始業前
1
「松井さんのことが好きです」
顔を赤く染めた戸田君が、コートもマフラーも外さず鞄すら掛けたままの私に言う。
私はたった今登校して来たばかりで、教室に着いたら昨日やり忘れていた数学の宿題を済ませようと、いつもより若干早めに家を出てきたのだった。四階分の階段を上ってきたせいで呼吸は乱れ、頭に酸素が行き渡っていない状態である。
ほんの一瞬頭が真っ白になり、でもまたすぐ元に戻って、戸田君の言葉をしっかり理解した。素直に言葉を受け止めるのならば、私のことが好きである、ということらしい。
教室の中にはクラスメイトがちらほら。当たり前だけど、全員私か戸田君に注目していた。そりゃあ今のこの状況は大事件じみているので仕方ない。そうだとわかっていても、その射るような視線は私を苛立たせていた。頼むから宿題するなりゲームするなりほかのことに目を向けてくれ。
でも戸田君の引き締まった口元や真っ直ぐな目線を送る瞳を見ていると、苛立ちがだんだん恥ずかしさへと方向転換してきた。顔がじわじわと熱くなってくる。傍から見たら恋する乙女のように、頬が淡い林檎色に侵されていることだろう。やばい、格好悪い。
再び頭が空っぽになりなにも考えられなくなる一方で、ある強い思いが脳の片隅で眩しく光っていた。この状況を打開し、複数の視線に晒されている自分を守るための決意。自己主張の激しいその光に突き動かされ、私は大きく息を吸い込んだ。
「あっ、猿ぼぼ!」
大袈裟なアクションで腕を振り上げ、窓の外を指差す。振り返れ振り返れ振り返れ!
期待どおり、戸田君を含む全員が一斉に窓を振り返った。まさかこんなに上手くいくとは思っていなかったけど、僥倖というものである。今がチャンスだ。
私は素早く床を蹴り、教室のドアへと走った。着込んでいるせいで動きにくい。鞄に足元を打ち付けられ、転びそうになる。なんとか持ち直して、足音を立てないよう気をつけながら廊下へ飛び出した。廊下にいた数人の驚いたような顔。勢いのあまり廊下の壁に激突、する前に手をつき、体の向きを変える。そのまま大股で走り抜け、一段飛ばしで階段を駆け下りる。登校ラッシュ前でがらんとした校舎に、私の足音が高く鳴り渡った。
「おい、逃げたぞ!」
幾秒か遅れて、遥か上から同じクラスの男子が叫ぶ声が聞こえた。私はすでに階段を下りきっていたので、それはかなり大きな声なのだった。なにかただならぬ気配を感じ、速度を落とさず下駄箱を目指していると、微かに複数人の慌ただしい足音を捉えた。体内のすべての神経が交感神経に切り替わる。瞬時に、追われていることを悟った。私はいつしか汗ばんでいた両手で靴を履き替え、焦ってもつれそうになる足をがむしゃらに動かした。
捕まってしまったら私は終わる。なんとしても逃げなきゃ……!
普通の生徒の流れを逆走している私は、どれだけ滑稽に映るのだろう。そんなことを思いながら、校門をすり抜けて尚走った。
久しぶりに生きた心地がしなかった。
2
僕が松井さんを好きだと思ったのは、文化祭の準備をしているときだった。今が十二月で、文化祭があったのが九月だから、三ヶ月の間松井さんのことが好きだったということになる。数字にすると短い気もするけど、僕にとっては長くて、もどかしい日々の積み重ねだった。とても、あっという間だったとは思えない。
夏休み明け、九月の始まりの時期、F組は文化祭の出し物として理数科らしく化学実験をすることになった。化学実験室を借りて、いろいろな実験の実演を行うらしい。こういう言い方をすると、まるで他人事だ。それも仕方ないのだ。積極的に関わりたいと思わなかったし、正直いって面倒だったから。
だから、翌日のグループ分けは憂鬱だった。それぞれのグループで違う実験を計画しなければならないのがとても億劫だった。
そして一番の懸念材料が、女子と同じグループになることだ。
実を言うと、僕は女という生き物が苦手だ。いつも他人の品定めをしているような目つきをしているし、なによりすげえうるさい。あの甲高い声は寿命を縮める効果があるに違いない。顔をしかめてしまうほど不快なのだ。女子全員が全員そういう訳ではないだろうけど、やっぱり偏見というものを持っていた。
でも、女子と一緒のグループになることはないだろう、と高を括っていた。このクラスには幸い女子は八人しかいない。同じになる確率は普通科クラスよりずっと低いのだ。そうして余裕ぶっていた僕の安心感は、ものの見事にぶち壊されたのだった。
担任が発表したグループによると、僕の班には女子がひとり組み込まれていた。それが、松井さんだった。
僕は松井さんについての知識は皆無だったので、人柄も掴めないまま勝手に嫌なものの対象としてしまっていた。今思うとすごく申し訳ないし、そんな迂闊な判断をした自分が許せない。でもそのときは、僕が嫌いな、普通の女子のような人だと思っていたのだった。
グループの発表が終わると、担任の指示で仕方なくグループで集まり、机をおざなりにくっつけた。僕の班は三人で、ラッキーなことに友人の阪本も同じメンバーだったので安心した。とはいえ誰も喋らないから空気が重い。まわりの喧騒がどこか遠くに感じられる。僕は班分けの不満をぽこぽこ噴き出しながら、目の前の現状から必死で目を背けることしか出来なかった。
そんな沈黙を破ったのは、松井さんだった。
「あのさ、実験でなにかやりたいものとかある?」
その声に顔を上げると、ちょうど松井さんと目が合った。大きなアーモンド型の目に見つめられると、非常に居心地が悪い。ぎこちなく目を逸らそうとしたとき、松井さんの目が柔らかく横に伸びて微笑んだ。居心地の悪さはさらに増し、慌てて目を伏せる。意見を求められているんだからなにか言ったほうがいいと思案したけど、結局何も思いつかなかった。後頭部を掻きながら、僕は恐る恐る口を開いた。
「実験て言われても、なにやればいいかわかんないしな……」
横目で阪本を窺うと、俺もー、と手を挙げて同意してきた。……こいつ乗っかりやがって。
答えになっていない僕たちに対し腹を立てるか呆れるかすると思ったけど、松井さんは小さく笑った。
「だよね、私もわかんないわ。なんか適当なのちゃっちゃと選んじゃおうぜ」
変な空気にならず安堵したと同時に、その軽くさっぱりした物言いが僕の認識を少し変えた。
松井さんは、僕の嫌いな種類の人間じゃない。
僕の今までの憂鬱な気分が、後方へ流れていった。
この班でやる実験が空気砲に決まり、これから先準備や実演において肩身の狭い思いをすることはないだろう、と安心した。
もしかしたらこの時点で好きになりかけていたのかもしれない。
でも、決定的な恋心の芽生えは、もう少し時間が経ってからだ。
阪本はこのクラスの中で一番の友達だ。高校に入って初めて会ったやつだからまだ知らないところもあると思うけど、趣味や性格が似通っているのでとても話しやすい。まあ一応、信頼もおいている。
だから僕はこの決意を、阪本に伝えることにした。
「松井さんに告白、したいんだ」
ここのところずっと考えていたことだけど、いざ口にしてみると怖気づいてしまった。こんなのじゃ実行に踏み込めないだろうな。
横目で阪本を窺ってみたが、大きな反応は得られなかった。ただ一言、
「お前にしちゃ珍しい」
と言ったぐらいだった。
僕たちは何も言わず帰路を辿る。寒々しい空に、運動部の掛け声が遠く響いていた。青春というより空しさがつのる。なぜこうも四季の違いは捉え方を一変させるのだろう。冷たく凍えた風が一旦止むと、阪本は少し顔を上げた。
「こういうときにこう言おう、とか決まってるわけ?」
僕は答えられなかった。答えがなかったのだ。結局、考えた割になにも考えていなかったと知る。馬鹿すぎる。
僕が首を横に振ると、阪本は呆れたような顔をして駄目じゃねえか、と言った。実際そのとおりなので反論する気になれず、ただ俯くだけに留めた。
「じゃあ俺が協力してやろうか?」
この話はもう流れたのだろうと思っていたが、阪本は思わぬ救済の手を差し伸べてきた。
「協力?」
「そうそう。なんならクラスの有志集めてバックアップするとか良くないか?」
良くないか、ってなんだよ。
思わず阪本を見ると、どこか面白そうな表情を湛えていた。こいつ楽しんでやがる。
でも味方が大勢というのはすごく心強い。何に対しても冷め切ってしまう僕を奮い立たせ、背中を押してくれる存在となってくれるかもしれない。阪本の手の平の上で転がされるのは癪だが、こうなっては仕方がない。
「任せた」
「任された」
僕はこうして、大掛かりな告白をする羽目になった。
3
「松井さんのことが好きです」
冷気が隅々まで染み渡る教室で、僕はとうとう松井さんに告白した。
彼女はきょとんとした表情で僕を見つめている。あんまり見られると、言った時点ですでに赤い僕の顔が完全トマト化現象を引き起こすんだけど。
周囲にいる協力者が、固唾を飲んで見守っているのがよくわかる。阪本は楽しんでいるのかもしれないけど、いるだけで安心するので安上がりである。
僕はみんなに後押しされるように、真っ直ぐ松井さんの目を見つめた。冗談じゃなくて本当だ、という思いを込めて。
ただ呆然としていた松井さんの頬が、徐々に赤く染め上げられていく。目もあちこちへ泳ぎだす。きっと戸惑っているんだろう。少し悪い気もした。でも、今さら引き返せないし、そんな気もない。まだ言うことがあるんだ。
僕は、口を開こうとした。
そのとき、松井さんの両手が固く握られ、小刻みに震えているのが見て取れた。どうしたんだろう、もしかして僕のせいじゃなかろうかと思い、再び声を発しようとすると同時に松井さんはたっぷりと息を吸い込み、僕のうしろを指差した。
「あっ、猿ぼぼ!」
非常に不可解な叫びに導かれ、思わず振り返った。窓の外では体長五メートルの猿ぼぼがグランドを闊歩しているのも、雨のように降り落ちてくる猿ぼぼも見当たらない。そこにはいつもどおり、サッカー部の朝練風景が広がっているだけだ。
彼女は一体なにを見たのだろう。
首を捻りつつ体勢を元に戻すと、さっきまで目の前に立っていた松井さんの姿が忽然と消えていた。教室中が困惑に包まれ、ざわめきが広がった。僕は声を上げて疑問を口にすることはなかった。それはあまりにも突然で、状況を飲み込むことが出来なかったのだ。
なにがどうなっているのか掴めないでいると、廊下に出た一人のクラスメイトが焦りの入り混じった声を張り上げた。
「おい、逃げたぞ!」
ざわめきが最高潮に達した。次いで、追えという声も上がった。クラスメイトたちは教室のドアに詰めかけ、鰯の群れのように階段のほうへ駆けていく。こうして教室には僕と阪本の二人だけになった。
「どうすんの、追いかけないの?」
ぼうっとしていた僕は、阪本の静かな声にはっとした。見ると、僕に期待しているような、試しているような、読み取りにくい目をした阪本がこっちを見ていた。僕は唾を飲み込み、尋ね返す。
「お前は行かないのか?」
「戸田が行くなら俺も行くよ」
阪本はふざけているようには見えなかった。僕はようやく目的を固め、少し出遅れた宣言をする。
「僕たちも追いかけようか」
まだ終わってないし。
阪本は僕の言葉に頷くと、走って教室から出て行った。僕も急いで後を追う。
なぜ、とかそんなの後回しで、僕は僕のために松井さんを追いかけることにした。
4
自分の荒い息遣いが狭い空間にこだまする。聞いていると益々息苦しくなってきた。何度吸っても吸っても空気が足りていないみたいだ。邪魔だからとマフラーを無理矢理引き剥がした。途中間違えて首を絞めてしまったけど、外すと幾分か楽になった。ついでにコートも脱ぐ。走ったせいで熱いし、汗も少し掻いている。
しばらく呼吸をすることに集中し、息を整えた。脇腹の痛みが治まったところで通常の呼吸リズムに戻ってきた。ほっと大きく息を吐く。
外からはなんの音もしない。人間の気配もないようだ。一応確認のために便座の蓋に乗り、そっと小窓から外の様子を窺う。さっきまでそこを走り回っていたクラスメイトはもういない。別の場所へ行ったのだろう。上手く撒けたみたいだ。
安心したらどっと疲れが押し寄せてきた。便座の上にへたり込み、学校の近くに公民館という隠れ場所があったことに感謝する。正直追っ手がここまで来たときはもう終いかと覚悟したけど、まさか男子便所にいるとは思わなかったのだろう、勇気ある男子諸君は女子便所には踏み入ったものの、それ以上の捜索を打ち切り、四方に散っていった。
しかし、花も恥らう乙女がなんの躊躇もなく男子便に突入するというのは少々問題だ。いや、大問題だ。クラスメイトもどこかへ行ったみたいだし、早く退散して次の隠れ場を見つけないと。
私はコートを羽織りマフラーを鞄に突っ込むと、警戒しながら男子便所のドアを開けた。
「……」
「……」
散歩中と思しきお爺さんと目が合った。
やばいやばいやばいやばい……!男子便所から女子高生出てきちゃまずいだろ!
なにか言い訳を、と脳細胞をフル稼働させていると、お爺さんが鋭い一手を放った。
「あんたなにしとるんや」
頭の中が真っ白になった。一日に何回真っ白にすれば気が済むんだと文句を言ってやりたいが、文句を言う相手がいない。そんなことを考えていることがもう末期だった。
正直にいえばとてつもなく長くなるし、まず信じてもらえないだろう。ではなにか上手い言い訳でもあるのかと問われればなにもない。そんな中私はなにかを必死に搾り出し、
「趣味なんです」
と口走った。もう人生終わったと思った。
お爺さんはなにか思案するように顎に手を当て、私を不躾にじろじろ眺める。私の心臓は早鐘のように鳴り出していた。もう駄目だ――――そう思ったとき。
「最近の高校は女装して行ってもええことになっとるんかね?」
と、お爺さんが不思議な質問をしてきた。
ん?
もしかしてこのお爺さん、私を女ではなく男として捉えているのではないか。なんて都合の良い勘違いだろうか。乗っかるに決まっている。私は縋るように前のめりで頷いた。
「あ、はい。そんな感じです」
ふうん、と唸るご老人の顔に、疑惑の色は浮かんでいない。これもしかして本気で信じられているんじゃないか?私は恐る恐る口を開く。
「友達には、よく似合うって言われるんですよ」
私の言葉に、お爺さんは目を細めた。心臓が変な拍動のリズムを刻む。
「確かによう似合うとるわ。可愛らしい顔立ちしとるもんな」
顔を綻ばせながらそんなことを言われた。これは間違いなく私を男だと信じ込んでいる。罪悪感がちょっぴり湧いた。
とにかく、上手く誤魔化せたのでさっさと立ち去らなければ。
「それでは僕、学校があるのでこれにて」
「おう、気をつけて行きいよ」
ご老人に手を振り見送られながら、国道のほうへと走る。嘘を吐いてしまったのは悪いけど、今は逃げることに専念するんだ。
私は鞄のベルトをしっかり握り締め、必死に足を動かした。