4限目
1
楼閣屋とは、商店街の隅にひっそり佇む拉麺屋のことである。商店街の創業以来ずっと営業している、という噂を裏付ける壁の油染みや、墨を垂らしたような色に染まっている窓枠の木が、なんとなく老舗を思わせる。店内に貼られているのは『豚骨拉麺』と『海老炒飯』のみだが、これがまたこの世のものとは思えないほど絶品なのだ。一口食べれば虜になり、二口食べれば中毒になり、三口食べれば他の拉麺が食べられなくなるといわれている。その中毒性故、小学生以下は立ち入り禁止となっているほどだ。
そんなおれも例に漏れず、楼閣屋の拉麺にどっぷりはまっている。
なぜかおれに奢らせる形へ持っていった南波さんと、ふたりして立て付けの悪い扉の前に立つ。薄汚れた『楼閣屋』と書かれた暖簾の奥では、何人の客が拉麺を啜っているのか。あの拉麺を食べているところを想像するだけで、口の中に唾液が溢れてくる。
「ここの拉麺、一ヶ月に一度は食べに来ちゃうんだよなあ」
南波さんが恍惚とした表情で言った。おれも生唾を飲み込んだ。楼閣屋の拉麺にはまり込んでいるクラスメイトは南波さんだけではないだろう。おそらく半数近くは少なくともファンだ。それくらいこの拉麺の認知度はすごい。この街の人なら誰もが知っているに違いない。
そういえば、おれは今まで豚骨拉麺を注文し続けていたけど、海老炒飯は頼んだことがなかった。絶対美味いに決まっているが、なぜだか拉麺のあの味を求めてしまうのだ。拉麺中毒恐るべし。
今日は海老炒飯を注文してみよう。そう心に決めた。
「じゃあ入ろうぜ」
はやる気持ちをぐっと抑え、険しくなる表情を放置して扉に手をかけた。南波さんが神妙に頷くのが目の端に映る。なにをたかだか拉麺で、と思うかもしれない。実はおれも今思っている。でも、楼閣拉麺にはそれを越えるなにかがある。そのなにかに魅了された成れの果てが、おれたちだ。
引き戸の取っ手に指をかけ、力を込めてずらす。一筋縄ではいかず、がたがた揺らしながら苦労して戸を開けることができた。すると、その隙間から豚骨スープの良い香りが流れ込んできた。あっさりとしていてコクのあるスープは、匂いすらおかずにできるような代物だ。幸せな香りに包まれたおれたちは、恥も外聞もなく盛大に腹の虫を鳴かせた。
2
「この道ずっと行くと鳳楽商店街へ着くみたいだ」
阪本が下り坂を見下ろして、少し驚きの色を含ませた声を出した。まあ無理もない。いつも学校帰りに寄るときには、こんな道使わないのだから。
「まるでローマじゃないか」
阪本の言うとおり、どんな細い小路を歩いていたって、方向さえ合っていればこの鳳楽商店街に辿り着く。すべての道が商店街と繋がっていると言っても過言ではない。
僕はポケットの中からスマホを取り出し時刻を確認した。もう正午近くなっている。学校を飛び出し、松井さんの捜索を初めてから三時間以上は経っていた。この小さな街で、こんなに時間をかけても見つからないなんて……。今日一日、僕の勇気は空振りして終わるんだろうか。
人間、切羽詰ると腹が減るらしい。いや、ただ昼飯時だからかもしれないが、胃の虚空が僕に訴えていた。喚き散らしそうだったので慌てて腹を押さえた。弁当は置いてきてしまったが、財布はある。
「阪本」僕は勢い込んで呼びかけた。「商店街になにか食いに行かない?」
「それならさ、楼閣拉麺食おうぜ」
「ああ、それ最高だわ……」
この世に楼閣拉麺より美味いものがあるだろうか。この街の人間を一人残らず虜にし、すべての舌を鎖で繋ぎ二度と断ち切られることのないその味を上回るものがあるだろうか。いや、ない。そんなものあるはずがない。世界に存在してはいけない。なぜなら楼閣拉麺が最高神だからだ。中学生の自己紹介ではクラス全員が好物の欄に『楼閣拉麺』と書き込むのが世の常。これは偶然ではなく必然だ。
だから僕は逡巡の間も空けず、実に素直に同意した。
3
目前で真っ白な湯気を立てる拉麺を見つめて、おれは盛大に溜め息を吐いた。
「ああ、今日こそは海老炒飯を食べるつもりだったのに……」
あの固い決意はどこへやら、豚骨スープの芳醇な香りを吸い込みながら店主に告げたのは、「豚骨拉麺」の一言だった。なぜあんなに海老炒飯と念じ続けていたのに、あっさりなんの迷いなく「豚骨拉麺」と口走っていたのか、とんとわからない。おれはどうかしちゃったのだろうか。
「まあ、いいじゃない。海老炒飯を食べなくても、この天下の拉麺で十分でしょう」
そう言いながら南波さんが口に運ぶのも、当然ながら豚骨拉麺だった。彼女には最初から拉麺しか食べる気がなかったからそんなことを言う。
「でもメニューにあるのに一度も食べたことがないんだよ。絶対美味しいに決まってるのに」
おれは店内を見回して、ふとあることに気が付いた。この狭い空間に響くのは拉麺を啜る音だけで、レンゲが皿の底を擦る音は一切しない。つまり、皆が皆、豚骨拉麺を食べているのだ。
「ねえ、おかしいと思わない?ひとりくらい炒飯を食べていても良いはずなのに、全員拉麺を食べてる」
南波さんはおれの言葉に顔を上げ、左右に目玉を走らせた。数秒の後、彼女の口から本当だ、という呟きが漏れた。
「そういえば、今まで炒飯を食べている人なんて見たことなかったなあ。確かに不思議なことだ」
ふいに彼女が麺を掬い上げる手を止めて、なにか含みのある目でこっちを見た。
「もしかしたらこの店、海老炒飯なんてメニュー存在していなかったりして」
「え?」
「わからないけどね。でもこんなに美味しい拉麺を出すんだから、裏になにかおかしなことがあるのかもよ」
背筋が少し寒くなった。得体の知れないものがこの店を這い回っているという幻想が浮かんだ。
「まさか」
おれは小さく、自分に言い聞かせるように呟いた。その声は拉麺を啜る音にかき消されて誰の耳にも届かない。
馬鹿なこと考えるのは止めて、おれも箸を割りスープに沈む麺を掬った。口に入れた途端、豚骨スープの甘く香ばしい香りが鼻腔に流れ込む。相変わらず、この拉麺は今まで食べたなによりも美味しかった。
それから拉麺がどんぶりの底を尽くまで、無心に食べ続けた。拉麺を食べるために呼吸をし、拉麺を食べるためだけに手を動かす。他のものが頭を抜け出し散り散りになってしまうほど、麺を啜ることだけに集中していた。麺もスープもすべて胃に収めてしまうと、満足感と高揚感、それに妙な寂寥感に襲われる。これもいつものことだ。いつものことなのに、未だに慣れないのはなぜだろう。
「ああ、旨かった」
溜め息を漏らして椅子の背凭れに深く寄りかかった。中毒を上回る状態はどう呼称すれば良いのだろう、と世界にとってなんの助けにもならないことを考えた。
「やっぱり美味しいなあ」
南波さんが大きく伸びをしながら言う。彼女の前にあるどんぶりも、すべてが空になっていた。この店の拉麺を食べる人は、全員スープを飲み干すのが当たり前なのだ。この際は先月の健康診断とか、塩分の取り過ぎに敏感な妻とか、そんなものは頭の隅に掃き溜められてしまうらしい。水質汚染の防止や店主の手間の削減に貢献しているのだから、素晴らしいことじゃないか。と、この前一緒に来たお父が弁解していた。おれはあの時、なるほどと聞き流して良かったのだろうか。
しばらく余韻に浸りぼうっとしていたおれたちは、ひとりの冴えないおっさんが入店したことをきっかけに、腰を上げた。誠に不本意ながら二人分のお代を払い、そして再び商店街の喧騒に飲み込まれていった。がたがた鳴る扉を閉めてしまえば、もう今までのことが嘘のように霧散した。変な店だ、と強く思う。
さあ、これからどうしよう。おれは南波さんを振り返った。
「とりあえず商店街の中まわっ」
おれはしばし沈黙した。ある一点に両目が縛り付けられていたのだ。南波さんが訝しげな視線を送ってくるのにも構わず、おれは大きな歓声を上げた。
4
「怜子ちゃんはさあ、楼閣拉麺食べたことある?」
「ありますよ、そんなに回数はないですけど。あの拉麺すごく美味しいんですよねえ」
「だよねえ、私もう拉麺はあれしか食べられなくなっちゃってさあ」
「私も!カップ麺を不味いと思ったのは初めてでした」
「そうなのよお。ほんと夜食に困っちゃうわ」
「見つかる危機感持って歩いてるんなら、もうちょっと静かにしたらどうだ」
南波さんが渋い顔で一瞥してきた。ダウンのポケットに手を突っ込み、いかにも不機嫌そうに前かがみで歩いている。彼の跳ね返った毛束を、北風がふんわりと浮かした。
私は反論すべくそのぐしゃぐしゃ頭を見上げた。
「だって楼閣拉麺ですよ?はしゃがない南波さんのほうが異常だと思います」
「な、ん、だ、と、この野郎」南波さんはおっかない目つきで睨んだ。「よくそんなことが言えるな、今のお前の御身分で!」
まったくその通りだったので私はぴったり口を閉じた。「女の子に優しくしないとモテないぞー」と彼氏の前で言い放っちゃう澄さんに笑わされながら、私は今の現状、というか戸田君のことを考えた。
実は、私も戸田君のことが気になっていたのだ。今朝、好きだと言われたときはびっくりしたけど、嬉しくなかったといえば嘘になる。……いや、どうなんだろう。歓喜に満ち溢れていたというわけでもないしなあ。
私が戸田君の存在を気にし出したきっかけは、文化祭のときだったように思う。あのとき私たちは同じグループで空気砲の実演をしていた。メンバーは私と戸田君、阪本君だった。
化学実験室に置かれた実験台を囲んで座るお客さんを前に、うっすら緊張した面持ちで説明を始める戸田君。私は阪本君と切り抜かれた箱の穴にドライアイスを詰めながら教室を見渡し、よくこんなに集まったなあ、と他人事のように準備を進めていた。思い出したらほんの少し戸田君に対する罪悪感が生成された。それはすぐに質量を失って、記憶の彼方へと飛んでいく。
説明が終わると、早速空気砲の実演に移る。穴を客席に向け、私が箱の側面を力強く叩くと、ぼんやりした白い輪っかがお客さんの頭上を飛んでいった。伴って歓声が上がる。数回繰り返した後、やってみたい人を募った。たくさんの手が上がる中、一際元気の良い女の人を、戸田君が苦笑しながら当てた。
当てられた女の人は娘と思しき女の子の手を握り、ずんずん物怖じせず前へ進み出る。一方の女の子は若干俯き気味で恥ずかしそうにしていたけど。普通逆だろ、と誰もが思ったに違いない。
女の人は戸田君に少し指示を受けると、喜び勇んで輪を大量生産し始めた。笑いに包まれる実験室。あまり笑顔を見たことがない戸田君でさえも頬を緩めて、ちょっと新鮮だった。
次に女の人は穴を娘の方へ向けた。びくびくおどおど肩を震わせる女の子と、満面の笑みを輝かせる母親。対照的な親子の姿が異様に映った。「ゆっちゃーん、行っくよー」と悪戯っ子の目で母が宣言すると、女の子は小さな両手をぎゅっと握った。
笑顔を絶やさぬまま、女の人は柔らかく箱を叩いた。ゆっくりと渦を巻き込むように進む輪は、ふんわりと女の子の顔に当たる。女の子の前髪がさわさわ揺れて、ぎゅっと固く瞑った瞼を撫でた。
女の子の目が大きく見開かれると同時に、室内に温かい笑顔の花が咲く。私は心がほっこりした。
平和な空間だなあ、と思いながら何気なく視線を動かすと、偶然戸田君と目が合った。その瞬間、胸のあたりからじゅわーっと、温かいものが滲み出てくる、そういう不思議な感覚に包まれたのだった。
それからかもしれない。私が戸田君を気になりだしたのは。
それに、もしかして、本当にもしかして、私は戸田君のことを好きになってしまっていたのかな。
5
「わあっ、新作ゲーム発売されてる!」
あたしのお腹は現在、ぽかぽかとあの絶品楼閣拉麺で満たされているという、大変幸せな状態にある。商店街に辿り着くまでは捨てられた子犬のように腹を空かせていたので、まさに字の如く天と地ほどの差だ。そんなあたしに拉麺を奢ってくれたのは、現在訳あって学校をサボっている、馬鹿だけどきっと愛すべき存在であろう、我がクラスメイトである。
「え!?定価よりずっと安いじゃん!」
吉田君とは普段、脅したりパシらせたりと特に交流はなかったけれど、食べ物を与えてくれるなんて絶対イイやつなのだ。好感度だだ上がりなのだ。
「こりゃ今すぐにでも買わなきゃ……。いつか損する」
あ、ちなみにどうでもいいBGMのように流れているこのけたたましい声の主は、楼閣屋と対角線上にあるゲームショップにいる吉田君だ。彼は楼閣屋を出て周囲を見渡した直後、いきなり大声を上げて件の店に特攻していった。あたしが呆然としたのは言うまでもない。
コートのポケットに手を突っ込み、無意味に白い息を吐く。楼閣屋の暖簾の前にぼうっと立ち呆けていると、徐々に高揚感が薄れてきた。
なぜか告白エスケープした友達を追い、学校外を走り回る。こんな非日常を満喫するのはとっても素敵なことだけど、今のこの緊張感のない状況はどうだろうか。全然面白くない。ちょっとした冒険譚やスパイ映画みたいなものを期待していたのに。吉田君には置いてけぼりにされて、こんなところで馬鹿みたいに突っ立っているなんて、物語性も皆無だ。ああ、もういいや。やーめたやめた。吉田君、飢え死にから救ってくれたことには感謝しているけど、女の子を放っておくなんて、お前絶対モテないゼ。それじゃ、バイバイサヨナラ、ありがとう。
心の中で吉田君にお別れを言うと、ゲームショップの逆へ向かって歩き出した。
「あ」
「あ」
「あ」
「あ」
あっけなく怜子発見。つーかなんで私服?あれ……?
「兄さん?」
「お……お?由宇莉?」
「あらあ、由宇莉ちゃんだ」
「澄ちゃんも?」
なんで澄ちゃん制服着てるの。成人式で振袖着たんやなかったんか。
ていうかさあ。
「なにしてんの?」
四人の声が重なり、やかましい商店街の中でやけに響いた。
……なにこの奇妙すぎる邂逅。皆が皆、一言では理解し難い事情を持っているような気がする。
もう吉田君の声は聞こえない。さっきの店の奥深くまで入り浸っているのだろう。もう一生帰ってくるな。
「私たち、これから楼閣拉麺食べに行くところなの」
いち早くこの妙な雰囲気から脱した澄ちゃんが、自分たちの目的を述べた。普段から飄々としている澄ちゃんにとっては取るに足らない事態なのだろう。ああ、我が兄貴には勿体無い彼女さんだなあ。結婚すればいいのに。
「あたしもちょうど食べたとこだよ」
「まあ・タイムリーですこと」
「あのさあ」
兄さんが櫛を通すのも困難な癖毛を掻きながら発言する。その目には未だ戸惑いの色が浮かび、それは妹のあたしに対してだろうことは想像に難くなかった。
「ここで立ち話も疲れるし、とりあえず楼閣屋入らない?そこで説明し合おうじゃないか」
おお、うちの兄貴にしては上出来な提案をする。
「御意です、先輩」
「え、おうおう、なによ。怜子はいつの間に兄さんの舎弟になったの?」
なんだかよくわからない立場にいる怜子。この中でお前が一番面白いぞ。
「舎弟なんて失礼な」
「ああ、こいつ、俺の後輩なんだよ」
知っとるがな。なぜ兄さんはこんな自慢げに怜子の肩を叩いてるんだろう。なんだろう、謎しかない。面白すぎる!
兄さんたち三人は空腹を満たすべく、あたしは好奇心を満たすべく、意気揚々と店内に踏み込んだ。
「すいませーん。豚骨拉麺みっつお願いします」