1限目
1
私は十分近く走り続けていた。
じっとしていると見つかるかもしれない、という不安に襲われ、動かす足を止められなかった。まるで心と体がふたつに分離されたように、変に浮き足立っている。そのお陰で疲れは感じていないんだけど。
線路沿いの細い道を、ほぼ惰性で走っていく。一時間にほんの数本しか運行しない電車は今のところ見かけていない。遭遇率はカマキリ並みなのだ。うん、的を射ている。
というかこの街は妙に静かすぎる気がする。国道を外れれば人や車の数はまばらだし、生活音があまり聞こえてこない。それが冬の寒さと相まってより一層侘しさを演出していた。
私は息を切らしながら辺りを見回す。このまま延々と線路を辿って行ったってどうしようもないので、良い隠れ場を見つけなければならない。ただしなにがあっても男子トイレだけは避けよう。これまでの私の輝かしい経歴に傷がつくばかりか、今後の日常生活にも支障を来たすに違いない。性別の違いとはそういうものだ。
ふたつめの踏み切りを越えたあたりで、ようやく疲労感に追いつかれた。バイトすらしないお気楽な帰宅部生活のせいで、若者にあるべき体力はすっぽ抜けているので無理もない。どうせ万年暇人なんだから少し運動でもすればいいのに、専ら関心があるのは食べることと読書だ。そんなんだからむくむくと太っていく云々。
背中に幼稚園児でも背負っているような重さを感じ、前かがみにならざるを得なくなった。さっきまで軽快に地面を蹴っていた足も、水をかきわけるのに似た抵抗に阻まれ、ほとんど早歩きのようになってしまっている。さっきの軽々しさはどこへ行った。
脳みそがへたり込めと命じてくる。それは実際に私の切望だったりもする。しかし反抗する四肢たち。素直に従えばいいものを、脳への反抗心が先に立ち、謀反軍の旗を揚げ、脳に対して全面戦争をけしかける。なに意地張ってんだと言われようが関係なく、私の体を限界まで酷使させるつもりのようだ。キレる脳、いや私。人体の最高権威という立場を利用し、力ずくで四肢の暴動を抑えにかかった。さすがの謀反軍も対抗する戦力はなく、あっという間に脳の手の中へと落ちていくのだった。
……あー、だいぶ脳に酸素が回っていないみたいだな、こりゃ。
人体擬人化現象を発動した私は、ついに地面に膝をついた。反動で手の平もべったりくっつけて、幼児が発狂しそうなあの『お馬さん』の体勢となった。近くに保育園がないことに感謝する。
脳貧血を引き起こしているのか、大変に気持ち悪い。今朝食べてきた納豆トーストが食堂へ逆流している気がする。なんだか胃酸の味もするし。
こんなところで吐いているところを見つかれば、恥ずかしさと情けなさの極みに立たされて線路に寝そべることになるだろう。上りと下りの列車に同時に轢かれるというとんでも体験でもして、笑い者になりたい。しかし、親は泣く。いろんな想いが入り混じって泣く。葬式のときの挨拶は非常にカオスな文章になるに違いない。そしてその文章を幽体となった私が聞くと。そしてひとり爆笑すると。なんてシュールな光景なんだ。
嗚呼駄目だ。思考が複雑怪奇な回路を結んでいる。冷静な自分がいるのはまだいいほうだ。とりあえず自分の葬式の回路はぶっ千切る。
線路の柵に凭れ掛かり、必死に吐き気を堪えた。大きく息を吸って、吐く。空気を吐く際に伴って納豆トーストがこんにちはしそうになっても、喉を締めて踏ん張る。
こんなことを五分は繰り返しただろうか。納豆トーストの存在もなりを潜め、というかきっと変形してらっしゃるだろう現状に落ち着いた。妙に頭がぼうっとしている。寝起きの数分間に似ている。夢と現の境界線が曖昧で、自分は一体どちらに属しているのかわからなくなるような。
そんな頭をゆらりと起こし、霞む目で辺りを見渡した。すると、空き地の向こうに古アパートが建っているのが見えた。薄汚れた、という表現がしっくりくる外壁や、ベランダに干され翻っている洗濯物。死んだように静まり返る街の中で、いかにも牧歌的に佇むその建物は、どこからか切り取ってきた場違いなものに思えた。
気づかぬうちに痺れる頭でじっと見つめていたら、鮮烈的な色を放つなにかに目を惹かれた。でも遠すぎてよくわからない。あれはなんだろう。
どうでもいいことのように思えたけど、なぜか正体を知りたくなって、重い腰を上げた。ふらつく足でなんとか立つと、世界が一回転した。地面がどこかわからなくなって、尻餅をついてまた振り出しに戻ってしまった。顔をしかめるほどの頭痛が治まってから、もう一度顔を上げる。そのなにかが強い風に吹かれて、大きく左に揺れた。
私は力強く立ち上がった。今度はうまくいった。走り続けたせいで重たくなった両足を奮い立たせる。よしよし。
諸準備が整ってから、真相を確かめるべくアパートに向かって歩いていく。空き地の周囲をぐるりと取り囲んだロープを無視して跨ぎ、ぎりぎりまで近づいた。正体不明の物体を吊るしている、アパートの二階の窓を見上げる。
「あっ」
それは、小さな猿ぼぼだった。なぜか物干し竿に掛けられて、風に弄ばれている。
必然的に学校での出来事を思い出す。私が逃げるきっかけを与えてくれたのも、猿ぼぼなのだ。そして今度は実物として私の目の前に現れた。思わずぞっとした。運命のようなものを感じたのだ。
私はアパートを回りこみ、小さな門を通り抜けた。外付けの階段を上り、上ってすぐの部屋の前に立つ。ここがまさに、あの猿ぼぼを吊るしていた人の部屋だ。高揚した気分を持て余し、目の前のドアを見つめる。部屋番号の下に、名字が書かれていた。『南波』。この部屋の主は、南波さんというらしい。
私は背筋をぴんと伸ばし、スカートのほこりを払った。そして深呼吸。
私の勢いよく突き出された指が、南波さんの部屋のインターホンを押した。
2
松井さん、クラスメイトの面々の後を追って学校を飛び出してきた僕と阪本は、学校から数十メートル離れた十字路で立ち止まっていた。
ここまでは勘で走ってきたけど、ただ闇雲に捜し回ってたんじゃ効率が悪すぎる。一体どの道を使ったのか、ということを考えないと日が暮れても見つけられないだろう。
「でもさ、確実にこれ、と思ったとしても単なる憶測に過ぎないんだから意味ないんじゃないの?」
阪本が、道端に生える背の高い草を薙ぎ倒しながら言う。それより早く行こうぜ、とも言いたげな様子だ。僕は彼の言葉に首を振る。
「なんの根拠もない道を行くより、予想して選んだほうが捜すルートがごっちゃにならない。手当たり次第行ったら、どの道通ってきたかわからなくなると思うし」
阪本は逡巡しているのかじっと黙ったままだったけど、ほどなくして溜め息と共に言葉を漏らした。
「わかったよ。じゃあ松井さんがこの十字路まで来たとして、右か左か前方か、どっちへ行ったと思う?」
僕はこめかみを押さえながら、右の道の先を見据える。
「まず右はない。この先行くと交番があるから、面倒なことになる」
「左は?」
「左は……ずっと田んぼが続いてて、身を隠すところがないから……」
「じゃあ前方ってことだな。よっしゃ」
最後まで聞かずに、阪本はさっそく前進しはじめた。心の中で苦笑しながらも、こいつの行動力を羨ましくも思う。そもそも松井さんに告白するよう仕向けたのも阪本で、もし阪本がいなかったら僕は高校を卒業するまでなにもせずに過ごし、そして一度も好きだなんて言えなかっただろう。
こうして考えてみると、今僕がこの道を走っているのも奇跡に思えた。特になんの思い出もないこの道が、いきなり映画のワンシーンみたいな存在感をまとって、目に飛び込んでくる。目に映るすべてのものが、初めて見たもののように新鮮だった。
「戸田」
急に名前を呼ばれて面食らった僕はとっさに返事ができなかった。それでも阪本は喋り続ける。
「前からお爺さん歩いて来てんだけど」
「うん?」
「あの人に松井さんのこと聞いてみない?」
言うが早いか、阪本はお爺さんの元へ駆け寄った。慌てて僕もそれに続く。
お爺さんは近づいてきた僕たちに、大した興味もなさそうなじと目を送ってきた。年のころは八十代前半くらいだろうか。真っ白に染まった薄い頭にタオルを巻き、はんてんを羽織った中に腹巻をしているのが見える。いかにも老人らしく、背を少し屈めて手をうしろに組んでいた。
「お爺さん、少しお尋ねしても良いですか?」
阪本がゆったりした口調で話しかかると、お爺さんは煩わしそうに顔を上げた。
「なんや、今日は高校生ばっかぎょうさん来おって」
高校生がたくさん、ということはあいつらは既にここへ来たということだろうか。
阪本は尚も口を開く。
「ええと、その高校生の中に女の子はいませんでしたか?」
「女の子?女の子か……」
お爺さんは眉間に皺を寄せ考え込んでいたが、ゆっくりと被りを振った。
「わしが見たんは全員男の子やったわ」
僕たちはひどく落胆した。はじめからうまくいくわけがないと思ってはいたものの、実際望みを絶たれるとがっかりするものだ。
お礼を言って立ち去ろうとしたとき、唐突にお爺さんが声を発した。
「そういやあ、えらい可愛い男の子がおったなあ」
僕たちは顔を見合わせた。
「可愛い男の子、ですか」
「長めの髪がよう似合って本当の女の子みたいやった。美少年、ちゅうやっちゃろうな」
細い目をさらに細めて、お爺さんが孫の自慢話みたいに話し始める。
美少年などうちのクラスにいただろうか。男らしい格好良さを持ち合わせたやつはいても、女の子のような容貌をしたやつはいない。他クラス他学年、または他校の生徒かもしれないが、僕たちの目的とは関係のない話だ。
お爺さんに丁重に礼を述べた僕と阪本は、またもや振り出しに戻されることとなった。
3
『8:40 自宅前にて吉田君を発見』
あれ?これだけしか書くことなかったっけ?
あたしはシャーペンを放り投げた。ルーズリーフの一行すら満たしていない文章が、あたしの情報量の貧相さを物語っている。さっきの変なダンスが今さら恥ずかしくなってきた。
情報を得たくばなにか行動するしかない。
あたしは吉田君のメアドを知っていることを思い出し、早速部屋の隅へスライディングした。膝が擦れて少々痛い。おのれフローリング。
充電器に暢気につながれているスマホを掴み上げ、電源ボタンを押す。操作して電話帳を開き吉田君を探した。や、や、や、あった、吉田一也。
はやる気持ちを抑えながらメールを作成し、
「送信っ」
早く返信しろよ、吉田。あたしを待たせたら学年末テストで赤点とる呪いをかけてやる。最低でもどん兵衛出来上がるまでに返信しやがれ……!
家に誰もいなくて良かった。スマホに向かって呪詛めいたことを呟いているあたしを見たら、気が触れたと思われてあっちの病院に連れて行かれかねない。何年か前はうちの兄貴がお世話になったなあ。受験ノイローゼで不眠になって大変だったけど、今は立派に大学生やってるのでめでたしめでたしだ。
あたしがメールを送ってからおよそ二分後、スマホが通知音を鳴らした。クイズ番組の解答ボタンを押すのと匹敵するスピードでスマホに飛びつく。……あたしは肉食獣か。
期待どおり受信トレイには吉田君からのメールが入っていた。文面に素早く目を通すと、立ち上がってパジャマを脱ぎ捨てた。帰ってきたら母さんに叱られそうだけど、それが帳消しになるくらい素敵な事件が起こっているんだから平気だ。適当にジーパンとパーカーを身に着けて部屋を飛び出す。
今日学校を休んで良かった、と心の底から思った。
4
神社から延びる道を真っ直ぐ行くと、住宅街の迷宮に入り込んでしまった。どっちを見ても家、家、家。全部が全部現代的な見た目で大きさもほぼ均一。ここに住んでいる人は無事家に着けるのか心配になるほど目印になるものがない。初めてここに来たおれには全部同じ家に見えるのだ。
とりあえず松井さんは神社にいなかった、と後を追ってきたであろう阪本と戸田に伝えよう。
携帯の電話帳から阪本を探し出し、電話をかける。何回かの呼び出し音の後、阪本の低い声が聞こえた。
「あのさ、お前ら今どこにいる?」
「学校の近くだけど」
「おれたち全員で神社捜したけど松井さんはいなかった。捜索ポイントから外しといて」
「了解」
じゃあ、と言って切ろうとしたとき、あのさ、と言う声がした。
「ん?どうした?」
「高校生の美少年、って見てないか?」
「美少年?」
おれは今までの道のりを思い返してみたが、高校生には会っていない。せいぜいお爺さんくらいなら公民館の前で見たけど、少年という言葉にそこまでのカバー力はないだろう。
「いやあ、知らんけど」
「なんか、長髪の美少年を見た、って爺さんがいたんだけど、絶対お前らではないし」「おい」「ちょっと気になってさ」
「ふうん……」
この街を駆け巡る、松井さんと美少年というふたつの存在。どちらも居場所を知るものはいない。でも、このふたりに関連性はないだろう。なにしろまったくの別人なのだ。
阪本との通話を絶ち、この巨大迷路から抜け出すべく一歩を踏み出そうとしたとき、手の中の携帯が震えだした。危うく取り落とすところだったがなんとか掴み直して画面を確認する。どうやらメールを受信したようだ。差出人は……南波さん?どうしたんだろう。
件名のない南波さんからのメールには、こんなことが書かれていた。
『さっき窓から吉田君が見えたんだけど、なにしてんの?今の道引き返せばあたしの家がある。そこで説明求む。至急連絡されたし。』
おれは思わず辺りを見回した。この迷宮の中に南波さんは住んでいるのか。
しかしこの時間に自宅にいるということは多分学校を欠席したというわけで、つまり南波さんは病人なわけで、病人を外に出しても良いものかと唸る。止めるべきだろうか。
いや、あの人は待つことが大嫌いな性格だ。この前テストの得点勝負で大差をつけられ敗れたおれは、約束どおり南波さんのためにいちごオレを買いに行った。でも昼休みということもあって自販機が大変混み合っていたため少し時間がかかってしまった。あのときの南波さんの怒りようと来たら……!
身震いすら覚えておれは光速で返信を打った。
『わかった。今すぐそっちに向かいます。』
南波さんの機嫌を損ねていませんように……!
そう祈りながらおれは元来た道を戻り始めた。勿論駆け足で。