何が彼を狂わせたか
15年前・冬――
東京都内の病院にて、一人の女の子が産まれた。
一男一女の子供に恵まれ、幸せに顔を綻ばせる夫婦。特殊な生い立ちで粗暴な所はあるが優しい夫と、それを陰日向に支え続けてきた妻。跡継ぎとなる息子も健康に育ち、そして珠のような可愛らしい赤子まで授かった。夫からすれば出来すぎだと思えるほど、その人生は穏やかだった。
息子の名を陣、女の子の名は水穂と言う。
陣は人の中に於いて尚強く輝けるようにと願われ、水穂は水を吸い逞しく伸びる穂のように健やかであれと、二人共に祈りを込めて名付けられた。
保育器に入れられた赤子を眺め、夫婦は自分達の未来を話し合った。それは暗い影の忍び寄る隙もない、幸せな家庭の姿だった。
そう。この日この時が、夫婦の幸せの絶頂であった。
妻は身体の弱い女であったが、奇跡的なほどに産後の肥立ちもよく、程なくして退院の運びとなった。
おくるみに包まった赤子を抱き、病院の待合室で夫を待つ妻。自宅に戻ればまたあの騒がしくも懐かしい子育ての日々。赤子を揺らしながら子守唄を歌う女性を見て、通り過ぎる医師や看護師は皆笑みを浮かべ会釈していく。無事に退院していく母親は一様に幸せそうでは有るのだが、彼女のそれは見慣れた医師達からみても微笑ましいものであった。
夫は息子の手を引き妻の元へと急いでいた。途中で乗る予定だった電車が人身事故により遅れ、退院予定時間から大幅にずれ込んでしまったのだ。だが、病院へと急ぐ夫の足取りは軽い。折しも季節はクリスマスを直前に控えた冬。街は昼でも尚明るいイルミネーションに彩られ、息子が聞こえてくるクリスマスソングをなぞって歌っている。
自分にとって、娘が最高のクリスマスプレゼントだ。そう思いながら、息子を肩車してやり足早に病院へ向かう。
病院まであと少し。道路を挟んだ場所まで辿り着いた夫を見つけ、妻は笑顔で横断歩道まで近寄った。
信号が変わるまでほんの数分。もし、この時立ち止まらずに渡れていれば、運命はまた違ったものになっていただろう。
大型のトラックが夫の視界から妻を隠し、トラックが通過したそこには腹部を刺され蹲る妻の姿があった。
冬の冷たい空気を悲鳴が切り裂く。
夫は信号が変わるのも待たず、息子を肩に背負ったまま駈け出し妻の元へ。
妻を刺した者の姿は既に無く、悲鳴を聞きつけた病院の職員が慌てて医者を呼びに行く。
ストレッチャーで運ばれていく妻は、必死に血を止めようと押さえつけられた夫の手を取り、血塗れになりながらも笑みを浮かべこう言った。
「この子たちの事、よろしく頼みます」
と。
妻は退院したばかりの病院に搬送され、医者たちの懸命な治療も虚しく帰らぬ人となった。
事件の事を聞きつけ飛んできた父を前に、夫は虚ろに尋ねる。「何が悪かったんだ」と。父は「悪いのは刺した奴だ、お前じゃない」と言う。妻は荼毘に付され、命の残滓のように棚引く煙を眺めながら父は「戻ってこい」と言う。幼い息子と乳飲み子を抱え、男一人で育てるのはさぞ辛かろうと。
生死など分からないであろうが何か悲しい事があったのだと気づいた息子は泣きじゃくり、冬の冷気に頬を赤くした赤子を見て、夫は力なく父に頷くしか無かった。
ここまでは、よくある悲劇の形だろう。母親を不幸にも失い、子供と父親が心に傷を負いながらも支え合いながら生きていく。不幸ではあったが、それが普通の家族の形だったのだろう。
だが、父親は『普通』の人ではなかったのだ。
愛する人を失ったという恨みは澱み、それを糧にして殺意が芽を出す。
妻を刺した犯人は薬漬けの異常者だった。精神鑑定の後に無罪となる可能性が高いと検察から聞かされ、激昂する父を横目に男は静かに復讐を決意する。馬鹿な事は考えるなという父を、馬鹿はどちらだと詰る夫。復讐を止めようとする父と殺し合いまでして家を出た。
芽吹いた殺意は大輪の花を咲かせ、夫は子供を置いて姿をくらました。
程なくして街にニュースが流れる。
それは、とある病院に隔離されていた心神喪失を理由に無罪になった者が、惨たらしく殺されたとの報だった。
そして、その者に薬を売っていた暴力団組織が、一夜の内に壊滅したと。
街に巣食う厄の種が一掃されたというセンセーショナルなニュースは瞬く間に駆け巡り、その犯人像も含めて様々な議論が為された。だが、それがたった一人の男の手によって為されたと気付くものは無く、関係者が全員殺されていたことから捜査は難航し、いつしか語られることもなくなった。
男は復讐を終えても家に戻ることはなく、幸せの象徴だった子供たちにすら背を向けて消えた。
男の名を相馬烈。
本来であれば相馬流の次期当主。60代目『争魔』になる筈だった男が、狂気に墜ちる切っ掛けとなった事件である。
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10年前・夏――
この年の夏は記録的な猛暑だった。
陣と水穂の二人は祖父である権江の必死の子育ての甲斐もあって、父母がいないながらも健やかに育っていた。
相馬家があるのは『ど』が付く田舎。近隣住民の来訪も数えるほどしか無い自宅で、よくもここまで素直に育ったものだと感心するほど。『親がなくても子は育つ』とはよく聞くが、まさに文字通りだと権江は思う。
陣は小学四年生になっており、夏休みの自由研究だと言って水穂と共に裏山を駆けまわっている。
水穂は幼稚園に通う年頃なのだが、地域の事情もあり自宅で面倒を見ていた。本来であれば幼稚園で育まれるはずの社交性も、多少引っ込み思案という程度で収まっているのだから大したものだろう。
とはいいつつもまだまだ手がかかる年頃の二人だ。母親代わりになる女性の手が欲しいところだが生憎と権江は妻に先立たれて久しく、頼めるような女性も『辛うじて性別は女性』といった者ばかりなので迂闊に頼むわけにもいかない。食事事情も決していいものだとは言いがたい。権江一人であれば粗食でも問題無いのだが、育ち盛りの子供にそれを押し付けるのは無理がある。
幸いと言うのは良くないが、陣が料理に興味を示しているという事もある。そのうちにしっかりと学ばせる機会を用意してやりたい。いつかは陣にも相馬流を教えてやるつもりだが、今は伸び伸びと育って欲しい。そう思っていた。
だが、そんな権江の想いは叶うことがなかった。
運命の日。権江の知人が猛暑に当たり体調を酷く崩してしまったとの連絡があった。権江よりも高齢で、いつお迎えが来ても不思議はない。下手をすると今生の別れとなるやもと、半日ほど自宅を留守にする事にしたのだ。幼い二人のみで留守番させることに心咎めたので手助けしてくれる者を手配したが、何事かあったのかいつまで待ってもやって来ない。自宅にはモバイルフォンの電波は来ているが、あまりにも田舎のためそれが届かない場所にでも居るのだろう。連絡すらつかない状況のまま時だけが過ぎていく。
そわそわと落ち着きなく過ごしていると、あまりの暑さに辟易としながら陣と水穂が戻ってきた。権江の様子を見て得心するものが合ったのか、今日の事を先日聞かされた二人は口々に言う。
「じいちゃん。そんなに心配なら行っちゃえよ。留守番くらい僕らだけでも出来るから」
「じーちゃま、いっちゃえよー」
「そうですか。では、すいませんが二人にお任せします。
半日ほどで戻りますが、来られる方にはよろしく伝えて下さい」
陣の言葉と、舌足らずにそれに追随する水穂に相好を崩し、ひとしきり頭を撫でると権江は急いで荷物をまとめた。
後に権江はこの日のことを死ぬ程後悔する事になる。何故、手助けに来る者の人相や名前をちゃんと伝えなかったのか。いや、そもそも相手がまだ来ていないのに何故出かけてしまったのかと。それで防げない事だったとは理解しているが、何かやりようがあったのではと自責の念は未だに持ち合わせている。
例え気が急いていても、何故二人の事を第一に考えられなかったのかと。
飛ぶように自宅から駈け出した権江を見送り、陣は昼食を作りに台所へ、水穂は一人で庭に絵を描き始めた。
小学四年の子供が作る飯など大層な物ではないが、料理らしい料理がまったく出来ない権江に比べればまだマシな物を作るのだ。自分と妹の食事事情は、陣一人が一身に背負っていると言って過言ではない。
一時間ほど経ち、日が頂点を差した頃。
陽炎が立つ道を、道よりも蜃気楼のように揺らめいた者が相馬の家を見上げていた。その表情には嘲笑が浮かび、不穏な雰囲気をまき散らす。庭で遊んでいた水穂を見つけ、近寄った男の影が少女の手元を遮った。
水穂が見上げると、そこには夏だというのに真っ黒な服を着こみ、ざんばらになった髪を適当に後ろで縛った男がいた。筋肉に鎧われた身体つきなのは権江の知り合いだからだろうか。そういった知人が多い人物であっただけに、逆に水穂は警戒心を覚えずにただ不思議そうな顔をするのみ。逆光になり顔が見えない男に首を傾げて言う。
「おじちゃんだーれ?じーちゃまがいってたひと?」
「まぁそんな所だ。お前水穂か?でっかくなったモンだなぁ。目元なんて母親そっくりだ。
所で陣はどこにいるんだ?」
「だいどころ。ごはんつくってるよ」
「かー……、本当か。相馬の男が料理だと?親父はどんな事を教えてやがるんだ、情けねえ」
男はひょいと水穂を小脇に抱え、ずかずかと家へと上がり込んだ。何かの遊びかとはしゃぐ水穂を無視し、勝手知ったる5年ぶりの『我が家』を歩く。
本当に碌でもない家だ。力の使い方を間違えた、人としての在り方を履き違えた者が住まう場所。本当ならここも焼き払ってやりたい所だが、そんな嫌がらせでは根本は殺せない。
そうだ、相馬に根付く『根本』は、男がどんなに強くなろうが消し去ることなど出来はしないのだ。
ならばせめて、自分の息子には『正しい在り方』を教えてやらねばならない。
俺達は生まれ落ちたその日より『鬼』であるのだから、と。
男は既にして自覚的に狂っていた。その自身の狂気を、息子に継がせるために戻ってきたのだ。
台所より漂う家庭的な匂いに、男は唾でも吐きそうな思いを抱く。
踏み台を使って調理している少年の背後に男は立ち、陣に向かって声をかけた。
「よぉー陣。久しぶりだ。お前もでっかくなったなぁ」
訝しげに振り返った陣が、驚愕に目を見開く。
忘れるはずもない。5年間消息不明だった父親が、自分の前に姿を表したのだから。
そして、陣は権江に言い含められていたことを思い出す。陣と水穂の父親は、最早『父親』では無くなっているかも知れないと。それでなくとも母親を失ったという時期に、自分達を捨てた男なのだ。その男が、自分の妹を抱えている。その状況は陣からすれば『人質に取られている』ようにしか見えなかった。
「水穂を離せクソオヤジ!」
「おーおー、元気いっぱいってか。日和ってる割にはいい反応じゃねえか」
持っていたおたまで殴りかかった陣の手を容易く掴み、軽い身体を捻り上げる。肉付きの薄い貧弱な身体。まずは肉を喰わせ肥えさせる所から始めなければならない。こんな身体では、連れて行く先では生き残ることすら出来ないだろう。
暴れる陣の耳元に口を近づけ、『相馬烈』は囁くように言った。
「感謝しろ、お前の鬼を芽吹かしに来てやった」
烈は無造作に息子を投げ飛ばし、柱に叩きつけられた陣の意識は混濁する。せめて水穂だけは逃がそうと必死に手を伸ばすが、そこで力尽きて気絶してしまった。男の行状を見て泣きだ出した水穂の首に手刀を入れ、気絶させてから陣と共に背負う。
「っは。陣にだけしか用事はなかったが、水穂の事をいい塩梅に大事にしてるみてえじゃねえか。
親愛の情なんざ反吐が出るが、まぁいいさ。言うこと聞かせる餌代わりに一緒に連れて行ってやるよ」
烈は相馬家を立ち去り、後には誰も居なくなった。
数時間後――
権江の元に凶報が届く、留守番をしている陣達の世話を頼んだ者が殺されたと。
急いで戻った家からは、子供達の姿は消え失せていた。伝手を頼りに検死に立ち会い、その傷が紛れも無く烈の手によるものだと気づいた権江だったが、その後の必死の捜索を嘲笑うかのように杳として行方は分からないままだった。
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陣と水穂が相馬家より拐かされた時より二年後――
熱波と砂が吹き荒れる中東。その身と心を擦り減らし、銃火絶えない地に陣はいた。
少年らしい快活さはそこには無く、暗い輝きをその瞳に灯しながら。




