で言い返した。

「あんただって、平日だというのにこんなとこで油売っているじゃないか」

「拉麺食ってんだよ、うるさいな……。ていうか今日は休みだ」

「あらそう。もうこんな時期なんだし、先輩の卒論とか手伝ってやりなよ」

「嫌だ」

 この喧嘩じみた会話を聞いていると、ふたりがとても仲の良い兄妹だとわかり、微笑ましくなった。私には兄弟がいないから、とても羨ましい。私はなんとなく小刻みにリズムをつけて麺を啜った。


 私が拉麺を食べ終わったのは、澄さんが箸を置いてから少し時間が経ってからだった。胃の容量は最大何ギガバイトか知らないが、とにかくお腹いっぱいで、おまけに瞼も重たくなってきた。狭くなる視界の中、南波さんが無遠慮な目線を寄越していることに気付いた。なんですか、と問うと、

「澄より食べるのが遅いなんて、お前よっぽどアレなんだな」

と意味のわからない返答をされた。

「なんですか、それは。侮辱しているつもりですか」

「いや、馬鹿にしてるんだよ」

 つくづく失礼な御人である。頬を膨らましていると、出目金みたいだとみんなに笑われた。うるせえ、出目金が膨らんでるのは目玉だ!


 しばらく笑われ続けた私は眠くなる暇も与えられず、寝起き直後のように覚醒していた。腹立たしいこと限りないが、これが後に私を助けてくれるのだから人生ってわからない。だからきっと感謝すべきことなのだろう。


 笑いに一段落着くと、南波さんが唐突に喉が渇いたと言い出した。生憎この店は飲料すら出していないので、外へ買いに行く他手段がなかった。水くらいなら飲ませてくれるかもしれないが、なにせ店主がどこに引っ込んでいるのかわからないので、水泥棒というなんとも時代錯誤な犯罪に手を染めるしかない。それにここは田舎ゆえに水が美味しいのだけは取り柄だが、楼閣屋ならどんな怪しい水を使っていても不思議ではないから、自販機でお茶を買うほうが一番安全なのだ。

「ういー、面倒くせえ」

 鉄球でもベルトからぶら下げているのではと思ってしまうほど鈍重に、南波さんはその重い腰を上げる。いかにも眠たそうな目を擦りながら、のたのたと出口のほうへ向かった。そんなこの世のすべてからやる気を吸われたような背中に、

「コーラ」「ジンジャーエール」「ブラック珈琲」

と私たちはからかい気味で浴びせた。ちなみに一番最初に声を上げたのは由宇莉ちゃんである。本当にこの子はサドな女の子だ。クラスの男子を顎で使う技は、お兄さんで鍛えられたのかもしれない。

「パシらせんなよ」

 振り返って苦笑を浮かべた南波さんは、それでもちゃんと了解してくれた。意外と優くすることもあるんだなあ。妹に弱いのかは置いといて。


 私たちは朗らかに南波さんを送り出し、古い空気の染み込んだテーブルを囲んで女子トークに花を咲かせようとした。澄さんが笑いを含んだ表情で話し出そうとしたとき、外から南波さんの驚いた声が流れ込んできた。気の抜けた、日常にするっと溶け込めるような声色。どうでもよかったけど、私は何気なくそちらに目を向けた。ううむ、よく見えん。ぐらっと体を横に傾け曇り硝子を見つめて、その陰を捉えたとき、危うく椅子からずり落ちそうになった。

「ん?なにどしたん」

 顔面蒼白で、膝もかたかたと震えている私を見て、由宇莉ちゃんも扉を凝視した。釣り上がった目を細めて、硝子を溶かしてしまうような眼光を放つ。幾秒か経ったあとに由宇莉ちゃんも目を大きくした。

「あれってもしかしてさあ……」由宇莉ちゃんは曖昧に笑って、「担任?」

 やっぱりそうなのだ。

 わずかに漏れ聞こえる声の特徴を読み取り、私は確信した。

 とてつもない脅威が今、薄い扉を隔ててすぐそこに迫っている。





 4


「あれ……?先生……ですよね?」

 楼閣屋へ向かっていた俺は、ちょうどそこから出てきた人物に呼びかけられた。この間延びした声に、頑固な癖毛。記憶の中を検索すると、ひとり思い当たるやつがいた。

「南波か……?おう、久し振りだなあ」


 彼は何年か前の教え子だった。目だけは鋭利だが、常にぼうっとしていて、授業中もなにを考えているかわからない生徒だった。しかし学業成績はずば抜けて良かったし、部活でもバスケ部の部長として活躍していたので、俺の中でも印象強い。たしか、渓大に合格したのではなかったか。


「本当ですね。あ、今は由宇莉の担任をしていらっしゃるんですよね?いつも妹がお世話になってます」

「いやいや、あの子は本当に気丈で手のかからない良い子だよ」

 ……性格が悪いというか、気が強い生徒だが。教師にもあまり遠慮しない子なので、大抵の教師があまり刺激しないように気をつけているように見受けられる。俺もそのうちのひとりだ。

 俺はうっすらと笑みを浮かべ、心を読み取られないように牽制した。まあ、こいつ相手なら大した心配はいらないだろう。南波はそうですか?などと適当な相槌を打っていたが、ふと首を傾げ、

「それにしても……先生は今日、ここでなにをしておられるんですか?」

 しまった。俺は心の中で悪態をつく。平日の真昼間にこんなところをうろついているなんて、不自然だろう。まさか今の事態を説明するわけにもいかない。信じてもらえる保障もないのだから。ここはなんとか嘘で切り抜けるしかない。

「……娘が熱を出して、帰るついでにここでなにか栄養のつくものを買おうと思ったんだよ。そっちこそ、大学にも行かずになにしてるんだ」

 どうでもいいが、俺に娘はいない。その上配偶者もいない。つまりこれはごってごての大嘘なのだ。しかし学校で家族の話をしたことはないし、注意力の低そうなこいつに見抜かれることはないだろう。読みどおり、南波は聞き流す姿勢で返事をしてくる。

「ああ、今日は休みなんですよ。暇だから拉麺でも食べようと思って」

 南波はうしろで手を組み、薄ら笑いを浮かべた。……相変わらず、笑顔の下手な子だ。

「俺も、昼はここで済ませようと思ってたんだ。美味しいしな、ここ」

「そうっすよねー!先生も好きなんですね、ここの拉麺」

「まあな。初めて食べたときは衝撃だった」


 ……ああ、こんな立ち話してないで早く拉麺が食いたい。そろそろ腹も限界になってきたし。

 しかし、……なんなのだろう、南波の態度が妙に変だ。一ミリたりとも動こうとせず、まるで俺を中に入らせまいとしているみたいに思える。気のせいだろうか。中になにか隠しているとか?……いやいや、自分の家でもあるまいし、なにを隠すというのか。懐かしい先生に会って思い出に浸っているのだろう。俺は教え子に会ってもなにも思わないというのに。

「中毒性ありますよね、楼閣拉麺」

「ああ。……なんかすごく腹減ってきたな。そろそろ入るよ」

 外は寒い。早くストーブで温まった店内に入りたい。

「あ……ちょっと待ってください。今準備中っぽいですよ」

 扉に手をかけようとした俺を身体で防ぎ、言い訳めいたことを呟く南波。一体なんなのだ。俺は眉根を寄せて彼を見上げた。冷や汗を流していそうな表情をして、非常にわかりやすい。

「いやいや、そんなわけないだろう。札も掛かってないし」

 やはり嘘だったようで、変な笑い顔で頭を掻いている。俺を中に入れたくない理由があるのか?訝しんでいると、南波はなにかを諦めたように肩を落とした。

「あのー、実は、この中に俺が今付き合ってる人がいて、……だから、なんか……恥ずかしいな、って……」

 柄にもなく、ほのかに頬を赤く灯らせる南波。


 ……ほお。あの無愛想な南波が、大学生になって彼女をつくったか。人間、なにが起こるかわからないもんだなあ。

 というか、なんだ、そんなことだったのか。照れすぎだろ。どんだけシャイなんだよ。

「大丈夫、なにも詮索はしないから。俺は端っこで静かに拉麺食ってるよ」

 俺は南波の肩を叩きながら言った。腹を満たせるのなら場所なんてどこでも良い。

「はあ、すいません」

 口癖のように謝る南波はぎこちなく扉の前からどき、俺に空けた。いつもどおり滑りの悪い扉に苛付きながら強引に開け、拉麺の香りを肺いっぱいに吸い込む。……ああ、大気がこれで構成されていれば良いのに。


 小さな店内には、若い女性がテーブル席に座っているだけだった。これが南波の彼女だろうか。なんというか、すごく美人だ。なんでこんな締まりのなくて目つきの怖いやつと付き合っているんだろう。

 彼女は俺の姿を見ると、朗らかに会釈をしてきた。俺も久し振りに微笑みながらそれに返す。とても良い子じゃないか。少し羨ましい。

 南波も俺に一礼すると、彼女のところへと戻っていった。俺は溜め息を吐きながら、前言どおり隅の席に腰を下ろす。目の前に広がるのは汚い厨房だけで、なんとも味気ない。


 そういえば、料理屋に入っておいてなに馬鹿なこと言ってんだと思われるだろうが、俺は注文するのを忘れていた。ただ席に座っただけだ。阿呆丸出しじゃないか。幸い、南波たちは先ほど出て行ったので人前で恥を晒すことはなかったが、首のうしろがむず痒くなる。この俺が失態を犯すなんて。

 急いで注文しようとすると、店主が湯気の立ち昇る器を持ってやって来るところだった。……俺はまだ注文していないはずなのだが。店主の無表情を眺めながら、俺は懐疑をつのらせた。





 5


 なんで担任がこんなところにいるんだ!私は震える足で立ち上がり、扉にはめ込まれた曇り硝子を凝視した。南波さんが立ちはだかっていてよく見えないが、あの体型や背の低さ、それに声質を組み立てると担任になるのは確実だった。もしかして、私たちを追って出てきたのだろうか。そうだとしたら、もう一巻の終わりだ。

 どうしようもなく情けない顔で由宇莉ちゃんに目線で助けを求めると、意外にも落ち着いた顔をしていた。暖簾のあたりをじっと見つめ、なにか考えているようだ。私は泣きそうになりながら、由宇莉ちゃんを見守る。刹那、由宇莉ちゃんは同様に立ち上がった。そして素早く私と澄さんの手首を掴むと、店の奥へと引っ張っていく。

「んっ?由宇莉ちゃん……?」

「うるせえ黙ってついて来い」

 うわあ、怖い。由宇莉ちゃんがクラスの男子を恐怖のどん底に突き落とすときと同じ声のトーンだ。なにもそこまでして黙らせることないじゃないか。と言っても反抗すれば殺されるので、大人しくついて行く。一緒に引っ張られている澄さんを見てみると、なんかとても楽しそうな顔をしていた。……なんなんだろう。この人。危機感とかないのだろうか。犯罪に巻き込まれたときが心配だ。……うーん、笑いながら犯人に空き瓶殴りつけそうだ。それなら大丈夫か。


 由宇莉ちゃんに連れられた先は、店の裏口の隣にあるトイレだった。こんなところにトイレなんてあったんだ、と驚く暇も与えられず、澄さんと一緒に窮屈な個室に押し込まれる。

「そこでお互いの服交換して!早くね!命取りになるから」

 由宇莉ちゃんの焦燥感溢れる声に促され、急いでパーカーを脱ぐ。

「店の裏口使わせて。あと、なんとか担任の足止め、お願い!」

 店のおじさんに頼んでいるのだろうか。おじさんの声は小さいのか、もしくはまったく出していないのか、鼓膜を揺らすことはなかった。聞こえるのは由宇莉ちゃんの声だけである。


 出来る限り早く着替えた私たちは、由宇莉ちゃんに遅い!と怒られながらも次の指示に従う。澄さんはさっき私たちが座っていたテーブル席に座り、私はまた由宇莉ちゃんに手を掴まれる。

「じゃあ澄ちゃん、またね!」

 私たちは手を振り合って別れの挨拶をした。由宇莉ちゃんが勢いよく裏口のドアを開けると同時に、商店街側の扉ががたがた鳴る音がした。私は由宇莉ちゃんに力強く背中を押され、店外に出る。つんのめって転びそうになるのを由宇莉ちゃんに助けられ、なんとか前を見据える。

 

 そこには、だだっ広い平地が広がっていた。商店街には裏側があるなんて当たり前のことだけど、店先しか見えないし、想像したこともなかったので異世界に迷い込んだみたいだった。私は由宇莉ちゃんに引っ張られながら、店と空き地の間を走る排水路を飛び越え、向こうに立つ家々の隙間に逃げ込む。日が当たらない上にじめじめしていて、陰鬱な雰囲気だった。

「兄さんが時間稼ぎしてくれたから助かったよ。危なかったなあ」

 由宇莉ちゃんがブロック塀に背中を預けて安堵の溜め息を吐く。私はさっきの絶体絶命の危機を乗り越えられたことが信じられず、ただ楼閣屋の裏口を見つめた。

「よし、担任は始末したけど、残る問題はクラスの阿呆どもか。あんたまだ追われてるんだから、こんなところでじっとしてたら見つかっちゃうよ」

「あのさあ、由宇莉ちゃん」私の手を引っ張っていこうとする由宇莉ちゃんを引き止め、「由宇莉ちゃんは吉田君たちの味方なんじゃないの?」

 だって、さっきの話では、由宇莉ちゃんもわたしを捜し出す任務に加担し、吉田君と行動していたということだった。それなら由宇莉ちゃんはスパイということになり、つまり私はこれから敵に引き渡されるということになる。そんなことになってたまるか。しかし由宇莉ちゃんはやれやれ、という顔で私を見、溜め息を漏らした。

「あたし、吉田君に置いてかれたんだよ?なんでそんなやつの肩を、今でも健気に持たなきゃいけないのよ。好きなわけでもないし。あたしは、怜子の友達なんだよ。友達の味方しないでどうすんの」

 優しく頭を蹴り飛ばされた気分だった。

「南波兄妹は神だ!」

 ていうか私!こんな友達を疑うなんて馬鹿!鬼畜!変態!

「一生由宇莉ちゃんに付いて行きます!」

「は?ああ、よくってよ」


 やっぱり由宇莉ちゃんは頼りになるなあ。この人が男だったら絶対結婚するのに!……と考えていると、また戸田君のことが脳裏を掠めた。心臓が一拍分遅れて大きく躍動する。……なんやねん、さっきから。私は少女漫画の主人公か。嫌だ嫌だ、そんなキャラじゃないのに気持ち悪い。


 私は側頭部の髪をぐしゃぐしゃとかき回し、馬鹿みたいな考えを一掃した。現実に意識を固定して、逃げることに集中する。由宇莉ちゃんに手を引かれながらよく知らない路地を駆け抜ける。昼時なので、家々の窓から食器の当たる音やテレビの中でニュースを読み上げる女の人の声が聞こえてくる。それらは混ざり合い、雑音となって暗く細い道を満たした。私たちは音をかき分け、尚進む。走る。角を曲がって……。……うーん。

「由宇莉ちゃん、これ、どこかに向かってるの?」

 私の前を走る由宇莉ちゃんに問う。足取りには迷いがなく、闇雲に走っているわけではなさそうなのだ。由宇莉ちゃんは足を止めず、私にちらりと視線を寄越した。

「これから、兄さんの友達のアパートに向かう。休みの日はだいたいともくん家に集まって麻雀やってるから」

「……ともくん?」

「兄さんと同じ研究室のやつだよ。やつ、つっても兄貴と同い年だからはたちなんだけどね」


 ……な、なんか、交友関係の網を渡りすぎじゃあないか?しかも私の知らない人たちだし。でも、由宇莉ちゃんがよく言ってる「面白いこと第一主義」みたいな事態ではある。ここはひとつ、乗っかってやりましょうか。だって私は由宇莉ちゃんの弟子だもの!

「普通に行くと遅いから、塀の上とか登って近道するよ」

「了解です、師匠!」

「師匠?あたし?……あっはは」


 由宇莉ちゃんの笑い声は陰鬱な道に清涼な風を吹かせ、愉快に彩る。私も一緒になって笑って、猫の通学路みたいな道のりを走った。

 逃走劇は気分次第で七色に染め移る。それなら私は明るい色の上を走りたい。戸田君に迷惑をかけている分際で、そんな不謹慎なことを思った。





 6


 商店街までの道のりは結構長かったけど、学校の時間割でいう昼休みが終わる前には辿り着けそうだ。ということで、学校にいない、という点を除けば至って普通の日常を送れているわけだ。……なわけないか。その“学校にいる”という設定が僕たち学生にとっては重要な土台となるわけだし。

「腹減って死にそう」

 腹を抱えて、今にも倒れ込みそうな姿勢となっている阪本のためにも、早急に楼閣拉麺を食さなければ。果たして、僕たちは楼閣屋の前に立ち、あの絶品楼閣拉麺の味を思い返していた。扉を開けた瞬間、鼻の奥で弾ける香りが、まるで今この場所に流れているかのように想像できる。高鳴る胸を手で押さえながら、喜々として扉に手をかけようとしたときだった。


「ちょっと待って」

 阪本が僕の伸ばした腕を掴み、なぜか制止する。腹が減って今すぐにでも食物を摂取しなければ餓死するくせに。心の準備、とか?阪本って、そんな可愛らしいことするやつだっけ?それとも、俺に開けさせろ?ああ、こっちの線のほうがまだあるかもな。でも阪本はそんな強欲なやつじゃない。ましてや、こんなちっぽけなことで争おうとするわけがない。あくまで比較した上での話だ。じゃあ、本当はなんなんだ?

 そんな僕の疑問に答えるように、阪本がゆっくり腕を挙げ、暖簾のあたりを指差した。指先を辿った先にあったのは、この世に神も仏もないのかと嘆きたくなってしまうような、そんな無慈悲な四文字だった。


『本日閉店』


「うわあ、なんでだあ!」

 僕は阪本とともに店先の前に泣き崩れた。

 なんでこう強く望んでいるときに限って、運命は希望の糸にハサミを添わせるんだ!いっつもそうじゃないか、ひでえよ!

「戸田……」

 病床の患者みたいな細い声が阪本から漏れ、はっとして振り向く。阪本はすでにその場にくずおれて、情けない顔で僕を見上げていた。

「もう、俺、限界だ……」

「阪本ーーっ!」

 うつろだった目も閉じて、生存不能となってしまった友の亡骸を腕に抱えながら、非情な世の中を嘆く。僕はこれからこいつなしでどう生きていけばいいんだ!ん、なんか今の恋愛小説っぽいぞ。気色悪い。撤回しよう。


 途方に暮れて楼閣屋の前に座り込み、回らない頭でこの状況の打開策を練ろうとする。しかし回らないものは回らないので、腹減った以外考えることができなかった。そんな僕たちを哀れに思ったのか、商店街を行き来する無数の流れの中からひとりの老人が声をかけてきた。今朝出会った老人とはまた違い、お洒落な服に身を包んだ感じの良い人だった。

「どうしたんや、君たち。こんなところに座り込んで」

 僕はぼんやりした頭でなんとか今の状況を説明する。

「拉麺食べようと思ったんですけど……閉まってたんです……」

 ていうか、こんなことは初めてだった。営業時間内に行けば必ず開いていたし、そもそもこんな早い時間から店じまいをするなんて考えられない。昼時に店を閉めるってことは、よっぽどのなにかがあるのだろう、としか言えない。

 すると、その老人はしたり顔で片方の唇を曲げた。

「こりゃ君たち、運が悪かったね」

 僕は意味がわからず、頷くことができない。なんの反応も見せない僕たちに向かって、老人はまた口を開く。

「あれが出てきたんだよ」と老人は言う。「海老炒飯が」

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