3限目
1
方向性を定められなくなった僕たちはとりあえず十字路から真っ直ぐ延びた道を歩いていた。老人が美少年の歩いていった方だと示した道だ。宝月公民館を過ぎ、宝月神社の横を歩きながら、実際正しい方へ行っているのかもわからない不安に駆られる。目の前が濃い霧に覆われているのと同じだ。なぜ美少年の足跡を辿っているのか、美少年になにかの手がかりを求めているのか、それすらもはっきりしない。つまり闇雲に捜し回っている状態だ。不毛である。
「なあ、さっきの電話、吉田はなんて言ってた?」
乾いた空気に乗って僕の言葉が周囲へ拡散した。顔を上げた阪本は、今にも溜め息を吐きそうな目をしていた。
「神社に松井さんはいなかったって。それに美少年も見てないらしい」
「そっか。じゃあ松井さんはここに来てないんかもねえ」
「そうだね。……本当どこへ行ったんだろう」
なんのアテもなく、それに松井さんの行きそうな場所もわからない僕たちにとって、この小さな街は広すぎた。隠れやすい住宅街や商店街の集まった中心部の外側は畑か田んぼで、だいたい見当はつくけれど、街の中心だって田舎とはいえ広範囲なのだ。
……松井さん、なんでどこかへ行っちゃったんだろう。そんなに嫌だったのかな。あんまり会話したことはないし、登校して来たばかりで突然だったから……。
「あのさあ」
阪本の声が聞こえて横を見ると、なにか訴えかけるような目をしてこっちを見ていた。
「心配しなくても、大丈夫だと思うよ。松井さんは嫌だったから逃げたわけじゃない」
「そんなの……誰にもわかんないじゃんか」
「俺が言うから大丈夫だって」なにを根拠にそんなことを言うのか、少し笑いながら「松井さんは戸田のこと嫌ってないぜ?むしろ……ね」
「……意味がわからん。うるっさいなあ」
楽しそうな笑い声を立てながら、阪本が僕の肩を思い切り叩く。痛いと訴えても止めてくれなかった。本当に、なんなんだこいつは。
でも胸の中にモヤモヤ蓄積していた不安の埃は、綺麗に掃除されていた。さっきまで思い悩んでいたのに。友達になって以来、こいつには助けられてばかりだ。僕が悩めばすぐに気づいて、励ましてくれる。いくら支離滅裂でも、十分勇気を与えてくれる。良い友達を持った、とすごく誇らしい。これを言葉に出来るには、あとどれくらい大人になればいいんだろう。今の僕では恥ずかしくて、とても言えないけど。いつか、感謝を伝えられると良いと思う。
空を見上げると、夏とは違って薄い青色をしていた。浮かぶ雲もなめらかで、厳しいのは冷たい風だけだ。高台に位置するこの神社からは、空も街もひっくるめて全部見渡せるので、結構好きな場所だった。高校生になり、忙しくなってからはあまり来なくなった。
遠くをたった一両きりの電車が走っている。切り広げられた畑の中をゆったり抜けていくその姿を眺めていると、なぜかセンチメンタルな気分になる。冬の空気はなんでもない風景をまったく別の世界へ変えてしまうようだった。
出てもいない鼻を啜り、僕は白い息を吐いた。
2
車を運転していると、煮え滾る負の感情も収まってきた。見つけた生徒を残らず懲らしめようという意気はそのままだが、運転の遅い年寄りに容赦なくクラクションを鳴らしまくりたい衝動には襲われなくなった。いつもの落ち着きを取り戻したということだ。さすがに教師を何年もやっているとこういうことにも慣れっこになってくる。
俺は連中は繁華街に繰り出したと踏んでいた。そこならゲームセンターやカラオケ、若者がたむろしそうな店が所狭しと並んでいる。学校をサボって行くぐらいならどうせそんなところだろう。本当に馬鹿な野郎共だ。
いやしかし、待てよ……。不在だった女子ふたりの内ひとりは欠席の連絡を受けたが、もうひとりはどこへ行ったのだろう。確か松井だ。松井がいない。
なにかがおかしいと思った。
松井はとてもまじめな生徒だ。定期テストの成績も芳しく、学年順位は常に十位以内で、普段の授業態度も意欲も素晴らしかった記憶がある。とてもクラスの馬鹿共に誑かされてゲーセンに入り浸るような人間だとは思えない。
では全員が同じ目的で学校を抜け出したわけではないのか?学校外に用事がある生徒が今日たまたま存在し、それぞれ向かったというのか。そんな偶然あるのだろうか。そしてなぜ、今日集中したのか。
考えれば考えるほどわからなくなってくる。この事態の、根本的原因はなにで、誰なのか。しかしそれは俺に解決する義務はあるのだろうか。いや、俺はそんな綺麗なもののために出てきたのではない。
赤信号をいまいましく見上げ、ハンドルから手を離し目に覆い被せる。とりあえず、多勢はゲーセンあたりにわだかまっているだろう。そこから探索してみることにしよう。信号は俺の決意を削ぐように、いつまで経っても変色しなかった。
3
部屋のドアを開けて入ってきた女性は、とても美しい人だった。シンプルなパーカーとジーンズという服装がすらりとした体型によく映えている。私は思わず見惚れていた。
「凛、おはよう。寒かったけどコートなしで来ちゃった」
ボーイッシュなショートヘアを揺らしながらにこにこと笑う様がとても格好良い。耳に光るきらきらとしたピアスもよく似合っている。
南波さんはそんな彼女の手を握って部屋に招き入れた。顔に苦笑を浮かべながら。
「マフラーぐらい巻いてこいよ。ココア飲むか?」
「うん、飲む飲む。……おや?」
彼女の双眼が、窓辺に所在無く座り込んでいた私を捉えた。敵意というよりは好奇心に満たされた目をしている。
「妹ちゃん……ではないね。あの可愛らしい子はだれ?」
マグカップに牛乳を注ぐ南波さんが、面倒くさそうにこちらに目を寄越した。
「ああ、由宇莉の友達だよ。事情があって匿ってるんだ」
「初めまして、松井怜子と申します。このお兄さんには大変お世話になっております」
「ココアやっただけだろうが」
びしりと南波さんのつっこみが入る。どうも由宇莉ちゃんと話しているみたいで初対面の気がしない。彼女さんは声を立てて笑った。
「相変わらずだなあ、凛のツンデレは」
「そんな新境地開拓してねえ」
また彼女の笑い声が上がる。
良いカップルだなと思った。とても羨ましい。私もいつか、こんな風になれたら良いと思ったとき戸田君の顔が浮かんで、ひとり赤くなった。
彼女が魅力的な笑顔をこちらに向けたので、私はびくりと肩を震わせた。
「私は望月澄といいます。凛の彼女です」
澄さんがぺこりと頭を下げた。慌てて私も下げ返す。
「あ、凛っていうのはこいつの名前ね。可愛いでしょ。最初名前だけ見たら女の子かと思った」
南波さんは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「逆に私の名前は男っぽいよね、とおるって。昔は嫌いだったんだよね」
女の子みたいな名前の男の子と、男の子みたいな名前の女の子、かあ。なんか面白い取り合わせだなあ。神様だか運命だか知らないけど、良い趣味してらっしゃる。
「はい出来た、ココア。あっついから火傷しないように」
「大丈夫だよ、私犬舌だから」
南波さんにココアを手渡された澄さんは、私の隣に座り込み、一緒にココアを飲んだ。さらさらと清流のように差し込む日光に照らされながらココアを飲んでいると、ひとりで飲んでいるときよりずっと体が温まるのだった。
すっかりココアも飲み干すと、体操座りのままうつらうつらしていた。気温は低いが日差しが暖かく、気を抜けばすぐに眠りに落ちそうだ。私はぐらぐらする頭を気力で押し留めていた。
しばらくした後、澄さんがいきなり立ち上がった。私はびくっと反応し目を擦った。目を擦る間も、澄さんはあっちへ行ったりこっちへ来たりを繰り返し、縄張りを見張る熊のように歩き回っている。あまりに不思議なので重い瞼を必死で持ち上げ、澄さんの行動を見つめていた。
幾度も幾度も往来を繰り返した後、両手でおへそのあたりを押さえ、立ち止まった。
「ねえ」彼女は言った。「お腹空いちゃったわ」
そしてぐうとお腹を鳴らし、子供のように笑った。南波さんもつられて笑い、部屋の隅に忘れられたように傾いて掛けられている時計を見上げた。
「まだ十一時だけど……ちゃんと朝ごはん食べた?」
「食べたよ。今日は急にナシゴレンが食べたくなって、自分でつくったもの」
「結構しっかりしたもん食べて来たんじゃないか。でもまあ……いいや。昼飯食いに行くか」
はしゃぐ澄さんと出掛ける支度を始める南波さんを、私はマグカップを手の平で温めながらぽつねんと見ていた。連れ立って玄関に向かうふたりは、靴を履き替える寸前で私の存在を思い出した。
「そうだった」南波さんは頭を抱えた。「こいつがいるんだった」
南波さんが恨めしそうな目を向けてきたので、なにをと思ってこちらも眉根を寄せ対抗する。無意味な睨み合いは数秒続き、脱力感溢れる溜め息とともに断ち切られた。
「ああ、どうしよう。こいつをここに置いといても、なにしでかすかわかったもんじゃないし」
「なによう、怜子ちゃんも一緒に来れば良いじゃない」
「こいつはなあ、追われてる身なんだよ。そうあちこち飛び回ってたんじゃ見つかるのも時間の問題だろうが」
「追われてる身?あら素敵」
「そうでしょう」
「調子に乗るな馬鹿娘」
南波さんは何事か呻きながら打開策を練っている。澄さんはその傍らでぼうっと窓の外の揺れる猿ぼぼを見つめていた。
私はどこにいるべきなのだろうか。いや、学校というごく当たり前の答えは黙殺だ。
南波さんは反対するだろうけど、勿論この部屋の中は安全だからずっと留まっていたいのも確かだ。外の寒い空気に晒されることもなく、必要とあらばココアだって調達できる。
ただ問題なのが、私もお腹が空いているということだ。納豆トーストから搾り取ったエネルギーは走ったことで消費され、今はガソリンでいう『E』状態である。それに今日のお昼は購買で済ませようと思っていたために、弁当を持ってきていない。
これらの現状を汲み取って考えると、私は外へ出るという選択をするしかないのであった。
「ねえ南波さん。どうにか見つからないように食事しに行くことは出来ませんか」
南波さんはぎろりとこちらを見た。
「お前ねえ、そんな簡単にできるものだったらもうとっくに追い出してるぜ」
「むう」
私はぷくっと頬を膨らました。それしか思いつかなかったのだから勘弁してほしい。
私までもがうんうん言い始めると、ようやく澄さんが意識をこっちに戻してきた。切れ長の目をぱちくりさせながら南波さんを見、私を見、そして最後に猿ぼぼを見た。そして手をぽんと打って、顔を輝かせた。
「ああ、そうだ」彼女は微笑んだ。「良いこと思いついた」
私と南波さんは思わず顔を見合わせた。その直後大袈裟にそっぽを向く。そんな私たちに目もくれず、澄さんは口を開いた。
「あのね、これとっても良い方法なんだけど、貴女の協力が必要なの」
そう言って取ったのは、私の手。わけがわからず澄さんを見上げると、満面に笑みを湛えている。その表情の奥になにか並々ならぬものを感じて、直感的に身を震わせた。
4
「ああ、長い道のりだった」
南波さんについて住宅街から脱出すると、おれはほっとそう呟いた。意地の悪い迷路のような住宅の間をぐるぐる抜け切ったこの達成感は、マラソン大会で完走した後の清々しさと似ている。それにしても南波さんはよく覚えているもんだ。おれは今の道を引き返せと言われても絶対無理だ。数週間彷徨い続けて餓死するに決まっている。
抜け出した先に広がるのは、街で一番大きな商店街だった。人々の喧騒や売り子の掛け声に紛れて香ばしい醤油の匂いが漂っている。どこかの料理屋から漏れているのだろうが、たくさんの店が密集しすぎて特定できない。
左を見ると、よく利用する古本屋がある。学校帰りにはそこで漫画や小説を物色し、その後向かいの店でたこ焼きを買って食べるのが仲間内での通例になっていた。ソースとマヨネーズがたっぷりかかっていて最高に美味いのだ。
しかし、あの住宅街から繋がっていようとは思いもしなかった。すべての道はローマに継ぐ。こんな日本くさい場所がローマと共通点を持っていたなんて。
「あうあー、なんかお腹空いてきたなあ」
騒音の間に南波さんのか細い声が挟まって聞こえた。隣を見ると、遠い目をしながら両手を擦り合わせてもの欲しそうな顔をしている。時々くんくんと鼻を蠢かせ、哀しそうな溜め息を吐いていた。ああ、この良い匂いに胃が刺激されたのか。
「なにか食べる?」
「拉麺食べたい」
「つーか金持ってる?」
「あんたの奢りで良いじゃない」
「嫌だ」
無視しとけば良かった。おれは最近金欠気味なのだ。
でも既に口をついて出た言葉、許してくれるはずもなく、半ば南波さんに引き摺られるように拉麺屋へと向かうことになった。なんでもあるこの商店街を心の底から恨んだ。
一難去ってまた一難というけれど、おれは今日いくつの災難に遭ってきたんだろう。
5
「お腹と背中がくっつきそう」
あながち嘘でもなさそうなほどスリムな澄さんは、スカートの裾をひらひら揺らしながら嬉しそうに跳ねた。
……そう、スカートである。そして私が着用しているのはジーパンだ。
遡ること数十分。澄さんの思いついた『良いこと』とはずばり私と澄さんの服を交換することだった。
「私も久しぶりに制服とか着たいしー」
そう言った澄さんにはきっと、自分が面白ければ言いという魂胆があるに決まっている。でなければもう少し危機感のある表情をして頂きたいものだ。私が今どれだけアドレナリンを分泌しているか知らないだろう。
嫌がる私に南波さんは冷徹な目で見下ろしてただ一言、「俺の言うことにはすべて従う、って約束だろう」となんとも無慈悲に、私たちを残して部屋を出て行った。こんなことに施行されるなんて!
南波さんが出て行ったのを確認すると、澄さんは素早く衣服を脱ぎ始めた。ぎょっとしつつ私もそれに倣う。下着しか纏わぬ寒々しい姿になったら、急いで相手の脱いだ服を拾った。
「わあ、リボン可愛いなあ。私ネクタイだったんだよね」
「スカートなんていつ振りだろう」
はしゃぎながら制服を身に着ける澄さんは大変に可愛らしい。というかすごく似合っている。差を見せ付けられた私は途方に暮れてズボンを引き上げる。
……む。ぱつぱつである。ぺちぺちと自分の太股を叩いてみた。こんなものを澄さんはスマートに穿きこなしていたのか!澄さんすげえな!ショックを受けまいと澄さん賛歌を心の中で叫んだ。さすが由宇莉ちゃんの兄の彼女!
澄さんはすっかり項垂れた私の手を引っ張り、元気良く部屋を飛び出した。やっほーい、とくるくる回る澄さんを、いろんな意味で驚いたであろう表情をぶら下げた南波さんが、ぼうっと見つめている。だらしない格好の腐れ大学生が美人に見惚れる図は愉快である。当事者でない限り、という条件付きで。
「あんたまだまだ若いね。俺よりいっこ上なのに」
ぼさぼさ頭を掻きながら、南波さんがぽつりと呟く。他に言うことあるだろう、と思ったが、多分照れているだけであろう。澄さんはそれでも嬉しそうに一回転した。
「だって凛と学年一緒だもん」
「浪人したからな」
「うわ、言うなよ」
声は焦っても動きだけは優雅だ。そのままの勢いで通路を駆け出し、よろめきながら階段に辿りつく。
「ねえねえ」くるんとこっちを振り向いた。「拉麺食べたいな」
「はいはい。じゃあ楼閣屋行くか」
「やったあ」
どたどた音を立てながら階段を下りる澄さんの後を追って、私たちは商店街にある拉麺屋へと繰り出したのだった。